第6話:現実主義者の決断
公爵邸からの帰り道、リリアーナの足取りは、まるで雲の上を歩いているかのように覚束なかった。
手には、父直筆の手紙の記憶が鮮明に残っている。あの文字は、確かに父のものだった。筆跡を偽造することなど、不可能だろう。
しかし、それ以上に彼女の心を掻き乱していたのは、アシュトンの奇妙な提案と、それに対する自分の激しい怒りだった。
「契約結婚……」
辻馬車に揺られながら、リリアーナはその言葉を反芻していた。
結婚を「契約」と呼ぶなど、これまで聞いたこともない。まるで、商取引のように女性を扱う、冒涜的な発想。それも、この国で最も高貴とされる公爵からの提案だった。
だが、同時に彼女の現実主義的な一面が、冷静に状況を分析していた。
父の遺した借金は、まさに限界に達している。返済期限は目前に迫り、もはや打つ手はほとんど残されていない。そんな中で、ロックウェル公爵家からの援助は、まさに天からの救いの手とも言えるものだった。
たとえそれが、どれほど屈辱的な形であったとしても。
自室に戻ったリリアーナを、執事のロイドが心配そうに迎えた。
「お嬢様、いかがでしたか?」
「ロイド……」
リリアーナは、疲れきった表情で椅子に腰を下ろした。
「公爵閣下は、確かに援助を申し出てくださいました。ですが……」
彼女は、父の手紙の件と、契約結婚の提案について、ロイドに説明した。老執事は、話を聞くうちに、その表情を複雑に変化させていった。
「先代のお手紙が……」
「ええ。間違いなく、父の筆跡でした。公爵閣下が偽造をなさるはずもありませんし」
「しかし、契約結婚とは……」
ロイドも、その奇妙な制度に困惑していた。
「確かに、前例のない話ですな。ですが……」
老執事は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「公爵閣下のお気持ちも、理解できないわけではございません。単純な金銭援助では、お嬢様の誇りを傷つけることになりましょうし、かといって他に適切な方法も……」
「ロイド」
リリアーナは、執事の言葉を遮った。
「あなたは、わたくしがその提案を受け入れるべきだと思いますか?」
ロイドは、長い間沈黙した。そして、ゆっくりと口を開いた。
「お嬢様。私は、この家に長年お仕えしてまいりました。先代のお人柄も、奥方様のお優しさも、そしてお嬢様のお強さも、よく存じ上げております」
彼の声には、深い情愛が込められていた。
「ですが、現実というものは、時として私たちの誇りよりも重いものでございます。この家を、この土地を、そして何より、お嬢様ご自身を守るためであれば……」
ロイドの言葉は、リリアーナの心に重くのしかかった。
それは、彼女自身が考えていたことと、全く同じだったからだ。
しかし、その夜、リリアーナは別のことで深く悩んでいた。
「わたくしは……何ということをしてしまったのでしょう」
一人自室にいる時、昨日の出来事を冷静に振り返ると、自分の態度がいかに軽率だったかが身に染みた。
相手は、この国で最も高い地位にある公爵だった。たとえ奇妙な提案だったとしても、あのような感情的な反応を示すべきではなかった。
身分の差というものは、厳然として存在する。子爵家の令嬢が、公爵に対してあのような態度を取ることは、明らかに礼を失している。
「お母様だったら、決してあのような……」
母は、いつも冷静で、品位を保つことを何よりも大切にしていた。たとえどんな理不尽なことがあっても、感情に流されることはなかった。
それなのに、自分は……。
一方、その頃。
ロックウェル公爵邸の執務室で、アシュトンは一人、深い後悔に沈んでいた。
「愚かだった……」
彼は、机に肘をつき、両手で顔を覆っていた。
リリアーナが去った後、彼は自分の行動を振り返っていた。そして、あの提案がいかに軽率で、相手を傷つけるものだったかを、ようやく理解したのだ。
これまでの人生で、アシュトンが何かを提案して拒絶されることなど、一度もなかった。【幸運の呪い】が、常に最良の結果をもたらしてくれていたからだ。
だが、今回は違った。
リリアーナがそばにいたせいで、呪いは発動しなかった。そして、その結果として、彼は生まれて初めて、相手を怒らせ、傷つけ、完全に拒絶されるという経験をしたのだ。
「これが……失敗するということか」
アシュトンは、苦々しく呟いた。
「失敗とは、こんなにも苦しいものなのだな」
胸の奥で、鈍い痛みが渦巻いている。それは、これまで感じたことのない感情だった。後悔、自責、そして……喪失感。
リリアーナの怒りに満ちた表情が、脳裏に蘇る。
『わたくしは、物ではありません』
あの言葉が、彼の心に深く突き刺さっていた。
「俺は……何をしていたんだ」
アシュトンは、深いため息をついた。
彼女を助けたいという気持ちは本物だった。だが、その方法が、あまりにも浅慮だった。相手の気持ちを考えず、自分の都合だけで提案を押し付けてしまった。
そして、初めて気づいたのだ。
【幸運の呪い】に慣れきった自分が、いかに他人の感情に鈍感になっていたかを。
常に物事がうまくいく人生の中で、彼は「失敗する可能性」を考慮することを、完全に忘れていたのだ。
「明日、どんな顔をして彼女に会えばいいんだ……」
アシュトンは、初めて味わう挫折感に打ちのめされていた。
夜が更けても、リリアーナは眠れずにいた。
ランプの灯りの下、彼女は再び帳簿を広げ、現実と向き合っていた。
借金の総額、返済期限、残された資産。どれを見ても、状況は絶望的だった。
母の形見のドレスを売ったところで、焼け石に水。せいぜい一月分の生活費にしかならない。
「現実を見なさい、リリアーナ」
母の言葉が、再び心に響いた。
感情論だけでは、この状況は打開できない。誇りも大切だが、まずは生き延びることが先決だ。
リリアーナは、ペンを取ると、一枚の紙の中央に線を引いた。左に「利点」、右に「欠点」。まるで、商人が取引の損得を計算するように。
利点の欄に書き出す。
一、グレイ子爵家の借金が、すべて解決される。
二、先祖代々の屋敷と土地を、手放さずに済む。
三、一年間という期限があるため、永続的な束縛ではない。
四、父の遺志に従うことができる。
次に、欠点の欄。
一、「契約結婚」という、前例のない制度への参加。
二、自分の意思とは関係なく、一年間拘束される。
三、契約が露見した場合、スキャンダルは免れない。
四、公爵閣下の真意が不明。
ペンを置き、リリアーナは両腕を組んで、じっと紙を見つめた。
感情的には、あの提案を受け入れることなどできない。女性として、貴族として、あまりにも屈辱的だ。
だが、現実的に考えれば……。
「選択の余地など、はじめからなかったのかもしれないわね」
リリアーナは、ふっと自嘲気味に笑った。
これは、感情の問題ではない。生存の問題なのだ。
崖っぷちに立たされた彼女にとって、アシュトンの提案は、唯一の命綱だった。
たとえそれが、どれほど不本意なものであったとしても。
「お母様、お父様……」
リリアーナは、両親の肖像画を見上げた。
「どうか、お許しください」
翌日の午後。
再び公爵邸を訪れたリリアーナは、アシュトンの前に立つと、まず深々と頭を下げた。
「公爵閣下。昨日は、あまりに軽率な態度を取ってしまい、心よりお詫び申し上げます」
アシュトンは、予想していなかった謝罪に、わずかに驚いた表情を見せた。
「わたくしは、身分をわきまえず、感情に任せて閣下にお言葉を返してしまいました。子爵家の令嬢として、あるまじき振る舞いでございました」
リリアーナの声は、昨日とは打って変わって、深い反省に満ちていた。
「どうか、この愚かな娘をお許しください」
彼女は、そのまま頭を下げ続けた。その姿は、昨日の激怒した令嬢とは別人のようだった。
「……顔を上げてくれ」
アシュトンが、静かに言った。
「君の怒りは、もっともなものだった。謝罪すべきは、私の方だ」
リリアーナは、ゆっくりと顔を上げた。
「昨晩、一晩考えさせていただきました」
「……それで、答えは?」
アシュトンが、わずかに緊張した面持ちで問いかける。
リリアーナは、その青い瞳をまっすぐに見つめ返し、貴族令嬢として教え込まれた中で、最も完璧で、そして最も心のこもっていない淑女の笑みを、ゆっくりと浮かべた。
「条件を、一つ追加させていただければ」
「条件?」
「ええ。この契約は、あくまで『業務』であることを、明確にしていただきたいのです」
リリアーナの声は、どこまでも冷静だった。
「わたくしは、一年間という期限付きで、ロックウェル公爵夫人としての『役割』を演じる。それ以上でも、それ以下でもない、と」
アシュトンは、彼女の言葉に、わずかに眉をひそめた。
「つまり……」
「はい。喜んで、お受けいたします」
リリアーナは、机の上に置かれた契約書に、さらさらと自分の名を署名する。その流れるような動きに、アシュトンが息をのんだ。
「本日より一年間、わたくしリリアーナ・グレイは、職業として、アシュトン・ロックウェル公爵閣下の完璧な妻を、演じさせていただきますわ」
その声は、どこまでも冷静で、そして、少しだけ楽しんでいるかのようにさえ、響いた。
こうして、利害と打算と、そして双方のプライドから、二人の奇妙な契約結婚生活は、幕を開けたのだった。