第5話:契約結婚
静寂が、重く執務室にのしかかる。
リリアーナは、アシュトンが「実際に見てもらう」と言った言葉の意味を、測りかねていた。一体、何を見せるというのだろうか。
「まず、君に謝らなければならないことがある」
アシュトンは、意外にも謝罪の言葉から始めた。
「本来であれば、もっと早く君に手を差し伸べるべきだった」
彼は、執務机の引き出しから、古い羊皮紙を取り出した。それは、年月を経て少し黄ばんでいるが、丁寧に保管されていたことが分かる。
「これは、亡き父の遺品の中から見つかったものだ。君の父君、先代グレイ子爵からの手紙だ」
リリアーナは、驚きの表情を浮かべた。
「父から……ですか?」
「読んでみてくれ」
差し出された手紙を受け取り、リリアーナは慎重に開いた。そこには、確かに父の筆跡で、このような内容が記されていた。
『ロックウェル公爵閣下 いつもお世話になっております。もしも私の身に何かあった折には、娘のリリアーナのことを、どうかお見守りいただければと存じます。微力ながら、グレイ家も公爵家のお役に立てるよう、精進いたします』
「これは……」
リリアーナの手が、わずかに震えた。父が、ロックウェル公爵家に、自分のことを託していたなど、聞いたこともなかった。
「君の父君は、私の父と親交があった。領地経営について、時折相談を受けていたのだ」
アシュトンの説明は、もっともらしく響いた。
「しかし、この手紙の存在に気づいたのは、つい最近のことだ。君の困窮を知り、父の遺品を整理している時に見つけた。君の父君の願いを、これまで無視していたことになる」
リリアーナは、複雑な表情で手紙を見つめていた。父が、まさかこのような手紙を……。
「それで、君の状況を調べさせてもらった。そして、何とか力になりたいと考えたのだが……」
アシュトンは、少し言いにくそうに続けた。
「問題は、どのような形で援助するかだ。単純に金銭を提供するだけでは、君の誇りを傷つけることになるだろう。かといって、君を下女として雇うわけにもいかない。グレイ家は歴史ある子爵家だ」
リリアーナは、そこまで聞いて、ようやくアシュトンの意図を理解し始めた。
「それで……契約結婚、ということでしょうか?」
「そうだ。対外的には、私の妻として遇する。しかし、実際には契約に基づく関係だ。君の尊厳を保ちながら、同時に君の家の危機を救うことができる」
アシュトンの説明は、一見すると合理的に思えた。しかし、リリアーナの心には、別の感情が渦巻いていた。
「契約結婚……」
その言葉を反芻しながら、リリアーナの表情が次第に険しくなっていく。
「つまり、期間限定の結婚、ということでしょうか?」
「一年間を予定している。その間に——」
「その間に、わたくしを『査定』するということですか?」
リリアーナの声に、明らかな怒りが込められた。
「気に入らなければ、契約期間満了と共にお払い箱。そういうことでしょう?」
アシュトンは、リリアーナの怒りに戸惑った。彼の意図とは違う解釈をされているようだった。
「いや、そうではない。君を査定するなど——」
「では、何のための『契約』なのですか!」
リリアーナは、ついに立ち上がった。その瞳には、侮辱された貴族としての怒りが燃えている。
「結婚とは、本来、愛し合う二人が永遠の契りを交わすものです。それを『契約』だの『期間限定』だの……!」
彼女の声が、執務室に響き渡る。
「わたくしが没落したからといって、そこまで侮辱されなければならないのですか!」
アシュトンは、リリアーナの怒りを予想していなかった。彼にとっては、合理的で双方にとって有益な提案のつもりだったのだ。
「君を侮辱するつもりはない。ただ——」
「ただ、何ですか?」
リリアーナは、アシュトンを睨みつけた。
「公爵閣下には、『契約結婚』などという奇怪な制度が、当然のことと思われるのでしょうか? わたくしは、そのような話、聞いたこともございません!」
確かに、契約結婚など、この世界でも前例のない奇妙な制度だった。リリアーナの怒りは、もっともなことだった。
「グレイ家は確かに困窮しております。ですが、それでも代々続く子爵家です。その娘を、まるで商品のように『契約』で雇うなど……!」
リリアーナの怒りは、正当なものだった。貴族としての誇りと、女性としての尊厳を踏みにじられたと感じているのだ。
アシュトンは、自分の説明が不十分だったことを悟った。だが、真実——呪いのことや、リリアーナに対する特別な感情について——を打ち明けることはできない。
「……君の気持ちは理解できる」
アシュトンは、ゆっくりと頭を下げた。
「確かに、私の提案は奇異に聞こえるだろう。だが、他に良い方法が思い浮かばなかった」
リリアーナは、アシュトンが頭を下げる姿に、一瞬、動揺した。この国で最も高い地位にある男が、自分のために頭を下げている。
「わたくしは……」
彼女の声が、わずかに震えた。
「わたくしは、物ではありません。誰かの所有物でもありません。たとえ困窮していても、グレイ家の娘としての誇りは捨てておりません」
アシュトンは、顔を上げ、リリアーナを見つめた。その瞳の奥に、彼女の強さと誇りを見て取った。
「……君の言う通りだ」
彼は、静かに認めた。
「私の提案は、確かに君を侮辱するものだった。謝罪する」
リリアーナは、アシュトンの素直な謝罪に、少し拍子抜けした。
「では……」
「だが」
アシュトンは、続けた。
「君の父君との約束だけは、果たしたい。何らかの形で、君の力になりたいのだ」
彼の声には、偽りのない誠意が込められていた。
「時間をくれ。もう一度、君の尊厳を損なわない方法を考えてみる」
リリアーナは、アシュトンの言葉を聞きながら、複雑な心境だった。怒りは収まらないが、彼の誠実さも感じ取れた。
「……一日、お時間をいただけますでしょうか」
ついに、彼女が口を開いた。
「わたくしも、この件について考えさせていただきたく」
「承知した」
アシュトンは頷いた。
「明日の同じ時刻に、改めてお話しを」
リリアーナは、父の手紙を慎重にアシュトンに返すと、深々と頭を下げて執務室を後にした。
廊下を歩きながら、彼女の心は大きく揺れていた。
父の最後の願い。家の危機。そして、自分の誇り。
すべてが複雑に絡み合って、答えが見つからない。
(わたくしは……どうすべきなのかしら)
リリアーナの迷いは、深まるばかりだった。