表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/16

第5話:契約結婚

静寂が、重く執務室にのしかかる。


リリアーナは、アシュトンが「実際に見てもらう」と言った言葉の意味を、測りかねていた。一体、何を見せるというのだろうか。


「まず、君に謝らなければならないことがある」


アシュトンは、意外にも謝罪の言葉から始めた。


「本来であれば、もっと早く君に手を差し伸べるべきだった」


彼は、執務机の引き出しから、古い羊皮紙を取り出した。それは、年月を経て少し黄ばんでいるが、丁寧に保管されていたことが分かる。


「これは、亡き父の遺品の中から見つかったものだ。君の父君、先代グレイ子爵からの手紙だ」


リリアーナは、驚きの表情を浮かべた。


「父から……ですか?」


「読んでみてくれ」


差し出された手紙を受け取り、リリアーナは慎重に開いた。そこには、確かに父の筆跡で、このような内容が記されていた。


『ロックウェル公爵閣下 いつもお世話になっております。もしも私の身に何かあった折には、娘のリリアーナのことを、どうかお見守りいただければと存じます。微力ながら、グレイ家も公爵家のお役に立てるよう、精進いたします』


「これは……」


リリアーナの手が、わずかに震えた。父が、ロックウェル公爵家に、自分のことを託していたなど、聞いたこともなかった。


「君の父君は、私の父と親交があった。領地経営について、時折相談を受けていたのだ」


アシュトンの説明は、もっともらしく響いた。


「しかし、この手紙の存在に気づいたのは、つい最近のことだ。君の困窮を知り、父の遺品を整理している時に見つけた。君の父君の願いを、これまで無視していたことになる」


リリアーナは、複雑な表情で手紙を見つめていた。父が、まさかこのような手紙を……。


「それで、君の状況を調べさせてもらった。そして、何とか力になりたいと考えたのだが……」


アシュトンは、少し言いにくそうに続けた。


「問題は、どのような形で援助するかだ。単純に金銭を提供するだけでは、君の誇りを傷つけることになるだろう。かといって、君を下女として雇うわけにもいかない。グレイ家は歴史ある子爵家だ」


リリアーナは、そこまで聞いて、ようやくアシュトンの意図を理解し始めた。


「それで……契約結婚、ということでしょうか?」


「そうだ。対外的には、私の妻として遇する。しかし、実際には契約に基づく関係だ。君の尊厳を保ちながら、同時に君の家の危機を救うことができる」


アシュトンの説明は、一見すると合理的に思えた。しかし、リリアーナの心には、別の感情が渦巻いていた。


「契約結婚……」


その言葉を反芻しながら、リリアーナの表情が次第に険しくなっていく。


「つまり、期間限定の結婚、ということでしょうか?」


「一年間を予定している。その間に——」


「その間に、わたくしを『査定』するということですか?」


リリアーナの声に、明らかな怒りが込められた。


「気に入らなければ、契約期間満了と共にお払い箱。そういうことでしょう?」


アシュトンは、リリアーナの怒りに戸惑った。彼の意図とは違う解釈をされているようだった。


「いや、そうではない。君を査定するなど——」


「では、何のための『契約』なのですか!」


リリアーナは、ついに立ち上がった。その瞳には、侮辱された貴族としての怒りが燃えている。


「結婚とは、本来、愛し合う二人が永遠の契りを交わすものです。それを『契約』だの『期間限定』だの……!」


彼女の声が、執務室に響き渡る。


「わたくしが没落したからといって、そこまで侮辱されなければならないのですか!」


アシュトンは、リリアーナの怒りを予想していなかった。彼にとっては、合理的で双方にとって有益な提案のつもりだったのだ。


「君を侮辱するつもりはない。ただ——」


「ただ、何ですか?」


リリアーナは、アシュトンを睨みつけた。


「公爵閣下には、『契約結婚』などという奇怪な制度が、当然のことと思われるのでしょうか? わたくしは、そのような話、聞いたこともございません!」


確かに、契約結婚など、この世界でも前例のない奇妙な制度だった。リリアーナの怒りは、もっともなことだった。


「グレイ家は確かに困窮しております。ですが、それでも代々続く子爵家です。その娘を、まるで商品のように『契約』で雇うなど……!」


リリアーナの怒りは、正当なものだった。貴族としての誇りと、女性としての尊厳を踏みにじられたと感じているのだ。


アシュトンは、自分の説明が不十分だったことを悟った。だが、真実——呪いのことや、リリアーナに対する特別な感情について——を打ち明けることはできない。


「……君の気持ちは理解できる」


アシュトンは、ゆっくりと頭を下げた。


「確かに、私の提案は奇異に聞こえるだろう。だが、他に良い方法が思い浮かばなかった」


リリアーナは、アシュトンが頭を下げる姿に、一瞬、動揺した。この国で最も高い地位にある男が、自分のために頭を下げている。


「わたくしは……」


彼女の声が、わずかに震えた。


「わたくしは、物ではありません。誰かの所有物でもありません。たとえ困窮していても、グレイ家の娘としての誇りは捨てておりません」


アシュトンは、顔を上げ、リリアーナを見つめた。その瞳の奥に、彼女の強さと誇りを見て取った。


「……君の言う通りだ」


彼は、静かに認めた。


「私の提案は、確かに君を侮辱するものだった。謝罪する」


リリアーナは、アシュトンの素直な謝罪に、少し拍子抜けした。


「では……」


「だが」


アシュトンは、続けた。


「君の父君との約束だけは、果たしたい。何らかの形で、君の力になりたいのだ」


彼の声には、偽りのない誠意が込められていた。


「時間をくれ。もう一度、君の尊厳を損なわない方法を考えてみる」


リリアーナは、アシュトンの言葉を聞きながら、複雑な心境だった。怒りは収まらないが、彼の誠実さも感じ取れた。


「……一日、お時間をいただけますでしょうか」


ついに、彼女が口を開いた。


「わたくしも、この件について考えさせていただきたく」


「承知した」


アシュトンは頷いた。


「明日の同じ時刻に、改めてお話しを」


リリアーナは、父の手紙を慎重にアシュトンに返すと、深々と頭を下げて執務室を後にした。


廊下を歩きながら、彼女の心は大きく揺れていた。


父の最後の願い。家の危機。そして、自分の誇り。


すべてが複雑に絡み合って、答えが見つからない。


(わたくしは……どうすべきなのかしら)


リリアーナの迷いは、深まるばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ