第4話:公爵からの呼び出し
あの奇妙なティーパーティーから、数日が過ぎていた。
リリアーナの日常は、何も変わらない。朝は早くから起き、わずかな食材でどうにか日々の食事をやりくりし、午後は擦り切れる寸前の帳簿と向き合う。
だが、今日の彼女は、いつもとは違う深刻な表情で、自室の机に向かっていた。
その前には、一通の手紙が置かれている。
上質な羊皮紙に、流れるような美しい筆跡で記された文字。そして、ロックウェル公爵家の紋章が刻まれた、赤い封蝋の破片。
『契約結婚のご提案』
その衝撃的な一文を何度読み返しても、リリアーナには理解ができなかった。
「契約結婚……」
呟いてみても、やはり現実味がない。
あのティーパーティーで、月明かりの下で行われた、奇妙な賭け。金貨が立つなどという馬鹿げた予想をして、外れて呆然としていた、あの変わった公爵。
その人が、なぜ自分に、こんな突拍子もない提案を?
手紙の内容は簡潔だった。詳細については、改めて公爵邸にて説明したい、という一文が添えられているだけ。それが、かえって不気味だった。
トントン、と控えめなノックの音がして、年老いた執事のロイドが入室してきた。彼の表情もまた、深刻そのものだった。
「お嬢様、いかがなさいますか」
「ロイド……」
リリアーナは、困惑を隠しきれない声で答えた。
「正直に申し上げて、何がなんだか分からないのです。先日のパーティーで少しお話ししただけなのに、なぜ、ロックウェル公爵が、わたくしに契約結婚などという……」
「パーティーでお話しを?」
ロイドが、驚いたような表情を見せた。
「ええ。庭園で、少しだけ。とても……変わった方でした」
リリアーナは、あの夜の出来事を思い出していた。賭けをしようと言い出し、金貨が立つなどと言って、外れて困惑していた公爵の姿。
「もしかすると、あの時の印象で……?」
「しかし、お嬢様」
ロイドは、慎重に言葉を選びながら続けた。
「相手は、この国で最も権勢を誇る方です。どのような理由であれ……」
彼の視線が、机の上に置かれた帳簿に向けられる。赤い数字で埋め尽くされた、借金の記録。
「この窮状を救う、またとない機会かもしれません」
「ですが、契約結婚とは、一体何を意味するのでしょう? 普通の結婚とは、何が違うのでしょうか?」
「それは……詳しい話を伺ってみなければ」
「そうですね」
リリアーナは、ゆっくりと頷いた。
「あの方のお考えは、よく分からない部分もありますが……逃げていても、何も解決しません。真意を確かめに行きましょう」
翌日の午後、リリアーナは持っている中で最も状態の良い、深紺のワンピースに身を包んだ。それでも、やはり時代遅れは否めない。
「せめて、恥ずかしくない程度には……」
髪を丁寧に結い上げ、母から受け継いだささやかなブローチを胸元につける。鏡に映る自分の姿を見て、小さくため息をつく。
この格好で、あの壮麗な公爵邸に向かうのか。
乗り合いの辻馬車を降りてから、公爵邸のある地区までは歩かなければならない。自分の住む寂れた貴族街とは、空気の色からして違った。
そして、その地区の最も高い場所に、それは城のようにそびえ立っていた。
ロックウェル公爵邸。
あまりの壮麗さに、リリアーナは改めて足を止める。パーティーの会場で遠目に見たことはあったが、こうして正面から見ると、その威容は圧倒的だった。
門番に名を告げると、話は通っていたらしく、すぐに中へと通された。案内してくれたのは、品のある中年の男性——侍従長のセバスチャンだった。
「お待ちしておりました、グレイ子爵令嬢。旦那様がお待ちです」
セバスチャンの態度は丁寧だったが、その目には隠しきれない探るような色が浮かんでいる。パーティーで少し話しただけの貧乏令嬢に、なぜ主君が契約結婚を申し出られたのか、と訝しんでいるのだろう。
広すぎる玄関ホール、長い廊下、壁に飾られた高価な絵画。そのどれもが、リリアーナを萎縮させるには十分だった。
やがて、重厚な扉の前で案内が止まる。
「旦那様が、執務室にてお待ちです」
リリアーナは、深呼吸をして心を整えた。契約結婚とは何なのか。なぜ、自分が選ばれたのか。そして、あの夜の奇妙な賭けとの関係は。その答えが、この扉の向こうで待っている。
覚悟を決めて、中に入る。
そこは、図書館と見紛うばかりの、巨大な部屋だった。壁一面の本棚、天窓から差し込む柔らかな光、そして、部屋の中央に置かれた巨大な黒檀の机。
その机の向こう側で、一人の男が静かに彼女を待っていた。
アシュトン・ヴェイン・ロックウェル。
パーティーの夜と同じ、氷の彫刻を思わせる顔立ち。だが、その青い瞳は、あの時よりもさらに鋭く、何かを探るような光を湛えていた。
「……よく来たな、グレイ子爵令嬢。先日のパーティー以来だな」
「ロックウェル公爵閣下。お手紙の件で、参りました」
リリアーナは、スカートの裾を優雅につまみ、完璧な淑女の礼をしてみせた。前回の賭けの一件で、この人が少し変わっているということは分かっていたが、それでも相手は公爵だ。礼儀は尽くさなければならない。
「あの夜は、奇妙な賭けにお付き合いいただき、ありがとう」
アシュトンの口調には、僅かな親しみやすさが混じっていた。
「今回の提案は、あの時の君との出会いがきっかけとなったものだ」
「わたくしとの……出会い、ですか?」
リリアーナは、困惑した。あの時、自分は何か特別なことをしただろうか。ただ、公爵の奇妙な賭けに付き合っただけのはずだが。
「昨日の手紙で申し上げた通りだ。君に、契約結婚を提案したい」
「契約結婚……とは、具体的にはどのようなものでございましょうか」
リリアーナの声は、表面上は冷静だったが、内心では混乱していた。
アシュトンは、氷の瞳で、まっすぐにリリアーナを見据えた。
「簡単に言えば、君を私の妻として雇いたい、ということだ」
「雇う……ですって?」
「ああ。もちろん、本当の夫婦になれという話ではない。これは、あくまで契約だ」
アシュトンの淡々とした説明に、リリアーナの困惑は深まるばかりだった。
「君には、私のそばにいてもらう。ただ、それだけでいい」
ただ、そばにいるだけ。
その言葉に、リリアーナの心に警戒のランプが灯る。話がうますぎる。しかも、あの夜の賭けでの奇妙な行動といい、この人の考えることは理解しがたい。
「……失礼ながら、公爵閣下。先日のパーティーでお話しさせていただいた時も感じましたが、閣下のお考えには、どうにも理解しがたい部分がございます」
リリアーナは、慎重に言葉を選びながら問い返した。
「わたくしに、それほどの価値があるとは到底思えませんし、そもそも、なぜわたくしなのでしょうか?」
アシュトンは、その問いに、わずかに表情を変えた。それは、何かを思い出すような、複雑な色だった。
「実は……君の父君と、私の父との間に、古い約束があったのだ」
「父と……ですか?」
「詳しいことは、改めて説明したい。その前に、まず君にはこの提案の具体的な内容を理解してもらう必要がある」
アシュトンはそう言うと、すっと立ち上がった。
「言葉だけでは、伝わりにくい部分もあるだろう。実際に見てもらった方がよいかもしれん」
そして、リリアーナの疑問を解くために、父親同士の約束について、詳しく説明することにしたのだった。