第3話:月下の賭け
リリアーナが令嬢たちの嘲笑の的になっている光景を、アシュトンはガゼボの影から静かに眺めていた。
いつも通りの、退屈な光景だ。
だが、今日の彼は、そのありふれた光景の中に、奇妙な「違和感」を見出していた。
(……何も、起こらない)
彼の【幸運の呪い】は、彼自身に都合の良い結果をもたらすだけではない。それは、彼の平穏を乱す「不都合」や「不快」な事象を、まるで免疫システムのように、自動的に排除する性質も持っていた。
いつもなら、こういった場面では、必ず何かが起こる。
リリアーナを嘲る令嬢が、突然しゃっくりが止まらなくなったり。給仕が「うっかり」お茶をこぼして、会話の流れを断ち切ったり。
そういった、ささやかで、しかし確実な「幸運」が、彼の周囲では常に起きてきた。
だが、今はどうだ。
令嬢たちの下品な笑い声は、途切れることなく庭園に響き渡っている。誰も邪魔をしない。何の「幸運」も、起こらない。
まるで、彼の呪いが、この一角だけ、その機能を停止しているかのようだ。
(なぜだ……?)
アシュトンの氷のような青い瞳が、答えを求めてその光景を観察する。
そして、気づいた。
嘲笑の中心にいる、あの令嬢。リリアーナ・グレイ。
彼女がそこにいる。その事実だけが、いつもの日常との、唯一の違いだった。
まさか。
そんな馬鹿なことがあるものか。
だが、彼の胸に、これまで感じたことのない、ざわりとした期待の波が広がっていくのを、抑えることはできなかった。
やがて、リリアーナは静かにその場を離れ、喧騒から逃れるように、月明かりが差し込む庭園のテラスへと向かった。
アシュトンは、自分でも気づかぬうちに、吸い寄せられるように、彼女の後を追っていた。
テラスの隅で、リリアーナは一人、手すりに寄りかかり、夜風に当たっていた。その横顔は、気高く、そしてどこか寂しげだった。
アシュトンは、物音を立てずに、彼女の背後から近づく。
「――グレイ子爵令嬢」
静かな声に、リリアーナの肩がびくりと震えた。
振り返った彼女は、そこに立つのがアシュトン・ロックウェルその人であると知り、驚きに目を見開く。
「こ、公爵閣下……。何か、御用でございましょうか」
「いや。ただの、気まぐれだ」
アシュトンは、感情の読めない瞳で彼女を見つめると、懐から一枚の金貨を取り出した。
「少し、賭けをしないか?」
「……賭け、でございますか?」
リリアーナの表情に、困惑と共に、わずかな躊躇いの色が浮かんだ。
「失礼ながら、貴族の嗜みとして、賭け事は……」
「気にするな」
アシュトンは、そんな彼女の真面目な反応を軽く一蹴した。
「こんなものは遊びに過ぎない。堅苦しく考える必要はない」
その断定的な口調に、リリアーナは反論の言葉を失った。相手は公爵だ。立場上、これ以上の追及は失礼にあたるだろう。
「……分かりました。どのような?」
「簡単だ。私がこの金貨を投げる。君がどちらの面が出るかを当てれば、この金貨は君のものだ。外れれば、私がもらう」
アシュトンは、手本を見せるように、金貨を高く弾いた。
キン、という軽い音と共に、金貨は宙を舞い、彼の手の甲に落ちる。
そこには、ロックウェル家の紋章である『盾』が、月光を浴びて浮かび上がっていた。
「……『盾』ですわね」
「そうだ。では、本番だ」
アシュトンは、リリアーナに一歩近づいた。手を伸ばせば、触れられてしまいそうな距離。
「さあ、どちらが出る?」
その青い瞳が、まるで魂の奥底まで見透かすように、じっと彼女を見つめている。リリアーナは、その威圧感に気圧されながらも、必死に思考を巡らせた。
これまでの経験から言えば、アシュトンのような実力者なら、このような些細な賭けで負けることはないだろう。彼は必ず、正解を知っているはずだ。
(先ほどと同じ、『盾』。それが、一番無難な答えのはず)
「……『盾』に、ございます」
「ほう。本当にそう思うか?」
アシュトンは、挑発するように、唇の片端を吊り上げた。
そして、金貨を、再び、高く弾く。
回転し、きらめき、そして、彼の手の甲に落ちる音。
アシュトンが、ゆっくりと、その手をリリアーナの目の前に差し出す。
震える指で、彼の手を覆う指を、そっと押し開ける。
そこに現れたのは。
「…………!」
リリアーナは、息をのんだ。
『剣』の紋章。
先ほどとは、違う絵柄。彼女の予想は、外れたのだ。
だが、本当に驚愕していたのは、アシュトンの方だった。
彼の心臓が、ドクン、と大きく脈打つ。
ありえない。
これまで、このような単純な賭けで外したことなど、一度もなかった。【幸運の呪い】が、必ず彼に都合の良い結果をもたらしてくれるからだ。
それが、なぜ。
(やはり、彼女が……)
「もう一度だ」
アシュトンは、内心の動揺を隠し、再び金貨を手に取った。
「今度は、私が予想しよう」
彼は、金貨を高く弾きながら、確信に満ちた声で宣言した。
「この金貨は、表でも裏でもない。立つだろう」
「え……?」
リリアーナは、あまりの突拍子もない予想に、呆気にとられた。金貨が立つなど、そんな馬鹿げたことがあるわけがない。
しかし、アシュトンの表情は真剣そのものだった。彼は、これまでなら【幸運の呪い】によって、どんな無茶な願いでも叶えられていたのだ。
金貨が、ゆっくりと落下してくる。
着地の瞬間。
カン、という乾いた音と共に、金貨は平たく地面に転がった。
『剣』の面を上にして。
「……」
アシュトンは、絶句していた。
またしても、外れた。しかも、今度は自分の予想を。
普段なら、どんな無謀な賭けでも、【幸運の呪い】が都合よく結果を捻じ曲げてくれるはずだった。それが、まったく機能していない。
「あの……公爵閣下?」
リリアーナが、心配そうに声をかける。アシュトンの様子が、明らかにおかしかった。まるで、世界が終わったかのような、茫然とした表情を浮かべている。
(この方、もしかして……少し変わった方なのかしら?)
金貨が立つなどという、非現実的な予想をしたかと思えば、それが外れて呆然としている。どう見ても、常識的な反応ではない。
「……やはり、君だったか」
アシュトンが、ようやく口を開いた。その呟きは、確信に満ちていた。
彼は、もう迷わなかった。何としても、彼女を手に入れなければならない。
アシュトンは、地面に転がった金貨を拾い上げ、それをリリアーナの手に押し付けた。
「君の勝ちだ。これは君のものだ」
「でも、わたくしは外しましたし……」
「構わん」
アシュトンは、そう言い捨てると、呆然と立ち尽くすリリアーナに背を向け、一言も告げずに、その場を立ち去った。
残されたリリアーナは、ただ、訳が分からないまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
(一体、何だったのかしら……?)
手の中の金貨だけが、この奇妙な出来事が現実だったことを証明している。
(やはり、少し……変わった方なのかもしれませんわね)
月明かりの下で起きた、奇妙な出来事。それが何を意味するのか、彼女にはまったく理解できなかった。
氷の公爵との、奇妙で、そして少しだけ恐ろしい、邂逅。
それが、自らの運命を根底から覆す、始まりの夜になるなど、彼女はまだ、知る由もなかった。
この日を境に、ロックウェル公爵家のすべての情報網が、たった一人の貧乏令嬢――リリアーナ・グレイを徹底的に調査するために、静かに、そして迅速に動き始めたことを、まだ誰も知らなかった。