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第1話:没落令嬢と完璧すぎる公爵

グレイ子爵家の屋敷は、うららかな午後の日差しの中に静かにたたずんでいた。しかし、その穏やかな光は、屋敷のあちこちに見える綻びを隠してはくれない。庭の芝は伸び放題で、壁の塗装も所々が剥げ落ちている。使用人の数も、かつての十分の一にまで減らされていた。


「……はぁ」


屋根裏部屋の片隅で、リリアーナは今日何度目か分からないため息をついた。


彼女の目の前には、年季の入った大きな木製の衣装箱が置かれている。その蓋を開けると、ふわりと懐かしい樟脳の香りと共に、一枚のドレスが姿を現した。


絹のように滑らかな手触りの、深い森を思わせる緑色のドレス。繊細な銀糸の刺繍が、胸元や袖口に控えめながらも気品のある輝きを添えている。今は亡き母が、父との結婚が決まった際に誂えた、たった一枚の晴れ着。リリアーナが生まれてからは、彼女の成長を祝うささやかなパーティーのたびに、母はこのドレスを嬉しそうに着ていた。


「お母様……」


指先でそっと刺繍をなぞる。記憶の中の母は、いつも微笑んでいた。病弱な体を押して、幼いリリアーナに家計の基礎を教えてくれたのも母だった。「現実を見据えることは、決して夢を諦めることではないのよ」という言葉が、今でも耳に残っている。


だが、現実は容赦ない。


リリアーナは、机の上に広げた帳簿に目を戻した。赤い数字の羅列。それは、父が遺した借金の詳細を示している。人の好い父は、困った人を見ると放っておけず、保証人になったり、無担保で金を貸したりしてきた。その結果が、この莫大な負債だった。


「今月末の返済分だけでも……」


ペンを走らせながら、リリアーナは必死に計算する。売れるものは、もうほとんど残っていない。先月は、母の宝石箱に残っていた指輪を手放した。先々月は、書斎の貴重な書物の一部を古書商に売った。


そして今、最後に残されたのが、この母の形見のドレスだった。


「これを売れば、少なくとも今月の食費と、ロイドたちへのわずかな給金は……」


現実的な思考が、頭をよぎる。ロイドは、両親が生きていた頃からこの家に仕える老執事だ。今では、彼と料理を担当するメイドのエマ、それに庭の手入れをしてくれる老庭師のトムの三人だけが、この家に残っている。彼らにも家族がいる。給金を遅らせるわけにはいかない。


けれど、ドレスに触れる指先は、どうしてもそれを手放す決心がつかなかった。これはただのドレスではない。家族の温かい記憶が、幸せだった日々の光景が、この一枚の布には染み込んでいるのだ。


「でも、感傷に浸っている場合ではないわね」


リリアーナは、自分に言い聞かせるように呟いた。現実主義者の彼女にとって、感情的な判断は禁物だ。生活のため、そして残された使用人たちのためにも、手放すべきものは手放さなければならない。


そっとドレスを箱に戻し、静かに蓋を閉じる。明日、王都の高級衣装店に持ち込もう。古いデザインだが、生地と仕立ての良さは確かだ。それなりの値はつくはずだ。


リリアーナは、帳簿を閉じると、窓辺に移って外を眺めた。夕日が、荒れた庭に長い影を落としている。かつては美しく手入れされていた薔薇園も、今では雑草が生い茂り、見る影もない。


「平穏な生活……いつになったら戻ってくるのかしら」


彼女が何より望むのは、波乱のない、ささやかで穏やかな日々だった。温かいハーブティーを飲みながら本を読む時間。自分で育てたハーブの香りに包まれる午後。そんな、贅沢とは程遠い、しかし心安らぐ暮らし。


一方、その頃。


王都アーデンヴァールの中心にそびえ立つ、壮麗なロックウェル公爵邸。その一室、広すぎるほどの執務室で、アシュトン・ヴェイン・ロックウェルは、完璧に磨き上げられた机に肘をつき、深い虚無の海に沈んでいた。


彼の目の前には、うず高く積まれた書類の山がある。それは、公爵領で新たに進めている大規模な灌漑事業に関する報告書だった。複雑な水路の設計、資材の調達、人員の配置。アシュトンは、この数ヶ月、文字通り寝る間も惜しんでこの計画に心血を注いできた。


自分の力で、領地の未来をより豊かにしたい。領民たちに、本当の意味で役立つ仕事をしたい。その一心で取り組んだ、渾身の計画。


そして、今朝。全ての計画が、彼の想像を、いや、常識を遥かに超える形で「完璧な成功」を収めたことが報告された。


曰く、設計図には一点の瑕疵もなく、最高の効率で水が供給されることが証明された。


曰く、発注した資材の輸送中に、偶然、新たな鉱脈が発見され、資材コストが当初の十分の一にまで圧縮された。


曰く、工事の過程で、古代の温泉が湧き出し、新たな観光資源まで生まれてしまった。


領民は歓喜し、国王は賛辞を送り、誰もがアシュトンの「天才的な手腕」を褒め称えた。だが、アシュトン本人の心は、氷のように冷え切っていた。


「またか……」


これもすべて、【幸運の呪い】の仕業だ。彼の努力も、苦悩も、不眠不休で練り上げた計画も、全ては「幸運」という名の不可抗力に塗りつぶされてしまう。彼はただ、神に用意された完璧な舞台の上で、完璧な成功を収める役を演じさせられているだけの、哀れな道化に過ぎない。


アシュトンは、椅子に深く背を預け、天井を見上げた。そこには、先代が愛したという豪華なシャンデリアが下がっている。美しく、完璧で、そして、どこか冷たい光を放っている。まるで、彼の人生そのもののように。


「失敗したかった……」


誰にも聞こえないほど小さな声で、彼は呟いた。


「計画が頓挫して、皆で頭を抱えて、必死に解決策を考えて……そんな、当たり前の苦労がしたかった」


だが、そんな願いは、決して叶わない。【幸運の呪い】は、彼の意思とは関係なく、常に最善の結果をもたらしてしまう。努力する機会も、失敗から学ぶ機会も、彼には与えられない。


書類の山を見つめながら、アシュトンは深いため息をついた。これらの完璧な報告書は、彼の努力の証ではない。呪いが生み出した、空虚な奇跡の記録に過ぎない。


「俺は……何のために生きているんだ」


その疑問は、彼を長年苦しめ続けていた。権力も、富も、名声も、すべては呪いが勝手にもたらしたもの。彼自身の価値とは、一体何なのか。


アシュトンは、窓の外に広がる、完璧に整備された美しい庭園に目をやった。寸分の狂いもなく咲き誇る薔薇。病害虫ひとつ寄り付かない、奇跡のような光景。それは、彼の人生そのものだった。美しく、完璧で、そして、ひどく空虚な、箱庭。


「誰か……」


無意識に、声が漏れた。


「誰か、この俺を、完璧な幸運から救い出してはくれないか」


その祈りは、誰に届くでもなく、静まり返った執務室に虚しく響き渡った。ケルディア王国で最も幸運な男は、この世で最も孤独だった。


夕暮れ時、アシュトンは執務室を出て、屋敷の廊下を歩いていた。すれ違う使用人たちは、皆一様に深々と頭を下げる。その恭しい態度の裏に、畏怖と尊敬が混じっているのを、彼は感じていた。


だが、それは彼個人に向けられたものではない。「ロックウェル公爵」という地位と、その背後にある富と権力に対する敬意なのだ。彼自身を見てくれる人間など、この屋敷には存在しない。


「旦那様」


侍従長のセバスチャンが、恭しく声をかけてきた。初老の紳士は、アシュトンが幼い頃からこの家に仕える忠実な使用人だ。


「何か」

「本日の夕食の件でございますが……」

「適当でいい」


アシュトンの素っ気ない返事に、セバスチャンは一瞬、困惑の表情を見せた。しかし、すぐに表情を戻し、「承知いたしました」と答える。


セバスチャンは、主君の心の内を案じていた。幼い頃から見てきたアシュトンが、年を重ねるにつれて、どんどん内に閉じこもっていくのを、彼は痛々しく思っていた。だが、どんな言葉をかけても、アシュトンの心に届くことはない。


「ただ……」


アシュトンが、廊下の途中で振り返った。


「今度の王家のティーパーティーの件だが」

「はい」

「欠席したい」

「それは……しかし、旦那様のご出席は既に王家に……」


アシュトンは、面倒臭そうに手を振った。


「分かった。出席する。だが、最低限の時間で切り上げる」


彼にとって、社交界の集まりは苦痛でしかない。美辞麗句を並べ立て、利害関係を探り合う、虚飾に満ちた世界。そこでも、彼の【幸運の呪い】は容赦なく働き、常に周囲から羨望と嫉妬の視線を向けられる。


真夜中近く、リリアーナは再び屋根裏部屋にいた。結局、母のドレスを売る決心がつかず、他に方法がないか、もう一度帳簿を見直していたのだ。


ランプの光の下、数字とにらみ合う。どう計算し直しても、答えは変わらない。このままでは、来月の返済はおろか、日々の生活さえ立ち行かなくなる。


「現実を見なさい、リリアーナ」


母の言葉を思い出しながら、彼女は自分に言い聞かせた。感情に流されてはいけない。今必要なのは、冷静な判断だ。


明日、ドレスを売りに行こう。そして、屋敷の一部を間貸しできないか、不動産業者に相談してみよう。まだ、手はあるはずだ。


窓の外では、雲が厚くなり始めていた。嵐の予感が、空気に漂っている。


対極の場所で、それぞれの孤独と闘う二人。


完璧すぎる幸運に苦しむ公爵と、現実の重さに押し潰されそうな令嬢。


彼らの運命が交差するまで、あと、ほんの数日のことである。

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