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プロローグ:雷鳴の夜の訪問者

ざあ、と。


窓ガラスを叩きつける雨音が、古い屋敷の静寂を一層際立たせていた。


インクの染みが刻まれた樫の机の上で、リリアーナ・グレイは一人、帳簿とにらみ合っていた。揺れるランプの灯りが、彼女の整った顔に深い影を落とす。机上に広げられた帳簿には、赤い文字でびっしりと数字が並んでいた。どれもこれも、マイナスを示す冷酷な現実の証拠。


「返済期限、あと一週間……」


細く、白い指が、几帳面に書き込まれた数字の列をなぞる。その指先が、最後の合計欄でぴたりと止まった。誰に言うでもなく、乾いた唇からため息がこぼれ落ちる。


グレイ子爵家。かつてはケルディア王国でもそれなりの名声を誇った、由緒ある貴族の家系。だが今や、その名は過去の栄光でしかない。人の好すぎた父が遺したのは、美徳の記憶と、そして、この屋敷の価値をとうに上回る莫大な借金だった。


リリアーナは、病弱だった母に代わり、幼い頃からこの家の家計を切り盛りしてきた。貴族令嬢らしい華やかな夢など、とうの昔に帳簿の隅に置いてきたつもりだ。現実という名の数字だけが、彼女の世界を支配している。


そして、その現実は、あまりにも無慈悲だった。


雨脚が、さらに強まる。まるで、この家の未来を嘲笑うかのように。


打つ手はない。万策尽きた。あとは、この屋敷と、わずかに残った土地を手放し、平民としてどこかで糊口をしのぐ道を探すしかない。そう、覚悟を決めた、その時だった。


――ヒヒンッ!


嵐の音に混じって、場違いなほど高く、気品のある馬のいななきが聞こえた。


まさか。


リリアーナは窓辺に駆け寄り、カーテンの隙間から外を覗いて、息をのんだ。


闇と雨に沈む荒れた庭先に、一台の馬車が停まっていたのだ。それは、リリアーナがこれまでの人生で見たこともないほどに豪奢で、そして巨大な馬車だった。漆黒の車体には、雨粒を弾く見事な艶があり、扉には月光を反射したかのように鈍い銀の輝きを放つ紋章が刻まれている。


『双剣と盾』――ロックウェル公爵家。


「なぜ……?」


ケルディア王国北部を治める、王国屈指の大貴族。現国王の信頼も厚く、その財力と権力は王家に次ぐとまで言われる名門中の名門。かたや、こちらは没落寸前の貧乏子爵家。天と地ほども違う。接点など、あるはずもなかった。


混乱するリリアーナをよそに、馬車から降り立った従者は、嵐の中でも少しも慌てることなく、寸分の狂いもない動きで屋敷の扉を叩いた。年老いた執事のロイドが、震える手で扉を開ける。


やがて、客間に通されたその使者は、雨に濡れた様子ひとつ見せず、リリアーナの前に恭しく片膝をついた。


「リリアーナ・グレイ様でいらっしゃいますね」

「は、はい……」

「我が主、アシュトン・ヴェイン・ロックウェル公爵より、お嬢様へ親書にございます」


主の名を口にする彼の声には、揺るぎない誇りと忠誠が満ちていた。


差し出されたのは、一通の手紙。上質な羊皮紙はかすかに香を放ち、高価な赤い蝋で厳重に封がされている。そこにもまた、ロックウェル家の紋章がくっきりと刻まれていた。


訳が分からないまま、リリアーナはそれを受け取る。指先が、微かに震えていた。ごくり、と喉が鳴る。ペーパーナイフで慎重に封蝋を切り、折りたたまれた手紙を広げた。


流れるような美しい筆跡で綴られた言葉が、ランプの光に照らし出される。


その内容に目を通した瞬間、リリアーナの世界から、音が消えた。雨音も、風の音も、遠い雷鳴さえも。ただ、紙の上に並んだ文字だけが、彼女の意識を支配する。


――契約結婚のご提案。


「け、いやく……けっこん……?」


唇から漏れた声は、自分のものではないように掠れていた。


なぜ? どうして? わたくしが、あの、氷のようだと噂されるロックウェル公爵と?


ゴロゴロと、地を這うような雷鳴が、屋敷を揺るがした。その音で、リリアーナはようやく我に返る。手の中にある一枚の羊皮紙が、まるでこの世の理不尽すべてを凝縮したかのように、ずしりと重かった。


「なぜ、わたくしが?」


呆然と呟いた彼女の問いに、使者は答えない。ただ、静かに、主からの返事を待っているだけだった。


ケルディア王国の片隅で、平穏だけを願って生きてきた没落令嬢の運命が、音を立てて回り始める。彼女はまだ、知らない。この奇妙な提案の裏に隠された、公爵の誰にも言えない秘密と、そして、自分自身に眠る、さらに大きな謎の存在を。


ただ、雷鳴が轟く嵐の夜。物語の幕は、静かに、そして唐突に上がったのだった。

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