Ⅱ-5.彼女の“母親”と“弟”
自分はSさんの母親とは面識がない。
だが自分の母がPTAで聞いた話では娘のお尻を叩いて、男に負けるな、勉強しろ、と言うような厳しい人だったという。離婚によって父親を失ったSさんを強い子に育てようと必死だったのだろうと大人になった自分は推察している。
では母親は娘であるSさんが男の子をイジメていたことに対してどういう態度を取っていたのだろうか。可能性はいくつか考えられる。
一つ目は、娘のイジメを肯定した場合。のろまな男の子なんかイジメてあたりまえ、イジメられる方が悪い、と全面的に娘の肩を持った場合だ。親ばかと言われるような態度だが、そうした考えの親がいても不思議ではない。
この場合、Sさんはどう思うだろうか。
自らのイジメを肯定してくれる母親を心強く思ったろうか? いいや、そうはならない。いくら母親が自分を肯定しても、教室で針のむしろに座らされている現実は、母親の言うことが間違っている証拠になるからだ。賢いSさんがそのことに気づかないわけがない。
だとしたら自分のイジメを肯定する母親に対して不信感を持つようになるだろう。
二つ目は、イジメをしたSさんを厳しくしかりつけた場合。悪いことをした彼女を容赦なく責めた可能性だ。
これについてSさんはどう思うだろう。母親から“男に負けるな”と言われて育てられて来たSさんの目には男は敵と映っていただろう。母親の言う通り敵である男の子をイジメたのに、と反発心を持つのではないだろうか。
だとしたら自分をしかる母親に対して不信感を抱いても不思議ではない。
三つ目は、母親が自らの過度に男性を敵視する育て方を悔いて、自責の念に駆られた場合だ。
娘に対して、そんな風に育ててしまったことへの後ろめたさから、腫れ物に触るように娘に接するようになったとしてもおかしくはない。
母親のそんな態度はSさんをいたたまれない気持ちにさせたことだろう。母親を悲しませることをしてしまったと悔恨に駆られて、母子関係がぎくしゃくしてしまっても不思議ではない。
考察したどの場合でも、彼女の家庭には昏い影が落ちることになる。だとしたらSさんにとっては教室も家庭も、もはや安寧の場所ではなくなっていた可能性がある。
これをイジメの代償、自業自得だ、などと言うのはあまりにもむごい。
Sさんと母親の関係についての以上の考察は根拠に乏しい想像にすぎない。
だが、次に述べることは、実際にぼくが目撃したある光景からの推察だ。
それはある日の放課後のことだった。転校生が来る少し前のことだったと思う。
その日ぼくはクラスの友達と遊ぶ約束があったので、図書室には行かずにその友達と一緒に帰り支度をしていた。クラスメートたちは三々五々帰宅していたが、教室にはまだ半分近く残っていた。
ふと気づくと、下級生の男の子がひとり、教室の中にいた。一年生くらいだろうか。どうしてこんなところに? と思っていたら誰かが教えてくれた。
「あの子、Sさんの弟なんだって」
そういえばSさんによく似たかわいらしい顔立ちの男の子だった。その場にいたクラスメートたちは(男の子も女の子も)その子の近くにいて、ニコニコと微笑みながら何事か話しかけていた。弟くんは見知らぬお兄さんやお姉さんに取り囲まれて戸惑っている様子だった。
その時にSさんはどうしていたろう? ぼくの不確かな記憶ではSさんも教室にいた。自分の席に座っていたように思う。Sさんの机の周囲には二、三人の女の子が立っていて、彼女と何か話しているようだった。
Sさんは前を向いて座っていて、なぜだか弟の方を見ていなかった気がする。
ぼくはそれを見て、なにか家庭の事情で弟くんと二人で帰ることになったのかな、と思った。母親の仕事の関係で一緒に留守番するのかも、と。クラスメートたちは下級生の面倒を見てあげているんだ、えらいなあ、とも思った。
ぼくは一緒に帰る約束をしていた男の子に促されて教室を出た。
それだけの記憶だ。
けれど、これまでの考察を踏まえてその光景を考えてみると、ある恐ろしい想像が鎌首をもたげる。
Sさんの弟ということは、クラスの一部の男の子にとって“ぼくらのお姫様”をイジメた憎い敵の弟、ということになる。そして女の子にとっては、クラスの女の子コミュニティの敵対者の弟、ということになる。
もう一度その時の教室の光景を思い出してみる。
ニコニコ笑う上級生に囲まれて、戸惑いの表情を浮かべる下級生。
あれは本当に“ニコニコ”笑っていたのだろうか。“ニヤニヤ”笑っていたのではないだろうか。
そう考えると、あの光景が別のものに思えてくる。例えるなら、“舌舐めずりする猫の群れの中に放り込まれた子ネズミ”とでも言うような。
そして自席に座ったまま、周囲に立っている女の子たちと話していたSさん。
あれは本当にただおしゃべりしていただけだったのだろうか。
あの時Sさんの周りに居たのは、いつものYさんとIさんではなかったと思う(教室にはその二人はいなかったように思う)。
Sさんはクラスの女子たちから白い目で見られていた。あの時彼女の席の周りに居たのは、彼女を敵視していた女の子たちだったのではないだろうか。だとすると、あれはSさんが席を立てない様に取り囲んでいたと考えられるのだ。
そしてまた別の角度からも考えて見る。
Sさんは勝ち気な女の子だった。だからクラスの子たちがSさんをイジメても、それに屈せずにいたのかもしれない。
本人に対する攻撃に効果がない場合、その家族を狙うのは在りうることだ(マフィアの発想だ)。姉の目の前で弟をイジメれば、さしものSさんも冷静ではいられないだろう。
またこうも考えられる。
弟くんには何も手を出さずに、けれどその目の前でSさんをイジメるのだ。あからさまなイジメでなくても、Sさんがイジメをしていたことをなじるだけでもいい。
弟にそんな光景を見られてしまったら、姉の面目は丸つぶれになる。それはSさんにとっては一番堪える精神攻撃になるかも知れない。
これがSさん姉弟に対するイジメかもしれない、と思った理由はもう一つある。
以前の考察で、もしSさんに対するイジメがあったとしたら、それは“お姫様”であるぼくを傷つけないよう、ぼくの知らないところで行われるだろう、と述べた。
あの時の状況がまさにそれに当てはまる。
クラスメートと遊ぶ約束をしていたぼくはその子に連れられて下校している。それがあらかじめ仕組まれていたとしたら。ぼくに知られずにSさんをイジメる為の舞台が整えられたことになるのではないだろうか。
あの時、実はこうだったのではないか、と想像してみる。
Sさんの取り巻きのYさんとIさんが何かの理由で先に帰って、彼女がたまたま一人になった時(あるいはそのタイミングを狙っていたのかも知れない)、クラスメートたちはSさんの弟くんを「お姉さんが呼んでいるよ」などと言葉巧みに教室に連れ込む。同時にぼくと遊ぶ約束をした男の子が教室からぼくを連れ出す。
その様子を見ていたSさんはどう思ったろうか。クラスメートたちが、自分が呼んでもいない弟を教室に連れて来て、そしてぼくが教室から連れ出されたのだ。頭のいい彼女はその危険なシグナルに気づいたはずだ。
けれど机の周囲を取り囲まれて、弟を“人質”に取られていたのだ。彼女は逃げるに逃げられなかったのではないだろうか。
もちろん以上のことは推論に過ぎない。
クラスメートたちは親切心から何の罪もない弟くんの面倒を見てあげていただけなのかも知れない。Sさんもただクラスメートの女の子たちとたわいもないおしゃべりをしていただけなのかも知れない。
そう信じたい。
次回、Ⅲ.“ぼく” ―“I”―
Ⅲ-1 救いの“天使” に続く