51. 呼び名
まるで夢の中に落ちたかのような、不思議な感覚だった。
巨大な兎が綿毛かなにかに分裂して、それに包まれたかと思うと――身体の傷も頭痛もすべて綺麗さっぱりなくなっていた。
「――ビジャットって実在したんですね。てっきりただのシンボル的なアレかと思ってたけど……」
「まあ、幻獣に『実在』って言葉が適当かどうかはわかんねえけどな」
特別授業から二日後。
クロはカッツェ校長と並んで校長室の窓から森を見下ろしている。
帝国随一の魔法学園の執務室にしては質素で小ぢんまりとしているが、見たことのない魔法道具やら錬金術師らしい実験器具やらがところ狭しと並んでいて興味深い。
「エルミィスをつくった大魔法使いデイヴ・ルイスの奥の手ってやつさ。学府の長たる者のみが発動を許された、エルミィス魔法学園の最終防衛機構。昔の議事録読んだ限りじゃ、建校以来ずっと一度も使われたことはなかったんだがなあ……歴史に汚点残しちまったぜ、はーあ……」
無気力な狐マスクがいっそうくたびれて見える。
「召喚魔法ってやつですよね?」
「ああ。学園と生徒を守ることのみを実現する三体の守護幻獣……今回は森だったからビジャットだな」
「ってことは……エルミィス大河のほうは、水竜チュニード?」
「理解が早いねえ。そんで空は聖鷹フィゾフの縄張りだ」
森と川と空――エルミィスを囲むすべてがエンブレムの幻獣たちの縄張りということか。
「実はな、ディルル先生が前もって提案してたんだよ。あの人の着任が決まったときに学園の警備委員もやってくれって俺から頼んだんだが、いざというときの召喚魔法を使う合図も決めときましょうってな」
「メイが……」
「歴代校長にのみこっそり伝えられてきた召喚魔法の存在を知ってたのも驚きだったけどよ。〝黒曜狼〟の情報網ってやつか?」
「かもですね」
「『私の遠吠えを聞いたら、生徒の危機だと思って迷わず召喚魔法を使ってください』ってさ。んなことが早々起こるかよってぶっちゃけ高を括ってたけどよ、さすがは世界最強の傭兵さんだぜ。危機管理意識が違うわ」
クロは自身のてのひらに視線を落とす。ベーグルに削られた傷はかけらも残っていない。
「ビジャットの能力って……あれなんだったんですか?」
クロやコヨヨは傷の治療、ライナーたちは封魔石の手錠を消してもらった。一方で人攫いたちは雪が解けるように消滅させられた。チートすぎるにもほどがある。
「うーんと、あんまり詳しくは言えねえんだが……まあ、ビジャットってのは幻兎、夢の世界の案内人ってな。なんかの童話でもあるだろ? 兎に導かれて異世界にすってんころりんする男の子の話とか」
「夢の兎……」
「とにかくまあ、最強クラスの幻獣だってことだけわかってくれりゃいい。百パーお前らの味方だからな」
できれば後学のために知りたかったが、校長は話す気はなさそうだ。不謹慎かもしれないが、もう一度体験してみたい気はしている。
「それはそうと、グルソンのことだが……」
ぎくりとするクロ。
「しつこく確認して申し訳ねえけどよ、あいつを倒したのは本当にディルル先生なのか?」
「あー、はい。僕はただみんなを逃がすために食い止めてただけで、危ないところをメイが駆けつけてくれました。ベーグル怖かったです、マジで」
じろじろと無気力な狐目でクロを見て、
「あいつの遺体の傷を調べた感じじゃ……まあいいか」
ふっと鼻で息をつく校長。そしてクロの肩をぽんと叩く。
「今回はなにもかも俺の失態だ、危うく生徒たちを失うところだった。ディルル先生とビジャットと……それにお前のおかげでみんなが救われた。ありがとなマッティ、シャチーモんときからお前には借りをつくりっぱなしだよ」
クロもふっと笑う。実はその言葉を待っていたりした。
「校長先生」
「ん?」
「さっそくその貸しを一つ返してもらいたいんですけど……おねだりしたいことがあって」
「んん?」
***
校長室を出て一年の寮棟に戻ると、廊下にメイと1班の面々がいる。
「――では他に、どのような攻略法が考えられますか?」
「はい、たとえば毒を盛るのはどうでしょうか? 内臓まで強化されてないなら毒も有効でしょうし、魔法が使えないなら解毒も容易じゃないと思うので」
「えー、あー……めっちゃ火炙りにするとか? 蟹の中身を茹でてやる的な……あーでも魔法前提かそれ、うーん……」
「はう! 耳をおもっきりビンタします! そしたらこまくがパーン! ってなって、足がフラフラになるです!」
「悪くありませんね。すでに終わったことではありますが、検証と試行を重ねることが次に活きてきます。常に考えることを止めないことが肝要です」
「「はい!」」
「はう!」
復習の内容は「絶対防御魔法とやらを使ったスバル・ディリスの攻略法」のようだ。
「あ、クロフレッド」とローミィ。
「はう!」とコヨヨ。
「校長先生の話、もう終わったのか?」とネチル。
「うん。ライナーくんは?」
「まだ気分が悪いって、部屋で寝てるよ」
「……そっか」
昨日は多少会話できたが、やはりまだショックが抜けきっていないようだった。
来週から授業が再開するので、それまでに戻ってこれればいいが。
「他の攫われた生徒でも、ポクハムみたいにケロッとしてるやつもいれば、退学するって子もいるってさ」
「しかたないわよね、あたしもそのうち親から手紙来そうだし……」
無理もない。今回はエルミィスの生徒というブランド価値によって狙われ、しかもその首謀者が教員だったのだ。どうあがいても名門校としての信用の失墜は避けられない。
事件はすでに魔導通信で帝国中に知らされ、生徒を預けている貴族の保護者などを中心にかなりの非難が寄せられているという。クロとしてもブチギレた父が学園まで乗り込んでこないと言いきれる自信はない。
「生徒たちのケアは私たち教員の仕事ですから。校長も当面はそこに尽力されるとのことですので」
しばらくは学園の内外で慌ただしくなりそうだ。一日も早く平穏かつ有意義なスクールライフが戻ってくることを願うしかない。
「じゃあ行こっか、メ――ディルル先生」
「はい、坊ちゃま」
彼らの前では繕うことを完全にやめたらしい。
「じゃあみんな、またあとで」
「あ、あのさ!」
ネチルに呼び止められる。ローミィもなんだか気恥ずかしそうにしている。
「ありがとな……クロ」
「ありがとね……クロ」
「はう! クーさん!」
彼らからそう呼ばれたのは初めてだった。
クロはきょとんとして、それから笑顔で手を振った。




