しっかり者の弟くんとダメ人間なお姉ちゃん
「ただいまー」
――ドタドタドタドタ!
家に入って玄関の扉を閉めた途端、俺の帰宅に気付いたらしい同居人が、騒がしい足音を立てながら二階から駆け下りて来る。
「みーくうううん!!! 待ってたよおおおお!!!」
「うわっ!?」
そして、階段を下り切った同居人は、俺の姿を確認すると、そのまましなだれるように俺に抱き着いてきた。
「うえええん! みーくん、助けてよおおお!!!!」
「ど、どうしたの、お姉ちゃん?」
俺のお腹に顔をうずめ、泣きながら俺のことを『みーくん』と呼ぶこの人物は、我が愚姉――糸河真琴である。
全く手入れされているように見えないボサボサのロングヘア、鼻先までずり落ちた黒縁の眼鏡、上は灰色のスウェットで下は黒色のジャージというラフな部屋着と、見るからに生活力を感じさせない姿をしているが、弟の俺にとっては、もはや三度の飯より見慣れただらしなさなので、今更驚愕も失望もない。
「蛾! あたしの部屋に蛾が!」
「……蛾?」
この世の終わりみたいな悲鳴を上げていたから、一体何事かと思ったら、どうやら、お姉ちゃんの部屋に蛾が出没しただけらしい。まったく、人騒がせな。
「起きて窓開けたら部屋に入ってきたのおお! このままじゃ入れないよおおお!!! 早く追っ払ってえええ!」
しかし、たかが蛾一匹と言っても、お姉ちゃんにとっては一大事のようで、執拗に俺に助けを求めて来る。
その程度のことなら自力で対処してもらいたい、と弟としては思うところだが、まあ、お姉ちゃんだしなぁ……。
お姉ちゃんが、こうして俺にしょうもないお願い事をしてくるのは、全く珍しい話ではない。むしろ、日常茶飯事と言える。
俺の四つ歳上で、今年二十歳を迎えるはずだが、なかなか弟離れができない、困ったお姉ちゃんなのである。
「わかった。追い払うから、とりあえず、部屋入らせてもらっていいよね?」
「いいから! 早く追っ払ってよおおお!」
家族とは言え、勝手に入るのは気が引けるので、一応許可を取ってから二階に上がることにする。
階段を上り、自分の部屋の前に自分のリュックと帰りがけに買ったハンバーガーの袋を置くと、俺はその足で、隣りにあるお姉ちゃんの部屋のドアを開けた。
「うわっ!? 汚っ!」
ドアを開けると、衣類や図書類、電子機器の配線類、ジュースの空き缶や食べ終わった食料品のゴミなどが乱雑に散らばった、見るに堪えない汚部屋が俺の目に飛び込んできた。
かろうじて足の踏み場はあるが、それも虫食い状態でまばらに床が見える程度で、少なくとも、人が移動できるような動線は確保されていない。
「もー、またこんなに散らかして……。この間掃除したばっかりなのに……」
「い、いやー、一応、片付けようとは思ってるんだけどねー……あははー……」
俺の後を追って自分の部屋にやって来たお姉ちゃんが、ドアからヒョコっと顔だけ出した状態で、言い訳になっていない言い訳をしながら、目を明後日の方向に泳がせる。
この惨状を見ればわかるとおり、お姉ちゃんは絶望的なまでに片付けができない。
一応、片付けなければいけないという自覚はあるらしいのだが、自覚があるだけで、なかなか実行には移さない。そして、自室での生活が困難になるくらいに散らかったところで、俺に泣きついて一緒に掃除をする羽目になるのが、毎度の流れである。
「――あれ? 夕飯、カップラーメン食べたの?」
ふとテーブルの上を見ると、空き缶などのゴミが散らかる中に、スープが残ったままの食べた直後と思しきカップラーメンの容器が置かれていた。
お姉ちゃんの夕飯としてハンバーガーを買ってきたのだが、どうやらお姉ちゃんはすでに夕飯を済ませてしまったようである。
まあ、それならそれで、買ってきたハンバーガーは自分の夜食にでもしてしまおうか。
「あー、それ、多分三日前くらいに食べたやつ」
「三日前!? スープ残った状態でそんなに放置してんの!?」
衝撃の告白である。
なんと、このスープが残った容器は今日の夕飯の残りではなく、三日前に摂った食事のゴミらしい。
「ち、違うよ! 台所に行く時に、ついでに捨てようと思ってたんだよ! ただ、最近台所に行く用事がなかっただけで……」
何かのついでに用事を済ませたくなる気持ちはわからないではないが、だからって、食べた後のカップラーメンのゴミを、スープを残したまま三日も放置できるものなのか? 零したら悲惨だぞ?
台所なんて一階下りてすぐだし、ゴミを捨てるだけならそんなに手間もかからないと思うのだが……。
ちなみに余談になるが、俺たちの両親はともに某有名電機メーカーに勤務する会社員で、二人ともほぼ毎日朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくるため、基本的に料理をすることはないし、そもそも一緒に食事を摂ること自体があまり多くない。
一応、両親ともに、週に一度は定時退社日だか何だかで、夕方過ぎに帰ってくる日はあるし、土日も普通に休みなのだが、だからと言って、二人とも進んで料理をすることはしない。家にいる時間はとにかく休ませてくれ、という雰囲気が存分に漂っている。
だからと言って、俺たち姉弟も進んで料理をするわけではないので、食事はたいてい、テイクアウトしたファストフードか、スーパーで買った食料品が主となっている。
ただその分、毎月のお小遣いは食費込みで多く貰っているし、何より、両親がシャカリキに働いてくれているから、比較的暮らし向きの良い生活が送れているという自覚もあるので、感謝こそすれ文句を言う気はさらさらない。
「それより! 蛾だよ、蛾! あそこ! あそこにいる!」
俺が改めて両親のありがたさを実感したところで、お姉ちゃんの声を聞いて当初の目的を思い出す。そう言えば、俺は蛾を退治しにこの汚部屋に呼ばれたんだった。
お姉ちゃんが指差した方に目を向けると、開長十センチメートルほどで淡い緑色の翅を持つ蛾が壁に張り付いていた。
想像していたよりもずっと大きい蛾だった。これならお姉ちゃんが騒ぎ立てているのも、ちょっとは理解できるような気がする。
「ほらー、出てけー」
俺は蛾に近づくと、刺激するように手を叩きながら声をかける。しかし、蛾は我が物顔で壁に留まったまま、泰然とその場を動こうとしない。なかなか強情っぱりな蛾である。
仕方がないので、俺は何か突いて蛾を刺激しよう思い、たまたま目に付いた机の上の鉛筆を手に取った。
「え!? もしかして、それで触る気!?」
「まあ、そのつもりだけど」
「ばっちいよ! 使えなくなっちゃうじゃん! えんがちょ!」
ばっちいって。こんな汚い部屋で生活している人がそれ言うか?
「大袈裟だなぁ。じゃあ、これは俺がもらうよ。代わりに俺の鉛筆あげるからさ。それならいいでしょ?」
「まあ、それなら……」
いろいろとツッコミどころはあったものの、後で俺の鉛筆と交換することを条件に、お姉ちゃんは自分の鉛筆で蛾を触ってもいいという許可を出してくれた。
俺はそのまま握った鉛筆で、左右に平たく広がった淡い緑の翅を突く。
すると蛾は、不快そうにジタバタと翅をはためかせながら壁を離れ、ふよふよとその場を浮遊し始める――と、そのままピタッと、俺が差し出したままの鉛筆の先端に留まった。
おお……! なんかちょっと感動……!
「ナイス! そのまま窓の外まで持って行って!」
感動に浸る間もなく、俺はお姉ちゃんに促されるがまま、物で散らかって踏み場の少ない床を慎重に歩いていく。
そして、開けっ放しになっていた窓の外に鉛筆を突き出して軽く振ると、蛾はひらりと宙を舞い、そのまま遠くへと飛んで行った。
蛾が夜闇へ消えて行ったことを確認した俺は、そのまま窓を閉めた後、使ったシャーペンをポケットに仕舞った。無事任務完了である。
「やったー! ありがとー! みーくん!」
「まあ、どういたしまして」
大したことはしていないが、折角のお礼なので素直に受け取っておくことにする。
やるべきことはこなしたので、俺はそのまま部屋を出ようと思ったのだが、やはり先ほど見つけたスープが入ったままの容器が気になり、途中で回収することにした。
この部屋全部を片付けるのは、さすがに頼まれるまでやりたくないが、最悪、これだけは俺が捨てておこう。
「これ、捨てとくね」
「おー、ありがとー! 助かるー!」
「それと、今日夕飯、ハンバーガー買って来てるから。……はい、これ」
「わーい、ありがとー! みーくん、大好きー!」
お姉ちゃんの部屋を出た俺は、自分の部屋の前に置いたハンバーガーの袋をお姉ちゃんに手渡す。
お姉ちゃんはお礼を言って大喜びで受け取ってくれたが、この袋もすぐに捨てずに部屋に放置されるのだろうと考えると、やるせない気持ちにならないでもない。
「それと、学校の宿題でわからないとこあって。ご飯食べたら教えてくれない?」
「えー、またー? もーしょうがないなー。お姉ちゃんに任せなさーい!」
夕飯を買って来たことの引き換え……というわけではないが、俺が勉強の助言を頼むと、お姉ちゃんは口では悪態を吐きつつも、満更でもなさそうな顔をして引き受けてくれた。
あんな生活力の無さを見せつけられた後だと、とても意外なことに思えるだろうが、実はお姉ちゃんは勉強だけはべらぼうにできる。
何を隠そうお姉ちゃんは、地元の中高一貫の名門女子校から国立大学医学部医学科に現役で合格したエリート学生なのである。
だから俺は、勉強わからないところがある度に、こうして毎回お姉ちゃんに聞いている。お姉ちゃんは、俺にとっての専属の家庭教師でもあるのだ。
弟離れできないところと、生活力皆無なところが玉に瑕だが、俺にとっては、それを補って余りあるほどの自慢のお姉ちゃんで――。
「ただいまー」
――と、ちょうどその時、玄関からお母さんの声が聞こえてくる。どうやら、仕事を終えて帰ってきたようだ。
「っ――!?」
しかし、お母さんの声を聞いた瞬間、お姉ちゃんが血相を変えて酷く動揺しだす。
「じ、じゃあ、勉強のことは後でね!」
そして、それだけ言い残すと、お姉ちゃんは急いでドアを閉じ、鍵を閉めて引きこもってしまった。
お姉ちゃんがドアを閉めた時に聞こえた、ガチャリという鍵の音が、俺の脳内にこだまする。
「…………」
お姉ちゃんは、地元の中高一貫の名門女子校から国立大学医学部医学科に現役で合格したエリート学生である。
しかし、現在は大学に通っていない。
一応、籍はまだ大学に置いたままで、退学こそしていないが、休学状態でずっと家に引きこもっている。
初めの内は真面目に通っていたのだが、夏頃からサボりがちになり、樹木が葉を落として冬支度を始めた頃には、ついに大学に行かなくなり、家もほとんど出ることがなくなってしまった。
最初にお姉ちゃんの異変に気付いたのは俺で、本人に事情を聞いてみたら、
――なんで大学に通ってるのか、よくわからなくなっちゃった。
と、力の籠っていない声で弱音を吐くだけだった。
とりあえず、大学に通う気力がなくなってしまい、その原因は自分でもよくわからないという状況らしい。
その時は何にせよ、俺が一人で解決できる問題ではなさそうだと思ったので、お姉ちゃんと一緒に両親に相談しに行き、結果的に、いわゆる家族会議にまで発展した。
ただ、家族会議の時は、両親もお姉ちゃんを無闇に責めることはせず、むしろ、仕事にかかりっきりで、娘の異変に気付くことのが遅れたことを、親ながらに反省していた。
とりあえず、無理に通わせるのも酷だろうし、かと言って、退学も結論を急ぎ過ぎということで、暫定的に休学という形を取ったのだ。
というわけで、お姉ちゃんが大学に通わずに引きこもっていることは、両親も承知の上なのだが、そうは言っても、お姉ちゃんが後ろめたさを感じるのは当然のことで、家族会議以降、明らかに両親と会うことを避けている様子である。
まあ、俺も中学時代にいじめられて、引きこもっていた経験があるので、お姉ちゃんの気持ちはよくわかるんだよな。別に会いたくないわけじゃないんだけど、迷惑をかけている手前、どういう顔をして会えばいいか、全然わからなくて困るんだ。
両親も、自分たちが避けられていることはさすがに気付いているだろうが、敢えて歩み寄ることはせず、そっとしておいてあげているという印象だ。
そういう優しさが逆に辛かったりもするんだけど。かと言って、責められるのももちろん辛いし、なかなか難しいものなのである。
唯一の救いがあるとするならば、お姉ちゃんは俺に対してだけは、それまでと変わらずに接してくれていることだろうか。
両親が昔から仕事で家を空けがちで、二人きりで過ごす時間が長かったので、俺はそれなりに信頼されているのかもしれない。
まあ、いくら信頼しているからと言っても、部屋の掃除を手伝わせるのは勘弁して欲しいところだけど。
「――そろそろ行くか」
カップラーメンの容器を捨てた後、自分の部屋に戻った俺は、お姉ちゃんが夕飯を食べ終える頃合いを見計らって、勉強道具一式を持ち、お姉ちゃんの部屋に向かうことにする。
「お姉ちゃん来たよー。勉強教えてー」
声をかけながらドアをノックすると、中から物音が聞こえて来る。
鍵を開けるために、お姉ちゃんがドアまで近づいてきているようだ。
「――あだっ!?」
そして、移動中に蹴躓いて転んだらしい音と声が聞こえて来た。危ないしケガするから、ちゃんと片付けはしようよ……。
「は、はーい。どうぞー」
その後ややもせず、ガチャリと鍵が開く音と共に、ドアが数センチだけ開け放たれる。
俺はそのままドアに手をかけて、自分が通れるだけの隙間を開くと、そそくさと室内に入って鍵を閉めた。
「……今、転んだ?」
「……え? 転んでないけど?」
絶対に転んだ音がしたのに、お姉ちゃんは素知らぬ顔でしらを切っていた。転んだことを認めてしまうと、間違いなく部屋の散らかり具合の話になって、俺からお説教をされると予想したのだろう。なかなか小賢しい。
まあ、俺もそこまでネチネチいうつもりはないので、先ほどと同様に、足下を確認しながら慎重に部屋の中を進み、お姉ちゃんの隣りに腰を下ろした。
やはり予想通りというべきか、食べて用済みとなったハンバーガーの袋が、無造作にテーブルの横に放り投げられているのを発見してしまい、なんだか悲しい気持ちになってくる。
しかし一方で、勉強することがわかっていたからか、先ほどまで空き缶が散乱していたテーブルの上は、一応綺麗に片付けられていた。いや、厳密に言うと片付けたわけではなく、全部近くの床に移して置いてあるだけなのだが、それでもお姉ちゃんにしては大健闘と言えるだろう。軽く感動すら覚えるレベルである。
「それで? 教科は何かなー?」
「数学だけど……その前に、はいこれ」
俺は忘れない内に、交換する約束になっていた自分の鉛筆を自分の文房具入れから取り出し、お姉ちゃんへと差し出す。
「……それ、みーくんのだよね?」
「そうだけど……あれ? 交換する約束じゃなかったっけ?」
確か、蛾に触れた鉛筆はばっちくて使いたくないから、俺が使っている物と交換する話になっていたはずだが。
「そうだけど……やっぱり、あたしの鉛筆返してもらっていい?」
しかし、お姉ちゃんは自ら、約束を反故にするようなことを言い始めた。
別に、俺としてはどっちでもいいのだが、一体どういう風の吹き回しだろう?
「構わないけど、使いたくないんじゃなかったっけ?」
「さっきはそう思ったけど、みーくんの言うとおり、それほどのことでもないなって思い直した……かも」
蛾が目の前からいなくなって、抵抗が薄れたってことかな? 何にせよ、お姉ちゃんがいいって言うなら、俺に反対する理由はないが。
「……それに今更だけど、ちょっと罪悪感が」
「罪悪感……?」
「うん。さっきはとっさに気持ち悪がっちゃったけど、蛾だって一生懸命生きてるんだよね。それなのに、あたし……」
「…………」
どうやらお姉ちゃんは、気持ち悪がって追い出した蛾に対して、罪悪感を抱いているらしい。
たかが蛾一匹で騒ぎ立てるのも大袈裟だが、たかが蛾一匹に罪悪感を抱くのも、たいがい大袈裟な話である。
「……まあ、考えすぎもほどほどにね。じゃあ、はいこれ」
「……うん。ありがと」
お姉ちゃんの話を聞いた俺は、改めて蛾を逃がすために使った鉛筆を自分の文房具入れから取り出し、元の持ち主であるお姉ちゃんに手渡した。
「それで、この問題なんだけど」
「んー、どれどれー?」
その後、俺はお姉ちゃんに教わりながら、問題集でわからなかった問題を解いて行った。
お姉ちゃんは勉強ができるだけでなく、教え方もとても上手いんだよな。
――みーくん、あたし、医学部受かったよ! すごいでしょー! 褒めて褒めてー!
俺はふと、お姉ちゃんが第一志望の医学部に受かった時に見せてくれた、満面の笑顔を思い出す。
今ではまったく面影がないが、お姉ちゃんが高校生だった頃、勉強で滅茶苦茶努力していたことは、当時中学生だった俺も強く印象に残っている。教え方の上手さは、きっとその努力の賜物だろう。
そんな人にタダで勉強を見てもらえるのだから、俺は相当恵まれている。だから今度の中間テストも、できる限り頑張らないとな。
お読みいただきありがとうございました!
面白いと思った方は、本編の『前略、クソ世界様』もご一読ください!