袂(たもと)の文
南町奉行所同心の手先——岡っ引きの男と、彼に捕らえられた巾着切は、自身番屋の中でむっつりと黙りこくっていた。
巾着切とは小銭を入れた巾着袋を盗み取る小悪人の事だが、番屋に連れて来られたこの男がとんだ曲者であったのだ。
(小悪党とはいえど)
猪吾郎は腕組みをし、鼻から小さく息を吐いた。
彼の浅黒い顔の片側には、刃物で出来た傷がある。
その傷跡を猪吾郎はそっと撫でた。
(江戸の巾着切は上方とは違ぇんだ)
指の間に隠した刃物でもって袂を切り裂き、獲物を抜き取る上方の巾着切とは違い、江戸っ子は指先の技術のみで仕事を成し遂げる。
(それは自分の技術に矜持があるからだ)
巾着、紙入、銀簪に煙草入れ。
他人様の袂から金目のものを頂く巾着切。
青梅縞に黒染めの帯、紺の足袋を履いて白い手拭いを肩にかける——。
彼らは敢えて、一目で『巾着切』だとわかってしまうような身なりをする。
当然ながらそんな見た目では獲物に警戒されてしまう。
にも関わらず、神業でもってその仕事やりとげるんだという矜持が彼らにはあった。
だが——。
「なぁ、おめぇ様。なんでこんな事をしてるんだい。いってぇ何のためになるってんだ」
沈黙を破り、優しく声をかけたのは猪吾郎の向かいに立つ男、小吉である。
細身な上に猫背のせいでやたら小柄に見えるが、油断ならない相手だ。
岡っ引きと巾着切の視線が、一瞬交差する。
「おめぇ様のお父っつぁんが、そうしろって言ったのかい。それともお母っつぁんかい」
まるで子供に言い聞かせるような口調である。
猪吾郎はうんざりして天井を仰ぎ見た。
「そうでもなきゃ、どうしてこんな事が出来るってんだい。そうだろう? おめぇ様のせいで、悲しむ奴が出ちまうとは思わねぇのかい」
(俺のせいで悲しむ奴、だと?)
猪吾郎は、小吉の言葉を口の先で笑った。
今更、何だと言うのか。
「黙ってちゃわからねぇよ。人と人とが通じ合うにはね、やっぱり口に出さなきゃならねぇって思うけどなぁ、どうだい」
小吉の猫撫で声に、猪吾郎はそっぽを向く事で答えた。
巾着切には巾着切なりの『道理』という物がある。
岡っ引きには岡っ引きの『道理』があるのと同じだ。
それは重なる時も有れば、どんなに話しても交わらない時もある。
こんな場所で、猪吾郎なりの『道理』を話した所で何になると言うのだ。
猪吾郎の苛立ちを無視するように、小吉はゴソゴソと袂を探り、皺くちゃになった紙切れを器用に取り出した。
「なあ、聞いとくれ。こいつはな、離れて暮らす娘から届いた文でね。こうしていつも大切に持ってるんでさ」
柔らかな物腰とは反対に、小吉の目つきはどこか抜け目ない。
猪吾郎は背筋に虫ケラが這うような嫌な心持ちになった。
江戸の闇は暗い。
その暗さを身をもって知っている猪吾郎でさえも、小吉の得体の知れない様子は気味が悪かった。
「ほら、ちょいと読んで聞かせるよ。いいから聞いとくれよ」
そう言って小吉は、娘からの文とやらを読み始めた。
♢ ♢ ♢
父様、お身体にお変わりございませんか。
みよは元気で暮らしております。
実は父様に一つ、謝らなければならない事がございます。
先日父様から頂いた文を、みよは細かく破ってしまったのです。
これには訳がありますので、どうか父様、怒らずに聞いて欲しいのです。
みよの奉公先、遠野屋で先日起きた出来事です。
お店の女中、おたつさんが、大事な文がなくなったと騒ぎ出したのです。
それはもう凄い剣幕でして「誰かが、あたしの文を盗んだ」と言って、皆を片っ端から疑ってかかりまして。
「文をだせ」と怒鳴るばかりなのです。
しょうがないので、お店の皆は疑いを晴らすために、故郷からの文だとか大事にしまってあるものを見せました。
そうしたら、そのおたつさん、ある人が持っていた文を取り上げて「この文はあたしんだ」って叫んだんです。
それは、女中仲間のお島さんの文でした。
大事な文を奪われて、お島さんは目をつり上げました。
どうやら、いい人からの恋文だったらしいのです。
「これはあたしんだ」「いいえ、あたしんだ」「返せ返せ」
そんな騒ぎになっちまいまして。
二人で奪い合っていた文は、とうとうびりびりに破れてしまったんです。
そこで、みよは一計を案じたのでございます。
その破けた文と、みよの持っていた父様からもらった文を一緒に合わせて細かく裂いたのです。
手元には、破り裂かれた紙の山が出来ました。
お店のみんなはポカンとした後「一体どうしたんだ、気でもおかしくしたのか」とみよの事を心配しましたけどね。
みよには考えがあったのです。
「おたつさん、お島さん、この紙切れの中からご自分の文だと思う切れ端を抜き出して下さい」
みよはお二人にそう言いました。
お二人は一瞬間を置いた後、急いで紙の小山の中から、これだと思うものを選び始めました。
当たり前ですが、破れた紙のうち、半分は恋文、もう半分はみよの父様からの文です。
それから四半時も経たなかったと思います。
お島さんの手元には、恋文の切れ端が山ほど。
「これはあの人の文字だ」「ああ、これもそうだ」
そう言って、ひょいひょいと切れ端を大切そうにつまみあげておりました。
だけどおたつさんの方は、あれでも無いこれでも無いと選びあぐねておりまして。
彼女が恋文だと思って抜き出した紙切れの中には、みよの父様からの文も間違って混ざっておりました。
結局、恋文の本来の持ち主は、お島さんだったのです。
いい人からの恋文だったら、何度も何度も読み返すはずです。
幾枚もの切れ端になっても、どんな文字だったか、何が書いてあったか覚えていれば、切れ端の小山から抜き出す事もわけないはずなのです。
おたつさんには、それが出来なかった。
その事が何よりの証拠となりました。
嘘をついて仕事の手を止め、騒ぎを起こした事で、おたつさんは旦那様に大層叱られたそうです。
後で聞いた話ですが、おたつさん、熱を上げていたお方から別れの文を突きつけられたらしいんです。
そのせいで、心のどこかをちょいとおかしくしてしまったのかもしれません。
だけど、他人様の恋文を自分のものだと嘘をついて、一体何になるんでしょうか。
嘘、と言えば嘘。
ですが、父様。
嘘には願いが込められているのだと思います。
おたつさんは、お島さんと入れ代わりたかったのかもしれませんね。
そんなわけで、みよは父様からの文をびりびりに破ってしまったのです。
誠に申し訳ございません。
みよは、離れていても父様の事を想っております。
会える日を楽しみにしております。
いつの日か、親子で暮らせる日が来ますように。
お身体にどうかお気をつけください。
♢ ♢ ♢
「なぁ、どうだい。泣かせるだろう」
小吉はわざとらしく涙を堪えるような身振りをして見せた。
「こんな賢い娘のためにも、今日も一日頑張ろう、そうやって仕事に取りかかるんで」
猪吾郎は、大きくため息をついた。
そして低い声で言った。
「なんだってそんなもん、俺に聞かせた」
「それは——」
「俺にどうしろって言うんだ」
小吉は、笑みを浮かべて言った。
「だからね、今一度、考え直してはくれないかって話だ」
「何を考え直すんだ」
「まあ、そうだね。生き様ってやつかね」
「生き様だと?」
猪吾郎は、忌々しげに片方の眉をピクリと動かした。
「まあ聞いておくれ。さっきから言ってるだろう。おめぇ様のやってる事ってのは、何の為になるんだい」
そう言葉を続ける小吉を、猪吾郎は思いきり睨みつけた。
「おや、そんなおっかない顔しないでおくれよ」
小吉は目を見開き、首を細かく揺らしてみせる。
その仕草にまた腹が立つ。
「おめぇ様だから話してるんだ。いいかい俺はね、元来、一匹狼って奴なんだ。立場上しょうがなく組合に入ってはいるがどうにも馴染めねぇ。そんな俺だからこそ、こうやって話してるんだ。わかるかい」
小吉はそうやって熱っぽく語る。
岡っ引きと巾着切は、裏で繋がっている事がままあった。
小盗人の軽犯罪を見逃す代わりに、岡っ引きは、賄賂を受け取ったり、裏の情報を聞き出したりする。
持ちつ持たれつの非合法な関係で繋がっている——そんな者も少なくなかった。
ベラベラと耳障りの良い言葉を並べておきながら、結局はそちらに話を持って行きたいのだろう。
どうにかして猪吾郎の事を取り込みたいのだ。
小吉はさらに言いつのる。
「おめえ様のやってる事ってのはだね、悲しむ人をやたらめったら増やすだけなんじゃぁないのかい。だからここは一つ、ここは一つだね」
「ここは一つ、なんだ」
猪吾郎は小吉を睨みつけて言った。
我慢の限界だった。
「ここは一つ、おめえの罪を見逃せって、そう言う話かい」
小吉は薄気味悪い笑みを浮かべながら言った。
「ええまぁ、はっきり言っちゃぁそういう事でさぁ、猪吾郎の親分」
岡っ引の猪吾郎は、巾着切の小吉から目を逸らし、大きくため息をついた。
♢ ♢ ♢
少なく見積もっても数千。多くて一万。
これは江戸にいる巾着切の数である。
彼らはそのほとんどが組合に属していた。
小吉もその一人である。
はぐれ者の巾着切は、見つかり次第袋叩きに合い、十の指を折られる。
だからこそ、小悪党共は、元締めが取り決めた掟から外れぬよう組合内で助け合い、獲物が被れば譲ったり協力する事もあった。
しかし、組織に馴染めぬ奴はどこにでもいる。
小吉が、まさにそうであった。
口を開けば嘘ばかり。
掟を破り、仲間を裏切り、その仕事振りも、年々粗が目立つようになってきた。
小吉は今年で三十を迎える。
巾着切に三十を超える齢の者は殆どいない。
歳を重ねた者となると、悪の道に染まり大悪党へと転身しているか、足を洗い真っ当な生業で生きているか。
そうでなければ、死んでいるか。
お縄にかかり、一度、二度三度は入れ墨を入れられ、敲きの刑罰で済まされる。
しかし四度目となると、打ち首が待っているのだ。
三十を超える巾着切が少ないのは、長く続ける者ほど死罪になる確率が上がるからだろう。
小吉にとっては、まさにこれが四度目。
つまり打ち首だ。
だからこそ彼は、岡っ引の猪吾郎に擦り寄って、何とか見逃してもらおうとしていたのだ。
「なぁ親分。親分は、なんでこんな事をしてるんで。いってぇ何のためになるってんです。そうでしょう? 俺みてぇな小物を捕まえた所で何になる」
小吉が今回お縄になったのは、仲間から見捨てられた事も大きい。
誰も小吉を助けようと、手を差し伸べる者はいなかった。
巾着切達の元締めである頭も、掟を守らない小吉をそのままにしては、他の者に示しがつかない。
そういう事なのだろう。
「どうして岡っ引なんてぇお役目をなさってるんで? お父っつぁんか、それともお母っつぁんですかね。おめえ様に『何の足しにもならぬような小盗人を捕まえる事こそ岡っ引の本分だ』なんて言いなすったんですかい? 違いましょう?」
先程よりも、小吉の言葉遣いが幾分丁寧になって来ている。
猪吾郎の懐柔が上手く行かず焦っているのだろう。
「俺は今回捕まっちまえば頭と身体が離れ離れだ。わかっていなさるだろう? だったらどうしてこんな、ひでぇ事が出来るってんだい。親分のせいで、悲しむ奴が出ちまうとは思わねぇのかい」
小吉は、折り目のついた文を握りしめた。
「この文を寄越した俺の大事な娘が悲しむと、そうは思わねぇですかい」
「ほう、そうかい。じゃあその文とやらを見せてみろ」
猪吾郎は、ほれと手を出した。
小吉は、首を振ってそれを拒否した。
「こいつは俺の大事なもんですぜ。親分とは言えど、お渡しするわけにはいきません」
「小吉、おめえさん、字は読めるのかい」
苛立ちを隠さずに、岡っ引きは小吉を睨んだ。
「読めねぇよな。なのにどうして文の中身がわかる」
「寺の坊主に頼んで代わりに読んでもらったんで」
「はっ、息するように嘘を吐きやがる」
猪吾郎は、何度目かになるため息をつき、頭をかいた。
娘からの文などというものを持ち出して、猪吾郎の同情を引く。
それでなんとかお目溢ししてもらおうというのが、小吉の算段だったのだろう。
「どうせその文も、誰かの袂からくすねた物だろう。おめぇにはよ、矜持がねぇんだ、小吉」
ここは自身番屋だ。
ほんの一時、罪人を留め置くだけの場所。
もうすぐ南町奉行所同心の旦那がやってくるだろう。
そうしたら猪吾郎は、旦那に小吉を引き渡せばいいのだ。
何もこんな風に余計な事など言わなくていい。
岡っ引きの『道理』と、巾着切の『道理』は別物なのだ。
こんな場所で、猪吾郎なりの『道理』を話した所で何になると言うのだ
しかし、猪吾郎は小吉に向き合った。
「江戸の巾着切は上方とは違ぇ。刃物で袂を切って獲物を抜き取る上方とは違って、江戸っ子は指先で仕事を成し遂げる。そうだろう」
先程まで饒舌だった小吉は、黙ったままだ。
「それが小悪党とは言えど、おめぇらの矜持だったんじゃねぇのかい」
「うるせぇ」
小吉がボソリと言った。
「うるせぇんだよ。どいつもこいつも。矜持だの何だの、俺にどうしろってんだ」
そして、ヘラヘラと笑ってみせた。
「矜持も無え。道理も無え。俺には何にも無えんだ。そんな薄っぺらなもん、どっかに飛んでっちまったよ」
そして小吉は、握りしめていた文をビリビリに破き、投げ捨てた。
ひらひらと、薄っぺらな紙の欠片が落ちていく。
小吉の目は窪み、深い穴のように見えた。
覗き込めば落ちてしまう、底なしの井戸のようだった。
「持とうと思っても、持てねぇ奴はどう生きたらいい」
それっきりだった。
巾着切の小吉は黙り込んでしまった。
猪吾郎にはもう出来る事はなかった。
その後、自身番屋にやってきた同心に、小吉の身柄を引き渡した。
小吉は大番屋へと連行される。
そして行き着く先は小伝馬町牢屋敷だ。
そこで小吉は打ち首になるのだ。
♢ ♢ ♢
その日、重い身体を引きずるようにして屋敷に戻った猪吾郎は、袂に手をやった。
そして、自身番屋で拾い集めた小吉の文の欠片を取り出した。
何故、自分がそんな事をしたのか、猪吾郎には説明が出来なかった。
ただ、身体が勝手に動いたのだ。
一枚残らず拾い集め、大切に袂にしまい、持って帰ってきたのだった。
猪吾郎は、一枚一枚、切れ端を並べていった。
拾い集めている時点で、なんとなく予感はしていた。
ただ黙々と並べ、猪吾郎はその文を完成させた。
猪吾郎は、出来上がったつぎはぎを前にしてしばらくそれを見つめていた。
文は、ただの白紙であった。
文字一つとして書かれてはいなかった。
やはりな、と猪吾郎は思った。
拾い集めていた時、どの切れ端にも墨のにじみすら見つからなかったので、そうではないかと思っていたのだ。
——離れていても父様の事を想っております——
——会える日を楽しみにしております——
——いつの日か、親子で暮らせる日が来ますように——
あの言葉は、小吉が勝手に作り出した文面であったのだ。
(全てが嘘であったのだろうか)
猪吾郎は、夜月を見上げながら思案した。
娘も、奉公先での騒動も、その解決も、全部が全部嘘であったのか。
(他人様の袂から、大事な物を奪い続けた男が、本当に欲しかったものとは、何であったのか)
——嘘には願いが込められているのだと思います——
目を瞑ると、牢に入れられた小吉の姿が浮かぶ。
猪吾郎が牢の前に立つと、小吉が暗い洞のような目でこちらを見上げる。
二人の間にあるのは牢の格子。
そうすると、どうだろう。
果たして牢の中にいるのは、あちらの小吉なのか、こちらの猪吾郎なのかわからなくなるのだ。
猪吾郎は瞼を開いた。
(俺があいつで、あいつが俺だったかもしれんのだ)
岡っ引きというのは、元罪人である。
処刑を許される代わりに、町を取り締まる同心の手下として、江戸の暗部を嗅ぎ回るのが仕事だ。
猪吾郎も例に漏れず、罪を減じるため手柄を立てようと小吉を捕らえた。
同心の許可がなければ房のない十手すら、持つ事を許されない。
堅気の風を装っているが、根は小吉と同じなのだ。
(いつ、立場がぐるりとひっくり返るかもわからねぇんだ)
何も書いてない文を、再び自分の袂に戻す事は出来なかった。
猪吾郎は、片手で顔の傷跡をそっと撫で、小吉の闇夜のような眼を思い出していた。
参考書籍『古文書にみる江戸犯罪考』
著者:氏家幹人 祥伝社新書