ただの常連客ですが、バリスタの青年を推しそうです。
「あれ、追加のご注文ですか。」
注文カウンターの前に立ったわたしに、きょとんとした顔で対応する青年は、シワのないシャツに、店のエプロンをゆるりと巻いている。
ゆるめのパーマがかかった髪と、手元のアップルウォッチが、彼にとても似合っていると思う。
最初の注文は一時間ほど前、いつものコーヒーを頼んでいたので、めずらしいと思われたのだろう。
追加の注文をするだけなのに、慣れないことをすると、少しだけ緊張する。
「はい。今日はプチ祝いに、ケーキも食べようかなって」
横髪を耳にかけながら、少しかがむ。ガラスのケースの中には、数は多くないけれど、丁寧に作られたのがわかるケーキが並んでいる。
前に一度、友人ときた時にはモンブランにした。今日は、どうしようか。
「この、オペラ、ひとつお願いします」
バタークリームとガナッシュが何層にも重なっている。この店の名物だ。少し残ったコーヒーにも合うだろう。指をさしながら、彼に目を戻す。目が合った。
「あっ、はい。かしこまりました」
妙な間があった。少し骨張った手が、そっとショーケースに入っていく。オペラをひとつ取り、慣れた手つきでケースを閉めた。カトラリーの準備をしている手元を見ていると、ふいに彼が、
「何のお祝いですか」
と低めの優しい声で尋ねてきた。
「あっ、えっと、資格試験の、合格祝いです」
変なところで途切れた。同時に、恥ずかしくなってくる。誰の、とは言ってないけれど、自分のものだとわかるんじゃないだろうか。彼はとても丁寧な接客をする人だし、常連さんと話しているのもよく見る。私はいつも同じ時間に、同じ席で、同じ参考書を開いていて、今日だけは、ぼーっと外を眺めたり本を読んだりしているのだから。
そこまで考えて、でもそんなこともないかも、と思い直した。
ただの常連が参考書を開こうが文庫本を開こうが、お店側からしたら大して変わらないはずだ。
自分の自意識過剰っぷりにさえ恥ずかしく思える。
「あ、やっぱり。」
「え?」
「いつも、勉強されていましたよね。よかったです。おめでとうございます。」
その一言は、私の思考を全部持って行った。
止まった頭を助けるように、口だけは勝手に、「ありがとうございます」と動いていた。
驚いているのがバレないように、笑顔を向ける。ぎこちなかったかもしれないけれど、彼は気にしていない様子で、すでに手元に視線を移していた。スマホを取り出して、決済の準備を待つ。そういえば、いくらだったっけ、と思って口を開こうとした時、それは起こったのだ。
彼の身体が少し前に乗り出して、腕が目の前に伸びてくる。
あ、黒の、アップルウォッチ、と思ったとき、腕が内側にまわって、手首が少し見えた。
独特の決済音が、中途半端に、大きく響いた。それは一瞬だったけれど、確かに、今までで一番近づいて、そしてすぐに離れた。
ジジジ、ジ、とレジが音を立てる。彼のもう片方の手がレシートをちぎったかと思ったら、そのままくしゃ、と丸めてエプロンのポケットにしまってしまった。
彼と、オペラと、また彼を、交互に見る。
にっ。いたずらっ子みたいな表情をしている。
「お待たせいたしました」
そう言うと同時にトレーを渡された。私の後ろを少しだけ気にして、また目が合う。
つられて、ちら、と目を向けたら、次のお客さんが並ぶところだった。
ごゆっくりどうぞ、と続けられてしまったので、満足にお礼も言えないままにカウンターを離れる。
席に戻る間にも、どんどん得体の知れない照れが湧いてきて、なんで、なんで、と頭が繰り返していた。
常連さんだと認知してくれてたんだ、とか、お店からのサービスなのかな、とか、でも自分のカードで支払わないよね、とか、だんだん自分に都合の良い考え方になっていくのが悔しい。
合格祝いなんて頭からふっとんで、サプライズ記念日かも、とよくわからないタイトルが浮かんできてくる始末だ。目の前のオペラにも手が付けづらくて、代わりに冷め切ったコーヒーを口に含む。
その苦味が少し、わたしを落ち着かせてくれた。
先ほど後ろにいた男性が、レシートを手渡されている。
そのやりとりを盗み見ながら、やっとの思いでオペラを口に入れていると、接客を終えた彼と目があった。
フォークを口から抜いて、軽く会釈をする。
彼は後頭部を軽く掻いたあと、その腕を下ろす途中で、さりげなく口の前を経由させて、人差し指を立てた。
(しーっ。)
口の中で、オペラのバタークリームとガナッシュが同時に溶けていく。
コーヒーに慣れたわたしの口には、甘すぎるみたいだ。
処女作となります。
拙い文章ではありますが、日々、鍛錬してまいりますので、よろしくお願いします。
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