雲間から月が剣を照らす
暴力、流血、残酷描写、侮蔑的な表現があります。苦手な方はお気をつけください。
「ああ、お前、女だったのか」
「おう」
これが憶えている限りで、最初の会話だ。
士官学校に入ってひと月も経つと、貴族出身と平民出身に分かれていた派閥が何となく混じり合って、別の集団に分かれて固まり始める。そしてそれがそのまま学内のヒエラルキーになる。
つまり、強い集団と、弱い集団だ。学内では血筋などはものの役にも立たず、強さだけがすべての基準だった。
エミール・ストーンという男は最初から目立っていた。
淡い金髪と紫の瞳は、この国の中でも高貴な血筋であることを現している。
十代前半でまだ未発達とはいえ、騎士を志すには少し線が細すぎる体型、優美な物腰、そして何より剣を生業にするには美しすぎる顔が、最初、周りから侮られる材料となっていた。
そして同じく剣士を志す者としては、軟弱すぎる外見だと思われていたのが、クラウディ・イノセントである。アッシュブラウンの髪の毛を短く刈り込んだ外見は、どう見ても少年のようだったが、クラウディは実は女子だった。
それをエミールが着替えの時に指摘したのである。別に服を脱いでいた訳ではなく、肩の筋肉を見てわかったらしい。
「まさかこんなに早く見破られるとはな」
「別に隠してるわけじゃないんだろ?」
「まあな。でも何か悔しいじゃん。体力や筋肉で劣ってるって言われてるみたいで」
「そんなつもりじゃねえよ。姉がいっぱいいるから、筋肉のつき方でわかっただけだ。でもこの学校に女って、あんまりいないよな」
「同期は3人だけだな」
「ロックウェルとバトラーだな。あいつらは、最初から性別公言してるだろ」
「私は試合とかの時に手心加えられるのがいやなんだよ」
「誰もそんなもん加えねえよ。もう今走ってるの、俺とお前しか残ってないだろ」
これが走り込み中の会話だった。限界まで走り続けろと言われて、朝から走っている。次々に脱落者を出していく中で、エミールとクラウディだけが、日が暮れても涼しい顔をして走っていた。
初めての模擬試合の授業で、皆の度肝を抜いたのもこの二人だ。細腕なので力は無いが、とにかく速い。速さで大柄な生徒を翻弄し、体格のハンデを感じさせない動きは、新入生離れしていた。
「今年はちっこいのが頑張ってるなあ。お前らも負けるなよ」
師範である騎士団の男は、そう言って笑った。
その言葉は体格に恵まれた同期の男達に火を付け、練習も苛烈さを増した。この年の新入生は多くが精鋭と呼ばれるようになる。
「あんた達のせいで、他の学年より訓練がしんどいわ」とは、同期生の女子ふたりが卒業するまでに幾度となくクラウディに語った恨みごとである。
概ね12~15才で士官学校に入学した生徒達は、五年ほど学校で技術や知識を身に付けて卒業する。卒業後は大部分が治安維持を業務とする青年騎士団か、主に女性の貴人を警護するのが業務の、女騎士だけで構成されるクレマチス騎士団に入団する。
女性騎士団への受け皿が用意されているというのに、わざわざ青年騎士団へと入る女性は少ない。こちらは犯罪者討伐や、紛争の鎮圧、時として戦場へ出ることもある。荒事が圧倒的に多いのである。
「イノセントも『オーク』に行くんだって?」
クラウディが士官学校の寮から騎士団の寄宿舎へと移る引っ越しの準備をしていると、エミール達同期の連中に声をかけられた。
ぞろぞろと数人で部屋に入ってくる。
基本的に寮生は2~3人で相部屋に暮らしていたが、女性は個室を与えられている。だが同じ寮内なので行き来は頻繁だった。それどころか広く使えるので溜まり場になりやすい。この程度で嫌がっていたら、騎士は務まらない。遠征では男女が混じって雑魚寝することも珍しくはないのだ。
オークとは、青年騎士団の通称である。クレマチス騎士団に対して、堅くて丈夫な楡から付けたらしいが、厳つい団員の容姿を揶揄して怪物の意味で呼ばれることが多い。
ちなみに、数少ない女性の同期だったサマンサ・ロックウェルとレナ・バトラーは、クレマチス騎士団へ入団することが決まっている。
「ああ。先週入団許可証が来た」
「マジかよ。あそこって、今のところ女はひとりしかいないらしいぜ」
「ったく男前だな、イノセントは」
「お前らに負けたことのない私が、どうしてオークに入団しないと思っているんだ?」
「最近は綺麗に一本取られることも少なくなっただろ。見てろよ、入ったら逆転してやるからな」
皆旧知の間柄なので、軽口の応酬も慣れたものだが、最後の言葉には苦笑いせざるを得ない。
士官学校に入学したての時は「ちっこいの」と呼ばれていたクラウディだが、今では身長も伸び、女性にしては肩幅もある方だ。男性に混じっても遜色はない。まあ、騎士団の厳つい男達に混じると小柄に見えるのは仕方がないが、街を歩くたびに黄色い声援が飛ぶ。
あれから髪は肩につくかつかないぐらいには伸びたが、少し会ったぐらいの人物には、まず女だと看破されることはない。
対してエミールだ。同じく「ちっこいの」仲間だった彼は、一時期はクラウディの方が身長が高かったというのに、15才ぐらいですくすくと伸びだし、瞬く間に追い越され、今では手のひらひとつ分はエミールの方が高い。
腕相撲でももうおそらく勝てないだろうと思う。エミールばかりではない。筋力だけだと周りの男連中に抜かされかけているのを感じる。一時は同期最強を自負していただけに、屈辱で仕方なかった。
「お前さ、夜中の素振り増やしてるだろ。筋肉が付くとその分重くなるから、イノセントの場合は剣を軽くして、速さを生かした方が良いんじゃないか?」
何でもお見通しか。エミールは寮長を務めているだけあって、個々の個人練習の内容にも精通している。目上から可愛がられ、同期や後輩からは慕われる、名実共にこの学校のリーダーだった。
ついでに、近隣に住む年頃の女子の『出待ち』も多い。
おそらく、オークに行っても、同じく地位を築くだろう。まったく遠い存在になったものだと嘆息する。
「……よく知ってるな。夜中の自主練のことまで」
「そう言えば、お前、また花街に行ったんだって? その時にでも見かけたんだろう。お前の容貌は目立つんだから、こっそり行けよ」
同期の男がエミールの肩を抱き寄せて、内緒話でもする様に言うが、狭い部屋なので筒抜けである。
この一見完璧な男の悪癖が花街通いなのだが、言われた本人はにやにやと笑っているだけなので、特に恥ずかしい事だとも思っていないようだ。
どうせ自分には関係ないことだと、その時はそのまま忘れた。
騎士団は、当然だが学生気分の士官学校時代よりも、業務も訓練も過酷だった。
学校出身者は一般から入ってきた者より、一階級上の位からのスタートになる。だからと言ってその座に胡座をかいている訳にはいかず、一般の手本になるようにと、より上司から厳しく接される。
「もう無理だー。何だあのハゲ、俺にばっかり厳しく当たりやがって」
士官学校の時代の同級生のひとりであるテッドが、床に倒れ込んだ。例によってクラウディの部屋だ。
騎士団の寄宿舎は全員個室だったが、士官学校時代の習慣のようにこの部屋に集まってしまう。
テッドがひとくさり文句を言っているのは、体術指南の上司についてである。
姿勢が悪いと、平気で模擬刀で叩いてくるので、叩かれた場所があざになっている。
「それだけ文句を言う元気があれば、大丈夫だろう」
クラウディがぺちりと濡れた布を投げつけた。冷やしておけということだ。「おお、助かる。きもちー」と言ってテッドが患部に当てていた。
「イノセントも一発やられてただろう。大丈夫か?」
エミールの言葉に、本当にこの男はよく見ている、と舌を巻く。クラウディですら、慣れない業務に、周りを見渡す余裕などないというのに。
「大したことない。少し肩を小突かれただけだ。モンロー大佐は、存外女には優しいお人のようだ」
クラウディにしてはおどけた言い方をしたら、「特別扱いは一番嫌がるくせに」と笑われた。テッドには羨ましがられてしまったが。
翌年、エミールは早々に王立騎士団への入団が決まった。王立騎士団は、その名の通り、王宮直轄の騎士団だ。この国の中でも、生え抜きの精鋭しか入ることが許されていない、国中の兵士の憧れと言っていい。いわば最高峰である。
王族との謁見や護衛も頻繁にあり、入団すると、自動的に騎士爵の称号と勲章が付与される。
「おま……早すぎないか?」
オークの仲間達も喜ぶよりも妬むよりも引いていた。十代での騎士勲章の受勲など、ちょっと聞いたことがない。
「お前達も、どうせすぐに来るだろ」
エミールは軽く返していたが、クラウディはおそらく自分が王立騎士団に引き抜かれることはないだろうと考えていた。
このオーク騎士団に入団する時でさえ、女性は異例だと言われたのだ。もうひとりのオークに所属している女性は天才軍師だ。
あとひとつふたつぐらいは階級が上がるだろうし、もしかしたら、教官ぐらいにはなれるかもしれない。だが、そこが自分の打ち止めだろう。今のところ、この国に女騎士爵はいない。
まったく、腐れ縁だった。12の年に士官学校に入学して以来、切磋琢磨し合った仲だった。
次の春にエミールが王城の近くにある宿舎に居を移動すれば、王都郊外で暮らしている自分達とは、あまり会うことは無くなるだろう。
次に会う時は、立派にこの国に認められた騎士としてだ。もう住む世界が違うと言っていい。
「騎士勲章って、売ると家一軒建てられるぐらいの金になるんだってな」
クラウディが感傷にひたっている間に、男達は何やら不謹慎な話を始めていた。
「へえ。良いこと聞いた。じゃあこっそり売って失くしたと言ったら再交付してくれるかな」
「してくれる訳ないだろう。それどころか、万一悪用されでもしたら信用失墜で懲罰も有り得るぞ」
「じゃあ、潰して金塊にしてから売ろう」
「それだと家は建てられないな」
「お前ら、流石にやめろよ、仮にも国から頂く勲章だぞ、冗談だろうが、ちょっと聞き流せない」
悪乗りし出した男達を止めたのは、悪友達の中では比較的真面目なライリーだ。彼は多くの武人と官僚を輩出している事で有名な伯爵家の三男で、幼い頃から国へ恭順であることを刷り込まれている。
「ほんの冗談だよ、ライリー。たかが勲章じゃないか。金属の塊の話だろう」
「たかがじゃない。その小さな勲章は、我が国の伝統と誇りで出来ているんだ。見えなくても、命よりも何よりも、貴重で尊いものだよ。エミール、君ならわかるだろう」
エミールは侯爵家の出身らしい。何から何まで嫌味なほど完璧だ、と思うが、本人は自分の生家についてあまり語りたがらない。わかっているのは、嫡子ではないという事だけだ。
本来なら、この中でも最上位の出身で、実際に受勲も決まっているエミールが率先して国を讃えなくてはいけない場面だろう。だがエミールは、そういう話をすることはない。
それどころか、若者らしい、国への忠誠と騎士としての誇りの話になると、決まってこの男は冷めた目をする。気づいている者は、そう多くはないはずだが。
「いや」
特に何かに拘るということのないエミールが、こうはっきり否定の意思を示すのは珍しかった。
「すまないが、俺には分からないな。あんなものはただの金属だよ」
「ストーン」
空気を悪くした詫びを言って部屋を出たエミールを追いかけたのは、クラウディだった。階段を降りようとするエミールを見つけて、呼び止める。
「イノセント。……悪いな、ライリー怒ってただろ」
「いや、お前が頑ななのは何か理由があるだろうって、みんなわかってるさ」
「別に、理由なんてない。俺は、ただいけ好かないだけだ。この国にのさばってる、身分制度みたいなくだらないものが」
ふとクラウディは笑った。
「そうだな。私もそう思う」
「……お前の、苗字の事だけど」
珍しく話しにくそうにエミールが口を開いた。淀みなく話すことの多い男が口ごもるので、何事かと促す。
「うん?」
「西に、大きな孤児院があったな。国境の難民まで受け入れてるという。そこで拾われた孤児は、皆"罪の無い子"って苗字を貰うんだとか」
クラウディは少し驚く。
「知っていたのか」
クラウディは自分の苗字を気に入っていた。曇り空のような髪の色から取ったという名前などよりも。だから周りにも苗字で呼ばせている。
「……戦災孤児か」
「そうだ。両親はガイシャの軍人だったらしい」
この国と西側で国境を接するふたつの隣国同士は、いつも小競り合いをしていた。比較的豊かで軍備の備えもあるこの国には攻めてこない。代わりに国は難民を受け入れる。そういう均衡が、もう二十年近くも続いていた。
「騎士を志望したのも、それでか」
「私自身も軍人には随分と救われたからな。ゆくゆくは、国境警備の任務につけたらと思ってるんだが」
「随分と過酷な任務だぞ。物好きだな」
幸い、両親の遺伝なのか、クラウディは武芸の才能を早いうちから見出してもらえた。士官学校へは公費で通うことが出来た。
エミールはため息を吐いた。
「随分長く一緒にいるのに、知らないことが多いな」
クラウディは笑う。薄々事情をわかっていて、敢えて聞かないでいてくれただけなのだろうに。
「イノセント」
去り際に、エミールは念を押すように振り向いた。
「感じるなよ。国に恩義なんて」
エミールが王都の中心にある王立騎士団へと異動になって少しが経った。あの男のいなくなったオーク騎士団は、泡の抜けたエールのようだった。
食堂のおばちゃん達が心なしか元気が無くなり、エミール目当ての出待ちの女の子達が居なくなって、団員の士気も下がり気味だ。今更ながらにエミール・ストーンという男の存在感を思う。
そんな時、娼館での警備の仕事が入った。
最近盗賊が街外れの花街に出没しては、店を荒らしていくのだという。
とりあえず金銭は置いて行くので、今のところ強くは出られていない。だが、日に日にエスカレートしていく数々の暴挙に、娼婦達が攫われるのも時間の問題ではないかと、戦々恐々とした娼館の従業員達が、騎士団に依頼をしたという訳だ。
調べていくと、最近集中的にその地域での盗賊被害が多発している。恐らく同じ連中ではないかと思われた。犯行も悪質極まりないもので、連中は気軽に殺人も犯している。業務内容を警備から盗賊討伐に変更して、オーク騎士団総出で案件に当たることになった。
花街と聞くとよく通っていたというエミールの事を思い出す。初めて足を踏み入れたそこは、何軒もの娼館や呑み屋が集まって、小さな街を作っている。随分ときらきらしい場所だった。
でも何処か寂しい。建物も装飾も綺麗な色に塗られているのに、塗料では塗り隠せない寂しさが漏れているようだった。
武装した怪物騎士団の強面達がこんなところを大量にうろついていたら、それこそ盗賊達を逆上させかねないので、花街の中には客の振りをした騎士団の中でも比較的小柄なメンバーと、女性で構成されているクレマチス騎士団から、腕に覚えのある者を何人か選りすぐって連れて来ている。
他の者は、近くに潜んで待機させられている。
クレマチスからは随分と華やかな面子が揃っていた。王宮での貴人の警護が主な業務なのだから、見た目にも気を使うのだろうか。髪も綺麗に伸ばして、手入れが行き届いている。
うちとはえらい違いだと、同じ騎士として我が身を鑑みてしまった。
「おねーさん、ちょっと服貸して! あとこの子女装させて!」
士官学校時代同期だったサマンサ・ロックウェル達に引っ張られて、娼館の一室に駆け込んだ。
「イノセントったら相変わらず。油断させないといけないのに、いかにも兵士ですって格好をして」
「そうか? 一応、団服じゃなくて私服で来たんだが」
「賊が見たら、軍人だってバレバレよ。そんな殺気を放ってたらだめじゃない」
クラウディに小言を言いながら、サマンサが手際良く顔に化粧をのせていく。
「騎士様、女だったんだね。背がおっきいから男かと思った。うちの子達が色めきだっちゃってまあ」
痩せた女が、ドレスを持ってきた。
「もしかして、それを私が着るのか?」
ドレスなど、生まれてこの方一度も着たことがない。色が黒なのがまだ救いだろうか。
「だから、この際イノセントもここの従業員のふりをしなさい。いかにもな軍人がこの街を闊歩してたら、警戒されて余計酷いことになりかねないんだから」
そう言って、頭からドレスを被せられる。危惧していた窮屈さはそれほど酷くなかった。逆に肩が少し余るくらいだ。実はこのドレスは女装用の男物らしい。どういうシチェーションで着るんだろう、と一瞬考えてしまったが、「この街には、あらゆるニーズが揃ってるからね!」とドレスを持ってきた女が胸を張って言うので、需要はあるということだろう。
「思った通り、肩と二の腕さえ隠せば、見られるわね。胸に詰め物は必要だけど。あとはこれ」
長い髪のウィッグを渡された。クラウディは眉を寄せる。
「もの凄く動きにくいんじゃないか。この格好は」
「贅沢言わないの。あんたの身体能力ならなんとでもなるでしょう。あたし達は、普段からこれにヒールのある靴で業務に当たってるのよ」
流石に靴は軍靴のままで許してもらった。クレマチス騎士団の女性達には頭が下がる。
大きな姿見に映った自分を見てクラウディは不思議な気分になる。化粧をしてドレスを身に付け、ウィッグを被った自分は普段とは別人のようだ。
同僚である騎士団の男達は、皆クラウディの方を見て唖然とした顔をしていた。古くからの付き合いの者でさえ「まじかよ……」と驚愕している。
そんなに似合わないのかと居心地が悪い。これも任務のためと割り切るしかないが。
日が暮れた後、表通りの方が騒がしくなって、若い女の子が飛び込んできた。
「——来ました」
賊は20人強といったところだった。如何にも輩といった集団が、我が物顔で女達の肩を抱き、店に上がり込み、もっと酒を出せ、女を出せと、大声で叫んでいる。
前にうちにもルールがあると苦言を呈した支配人や用心棒達は、その場で切って捨てられたらしい。
そうやって男手が減っているのも、花街全体が萎縮している原因だ。
一般客も、この数日で激減している。一刻も早く日常を取り戻さないと、この街自体が無くなってしまうだろう。
早速あちこちで乱痴気騒ぎが始まっている。こっそりと従業員のふりをした女騎士が紛れ込んで、この街の女達に危険がないように気を配っている。
今すぐ仲間を呼び、飛び込んで全員捕縛したいところだが、話に聞いている賊の人数は、多い時で50人程度。ここにいる者で全てではない。恐らく、本拠地が近くにあって、そこから夜な夜なやって来ているのだろう。
その場所を叩かないと、今この場にいる者だけを捕まえても、取り逃した者達が復讐に来ないとも限らない。クラウディは少し考えた。
「とりあえず、捕まえるふりをして、わざと何人か取り逃そう。私が跡をつけて、アジトを特定する」
こっそりと仲間を建物の裏に呼び出して、そう伝える。
「お前ひとりでか? 危ないだろう」
クラウディと同じくこの作戦に加わっているテッドが渋い顔をする。
「大人数で尾行して、見つかる方がまずいと思う。この格好の私だけなら見つかっても、どうとでも言い訳出来る。それに、街を手薄にしたくない。クレマチスの面々には、従業員の安全の確保と精神的なフォローをして欲しい。場所が特定出来たら、合図をする」
「わかった。先走ってあまり無茶するなよ」
「誰に言ってる」
着ているのが黒いドレスで良かったと思う。闇に乗じることが出来る。
「騎士団だ! 全員連行する、大人しくしろ!」
潜んでいた騎士団の男達が、声を荒げて建物の中に入っていった。一瞬の沈黙の後、怒声と罵声、女の悲鳴と物が壊れる音が入り乱れる。
思った通り、わざと警備の死角を作ってある方へ、盗賊達が何人か逃げてきた。
繋いでいた馬に乗ると、山の方へ駆けて行く。
充分な間をとって、クラウディも騎乗して跡をつけた。
夜だったことと、道が悪いことは、クラウディにとっても悪いことではなかった。これなら見つからずにアジトまで近づけるだろうという見通しが立つ。
ただ土地勘はないので、必死に目を凝らして盗賊達に着いていくしかない。迷ったが愛馬のスピカに乗って来て良かった。静かで、危なげない足取りだ。尾行している者がいるとは、前の連中も気づかないだろう。
程なくして、崖と丘の間に隠れるように建っている建物を見つけた。大きいが雑なつくりで、仮住まいといった趣だ。おそらく、この地方でやりたい放題やったあと、河岸を変えるつもりに違いない。だが——そうはさせない。
発煙筒の準備をする。騎士団の仲間が視認してここに駆け付けるまで、半刻というところか。火をつけようとしゃがみ込んだ時、背後から男に声をかけられた。
「こんなところで花火ですか、お嬢さん」
相手が言い終わらないうちに太ももに固定していた剣を抜くと振り向きざまに相手に踊りかかった。まさか佩刀しているとは思わなかったらしく、相手も短刀で受けるだけで精一杯のようだ。
クラウディも受けられるとは思わず、目を見開く。男は中々の手練れのようだ。
もしかすると、この盗賊団のリーダー格かもしれない。
剣を重ねたまま腹に蹴りを一発入れると怯んだので、突き飛ばしてスピカに飛び乗った。発煙筒は作動していない。だが場所は突き止めた。こいつらが逃走するのが先か、自分が仲間を連れて戻ってくるのが先か。いや、それでは間に合わない。
やはり殺しておくべきだろう。
騎乗したまま剣を構えて男に向かおうとしたその時、破裂音がして、スピカが竿立ちになった。
放り出されるところを、ぎりぎりで手綱を引いて地面に着地する。
「スピカ!?」
スピカの方を見ると、前脚を着いている。
先程組み合った男が拳銃を構えていた。銃を持っているとは思わなかった。スピカは脚を撃たれたのだろう。馬は、一本でも脚を折られると、もう助からない……。
クラウディは自分の迂闊さに唇を噛んだ。強盗被害の報告でも、銃による殺傷の例は無かったので、可能性を考えていなかったのだ。騎乗した時点で負けることはないと慢心してしまった。
悲嘆に暮れる間も無く、男が立て続けに撃ってきた。俊敏さを身上とするクラウディだったが、動揺でわずかに反射するのが遅れた。
太ももに灼熱感がはしり、その後で痛みがやって来た。舌打ちをする。かすっただけだが、痛みは邪魔だった。ほんの少し、動きが緩慢になる。その少しが手練れの男相手には命取りで、剣を跳ね飛ばされ、胸倉を引き摺られて地面に押し付けられた。馬乗りに跨られて、初めて男の顔をちゃんと見た。嗤っていた。捕食に成功した事を確信した残忍な眼だ。
男があっさりと銃を投げ捨てたのは、弾が無くなったからか、刃物で止めを差したかったからか。振り上げられた白刃が月明かりに光って、この光が自分のこの世で見る最後の光景になるんだなと思う。
冴えざえとした光は、色の薄い金髪を思い出させる。
頬を、温かく薄い布が撫でていったような感触がした。
いつまでも刃に貫かれる衝撃はない。クラウディに乗っていた男が傾いで、ゆっくりと倒れる。それで、頬への感触は、布ではなく男の首から吹き出した血だとわかった。目をやると半分ほど首を切られている。即死だろう。視界を占領していた男が居なくなったので、月を背にして立っている人影が現れた。
何故こんなところにいるんだろうとは思ったが、暗かろうと逆光だろうと間違えはしない。
「ストーン……」
無造作に剣を持ったエミール・ストーンが立っていた。
「怪我は」
血を払って剣を鞘に納めると、クラウディに向かって手を差し出した。
起こされて立ちあがろうとしたところで、右足が痺れて立てない事に気がついた。
ドレスを太ももまで捲ると、そこそこの出血だった。肉も少し持ってかれている。ただ、幸い、動脈が傷ついているわけではないようだ。
「止血して少し待ってろ。一人も逃せない」
そう言ってマントを放ると、エミールは建物の方を振り向く。先程の銃声に気づいたらしい男達が出てくるところだった。
瞬時に出てきたふたりが倒れるのが見える。ひと言も発するひまのない、電光石火の早業だった。建物の中では何が起きたのか気付いたものはいないだろう。
恐らく数十人は悪漢がひしめいていると思われる、建物の中に単身で乗り込むなんて、正気の沙汰ではない。
クラウディは慌てて発煙筒で合図をする。自分が行っても足手まといなのはわかっていた。エミールは死なないだろうと思いたいが、それもまた自分の希望にすぎない。
自分の止血をする前に足を引き摺ってスピカのところへ向かった。
スピカは立とうとしてもがいていた。確認するがやはり脚が折れているようだ。連れて来なければ良かったと思う。士官学校の頃からの相棒で、乗ると誰よりも速く走れた。
愛馬は騎士団に連れてくることが許される。それ程までに騎士と一心同体なのだ。自分の顔を見て懸命に立とうとする姿を見て、視界がぼやけた。
そっと温かい首を抱く。
「ごめん」
発煙筒の合図を見て、騎士達が駆けつけるまでに半刻はかからなかったが、着いた時には大体全部終わった後だった。
「遅い」
丁度出てくるところだったエミールは、建物の方に顎をしゃくる。
「動ける男はひとりもいない。抵抗して来た者は全員殺した。女奴隷と、子供もいる。地下の隠し部屋だ。外から鍵をかけてある」
淡々と報告するエミールは、月明かりだけでも血で染まっているのがわかる。男達は一瞬中の惨状を想像して怯んだのか息を呑んだが、直ぐに覚悟を決めた顔になると、分担を決めて入っていった。
残ったのは数人だが、改めて、この男の常人離れした強さと冷徹さを目の当たりにして、皆言葉を失っている。
「突入をストーンがひとりでする羽目になったのは、私の合図が遅れたせいだ。しかも武力としても全く役に立てなかった。……申し訳ない」
クラウディが立ち上がって、エミールと団員達に深々と頭を下げた。近くには、クラウディの愛馬であったスピカが冷たくなって横たわっていた。更に離れた場所に、男の死体と拳銃。太ももは裂いたドレスで止血してあるのが、裂かれた部分から覗いて見える。それで皆、何があったのかおおよそ察した。
「いや、一人で行かせた俺達も悪かった。大変だったな。怪我は大丈夫なのか」
「大したことはありません。もうほとんど血も止まっています」
「エミールは、どうしてここに?」
団員のひとりが戸惑ったように訊いた。そう言えばもうオーク騎士団ではないのだ。服も団服ではなく私服だった。
「んー、……私用?」
薄らといつもの笑みが戻っている。まさかこんな時に花街遊びだろうか、と呆れかけたが、そこまで非常識な男ではないのは皆わかっている。
「俺、先にイノセント連れて街の方に戻ってて良い? 血でごわごわだし、馴染みの店で風呂借りたい」
「あ、ああ。助かる」
早目にクラウディの怪我の手当てをしないといけないことに気付いた団員がはっとして言った。
エミールはスピカの亡骸の元へ行くと、しゃがみ込んで軽く首を撫でた。その後、剣でたてがみを一房切り取った。
まだ少しぼうっとしているクラウディの手のひらに、それを握らせる。
「後で埋めに来るなら、手伝ってやるから。とりあえず一旦戻るぞ」
クラウディは反駁しようとしたが、この場で自分に出来ることは無いばかりか、邪魔でしかないことに気付いて、力無く頷いた。そっとたてがみを手巾に包んで、懐に入れた。
足に力が入らないので、先に騎乗したエミールに引き上げてもらって、前に座らせてもらう格好になる。今の自分は一人で馬にも乗れないのか、と思うと、ショックだった。
「すまないな。迷惑ばかりかけて」
「そうでもない。あの発砲音がなければ、隠れ家の場所は特定できなかったからな。あの銃を持っていた男はデリク・ダーツだよ。国際手配犯で、余罪が腐るほどある。国が懸賞金を掛けていた」
「全部お前の手柄だろう」
後ろで笑う気配がした。
「謙虚だな。イノセントは」
「……自分の力を過信して、危うく連中を取り逃す愚を犯したばかりか、スピカまで死なせてしまった。お前だって、あそこまで切迫していなければ、あんなに大勢を手にかける必要はなかったはずだ」
先程からかたかたと震えが止まらない。自分への怒りか、愛馬を亡くした哀しみか、危うく死ぬところだった恐怖か、それともエミールを危険に晒した恐怖なのか。自分でも判然としなかった。
エミールが自分のマントをぐるぐると巻いてくれた。ついでにそのマントでクラウディの頬をごしごしとこする。「取れないな」と難しい顔をしている。そう言えば、デリクとかいう男の血を浴びたのだった。さぞかし自分は酷い顔をしているだろう。
「珍しく色っぽい格好してるから、少し寒いんだろう。イノセントも戻ったら風呂使わせてもらえよ。大きな赤い柱が立っている湯屋があっただろう。あそこの露天風呂は怪我への効用もあるからおすすめだぞ」
この男は、多分色々な事をわかっていて、そんな事を暢気な口調で言ってくるのだ。
「花街について、随分詳しいんだな」
嫌味ではなく素直に思ったことを言ったら、あっさりと返された。
「そりゃあ、生まれ育った場所だからな」
「……そうなのか?」
てっきり、侯爵家の生まれだと思っていた。
12の年に出会った時から、物腰も動作も、上流階級のそれだったからだ。
クラウディがそう言うと、エミールは面白そうに笑う。
エミールの話によると、母親はあの街の娼館で働く高級娼婦で、客として来た侯爵との子を身籠ったらしい。それで産まれたのがエミールだった。
眼の色も髪の色も父親の血統を色濃くひいているのが一目瞭然だったため、エミールの母親はいつ侯爵家から迎えが来ても良いようにと、礼儀作法などを厳しく教育した。だが結局迎えは来ないまま、病みついて亡くなってしまった。
「それからは、あの街に俺は育てられたんだ」
クラウディは、エミールに姉がたくさんいるという話と、花街通いの噂を思い出していた。
「俺が成長するにつれて、この容姿で有名になってきたもんだから、流石に侯爵家も無視できなくなったんだろうな。義務のように引き取られて、そのまま士官学校に放り込まれた。今回、騎士勲章を受勲するという話が出るまで、父親は俺のことは思い出しもしなかったと思うよ」
エミールが貴族のことを話す時の冷たい眼は、体面を取り繕うために踏みにじられたものへの愛情と憐憫の、裏返しなのだろうか。
小さい頃は入っていけない場所がわからなくて、よく本番中の寝室に入ってしまい怒られたこと。エミールが子供の頃からあの小さな街を取り仕切っている大女将には頭が上がらないこと。今回の依頼も女将から個人的に受けたこと。
珍しくエミールが自分のことをぽつぽつと話すのを、黙って聞いていた。
着いた頃には、震えも収まっていた。
街には、クレマチス騎士団と娼婦達が、身を寄せ合って心配そうに待っていた。
「ちょっと、血まみれじゃない、あんたたち! ていうかエミールはいつの間に来てたのよ」
「悪いけど、風呂貸してよ。あ、イノセントは、薬湯に案内してやって」
「すみません、せっかくお借りした服を破いてしまった。弁済致しますから、請求書を青年騎士団宛に切ってください」
「そんなこと心配しなくて良いんだってば。あたし達は助けてもらったんだから」
「そうよ、後始末はあたし達でやっておくから。……って、イノセント、どうしたのこの傷! 撃たれたの?」
「銃創だとわかるのか。かすっただけだから問題ない」
「あいつら、相当溜め込んでたぞ。国に没収される前に少しかっぱらって来れば? 慰謝料と修繕費だって言えば許されるだろ」
「仮にも王立騎士団所属がそういう事言ったら駄目だろう……」
慌ただしく会話が交わされる。
「捕まえた盗賊達は、どうなった?」
クラウディが気になっていたことをロックウェルに訊く。
「全員ロデオさん達が馬車に詰めてしょっ引いてったわよ」
それを聞いて気付いたようにエミールが呟いた。
「もっと馬車がいるな。もうすぐ上の根城にいた盗賊を20人ぐらい連れて降りて来るはずだから」
「やだ! そんなのもうここに連れ込ませないでよ、エミール。馬車なら貸すから」
「はいはい。身体洗ったら、もう一回行って来るか。あ、着替えある?」
「用意しておく」
「イノセントは今日はここに泊めてもらえよ」
エミールはそう言ってクラウディの方を少し振り返ると、そのまま去って行こうとしたので、慌てて呼び止めた。
「ストーン! ……いろいろ、すまなかった。本当に助かった。どうもありがとう」
エミールはにやっと笑って言った。
「どういたしまして。貸しひとつにしておく。今度俺が何か困ってたら助けてよ。ここに証人たくさんいるからな」
「わかった」
彼らしい物言いに、ようやく笑顔を作れた。顔がこわばって、こびりついた血のせいだと気づく。恩を着せるような言い方は、クラウディの負担を取り除くために、わざと茶化したのだとわかっている。
その『貸し』がおそらく使われる日が無いことも。
……と思っていたのだが甘かった。
それから二年近く経って、その約束は果たされることになる。
あれからしばらくしてクラウディの足の傷も癒え、すっかり前と変わらずオーク騎士団の公務に専念していた。
ある日一日の業務を終え、宿舎に戻ると、来客室で王立騎士団から来たエミールが待っていた。
すでに戻っている団員達と話が盛り上がっているようだ。
「珍しい来客だな。何かあったのか」
「あのさ、イノセント、俺に借りがあったよな?」
「あるな」
即答した。二年前の話だが、わざわざ思い出すまでもなく、あの夜のことは忘れたことは無い。最後のエミールとの約束も含めて、戒めとして、強くクラウディの中にずっとあった。
「それ、返してほしいんだけど」
「喜んで」
まさか借りを返せる時が来るとは思わなかったが、そう言って来ると言うことは、何か困っていることがあるということなのだろう。
エミールはあれからも次々と武功を挙げ、今や美貌の英雄、王立騎士団のエミール・ストーンの名を国中で知らない者はいないほどだ。
そのエミールが一体何に困っているのか、申し訳ないが興味もあった。
「何でもする。どうした?」
「俺と結婚してくれないか?」
まったく想定外の頼み事だったので、思わずそのまま固まってしまう。
ギャラリーと化していた周りの団員達も、ざわめいていた。
結婚というと、貴族同士の契約というイメージが真っ先に浮かぶ。
ただエミールは、孤児であるクラウディの出自は知っているはずだし、そうでなくても、今のエミールなら、その気になれば、国中の誰でも選べる立場だ。
自分で言うのもなんだが、わざわざ女性としての魅力が皆無なクラウディを相手に選ぶ理由がわからなかった。
「……何か理由があるなら、聞こう」
それが、と言ってエミールは、思い切り嫌な顔をした。
「王命が下った。三ヶ月以内に結婚しろという」
エミールが言うには、社交シーズンの幕開けイベントとして、毎年恒例で王宮舞踏会なるものが開催されるという。
国中の独身の貴族の子女に招待状が送られる。
伝統で、王立騎士団の団員も、未婚者は正装をして、舞踏会に参加しなくてはいけないらしい。
「まあ、去年は普通に、馬鹿みたいにダンスを申し込まれたよ。夜通し踊って、士官学校の限界耐久訓練の方がましだと思ったな」
「自虐風自慢か!うぜえ!」
「何だこいつ、舞踏会に参加できない俺たちに見せつけに来たのかよ。ぺっ、さっさと城に帰れ帰れ」
団員達の野次はいつもの事なので、気にしていない。
ちなみに、社交シーズンは国中の貴族達が王都に集結するので、オーク騎士団は街の治安を守るのに忙しい。
宮城で行われている舞踏会など、縁のない行事だった。
「で、今年の招待状を準備していて、やたらと去年と同じ名前が多い事に、文官が気づいたんだ。慌てて調べたら、去年の王宮舞踏会から、著しく貴族の結婚件数が減っているのがわかったらしい」
「……その原因が、お前だと?」
げっそりしながら、クラウディが訊ねる。
エミールは頷く。
「どうもそれしか考えられないようだ。結婚してしまえば、舞踏会への参加資格が無くなるから、俺と踊れなくなるだろ。去年も、凄かったんだよ。取り澄ました貴族令嬢達が、あわや乱闘寸前までいったんだ。俺と踊りたいばかりに、良い縁談逃すなんて、馬鹿な話だよなあ」
エミールは他人事のように言っているが、これでだいぶ話が見えてきた。
「つまり、次の舞踏会までに結婚して、今年からストーンは妻帯者なので参加できなくなったと、早々に広めたいわけだ」
「そう言う事」
くだらなすぎてため息しか出ない。そんな事に王命を使う方も使う方である。
「だったら、その辺の貴族のお嬢さんを紹介して貰えば良いんじゃないか? ストーン侯爵家なら、伝手も充分にあるだろう」
いつのまにか横にいたライリーが、もっともな提案をする。
「俺が、貴族の娘と? 冗談じゃない」
吐き捨てるように言うと、苦い顔をした。
「最悪なのは、三ヶ月後の舞踏会までに相手が決まらないと、国王の娘と結婚させられることだ」
「陛下の娘って……。まさか、レイチェル王女殿下か!」
「そんな名前だったかな」
驚くライリーに、いまいちエミールの反応は心許ない。
「王族の名前ぐらい頭に叩き込んでおけよ。年齢的にレイチェル殿下しかいないだろ。国王陛下の掌中の珠って評判の美姫だぞ。お前、相当陛下に気に入られてるんだな」
「トラバースは、随分と王室事情に詳しいんだな」
クラウディが感心すると、お前らが知らなすぎるんだよ、と呆れられた。
「お前それはさ、実質、レイチェル殿下と結婚しろって事だよ。陛下にそんな提案されてるの知ってて、気にせずお前と結婚できる女なんかいないだろう」
「だからイノセントに頼んでるんだ」
「あ、そうか」
ライリー達はそれで納得したようだったが、クラウディとしては、暗に図々しいと言われているようで、腑に落ちない。
それにしても、貴族を嫌悪しているエミールに、この二択は酷だと思う。王族と姻戚関係になんてなってしまったら、忌避している上流階級のしがらみからは抜け出せなくなってしまうだろう。
「わかった。結婚しよう」
クラウディはあっさりと頷いた。
「おい早くないか!? もう少し考えろよ」
「流石イノセント、男前過ぎるっ……」
「まじで? 王女殿下との結婚蹴るの?」
周りのどよめきを余所に、エミールはらしくもなく目を丸くして呆けた顔をしていた。
「何だ?」
「いや……正直そんなにすぐ承諾してもらえるとは思わなかった」
「もしかして、冗談だったか」
「まさか」
「そうだろ。お前はこんな事で人を担ぐような奴じゃないのは知ってる。だったら、特に断る理由は無いな」
エミールは、がりがりと頭を掻いた。
「……じゃあ、早速明日にでも、報告して良いんだな?」
「どうぞ。私は何をすれば良い?」
「何も。ただ、書類にサインしてくれれば」
わかったと頷くクラウディを見て、急転直下の成り行きに茫然としていたが、ふと我に返ったテッドが割って入った。
「待てよ。イノセント、気をつけろよ。お前何だかエミールに良いようにされてないか?」
「何がだ? ただ名前を貸せば良いだけだろう。本当の夫婦のような事をするわけじゃないし」
「は、何言ってるんだ、するけど?」
クラウディはエミールの言葉を単なる冗談だと流しているが、笑顔で雑談をしながら、言外に余計な事を言うなとテッドを睨むエミールの目は笑っていない。
「……よく考えろよ。一生のことなんだから」
とりあえず忠告はした。
まあ、余計なお世話ってやつだろうけど。
「フェイクニュースだという噂が立ってる。お前の結婚」
「へえ?」
興味深げにゴシップ紙を眺める妻を、エミールは面白そうに見下ろした。
昼下がりの街中である。堂々とふたりで出かけても、エミールに気づいて遠巻きに眺める者や握手をねだる者はいるが、ふたりを見て夫婦だと思う者はいないらしい。
追っかけの一部の女性の中には、エミールより熱狂的なクラウディのファンもいる。色々と都合が良いので、公に性別を明かしたことはない。でも、女だと公表すれば、ファンは幻滅するどころか増えるだろうとライリーが分析していた。
「『……我々は自宅とされるアパートメントの周辺でしばらく張り込みをしていたが、かねてからその存在を疑問視されているストーン騎士爵の奥方は姿を現さず、時折友人と思しき美貌の軍人が訪ねて来るのを目撃するのみであった……』。張り込むなんて随分と悪質だな。当然気づいていたんだろう? 次に見つけたら文句言えよ」
「別に人目につくのは、慣れてるからな」
エミールは肩を竦めた。
「因果な奴だ。業務に障りが出るぞ」
「クラウディの方に迷惑がいかなければ、それで良い」
「こっちは迷惑を被ったことはない……。お前の方で、色々と情報を止めてくれているんだろう。少しは厄介ごとを回してくれても良いんだからな」
「頼もしいな」
エミールは少し笑う。
「本音を言うと、お前にばかり負担を強いている気がして、少し不安なんだ。気に入ってたという姓も、変えさせてしまったし」
「業務では旧姓で通しているが。大体、それはこっちの台詞だ」
結局、結婚の際は、クラウディは誓約書にサインだけして、あとは立会人以外にはエミールの親族にも誰にも会ったことがない。
どれだけ連れてこいと言われても、頑として突っぱねているらしい。会わせてもお互い不快な思いをするだけだからと、伝言ひとつ預かったことがなかった。それは、エミールひとりに負荷が掛かっているということではないだろうか。
そう言うと、エミールはちょっと眉を上げた。
「どうせ、転がり込んできた使えそうな手駒が意外と使えなさそうだから惜しんでいるだけだ。俺は、昔からいない者とされていたんだから、今更数に入れられても困る」
あっさりと切り捨てる。
「徹底してるな。本当に、何かあったら言えよ」
「言うって」
「それに、今は、苗字だけじゃなくて、自分の名前も好きなんだ」
名前で呼ばれるのも悪くないな、とはにかんで言うと、隣でエミールは顔を覆っていた。耳が少し赤い。
「そういうこと言うのは狡いだろ……」
こういう、エミールの自分にしか見せない顔を見ることができるようになったのも、特権だと思う。
満たされているのは自分の方だと、いつか打ち明けた方が良いだろうか。
「今夜は泊まって行けるのか?」
「駄目だな。サマンサ達と約束がある」
「はあ? 貴重な非番なんだから、少しは新婚に気を遣えって伝えておいて」
「入籍して三年以上経ってるのに、いい加減新婚でもないと思うんだが……」
「あまり逢えないんだから、一生新婚で良いだろ」
「お前のそういう自由なところ、好きだよ」
「俺も愛してるよ」
ふたりでいるのが一番しっくりくる。たとえ曇りであっても何であっても構わないと気付いた。この気持ちに名前を付けるなら、やっぱり愛が相応しいのかもしれない。