特異な子ども
「今日でもう3日目だな」
灰色の粘土や赤茶色い土をグルグルと混ぜたような濁った空を見上げて、思わずため息が出る。
境光がないわけではないが、数十人単位の行軍ができるほどの明るさがない。まして、この旅には王族が同行しているのだ。万が一のことを考えると、もう少し空が明るくならなければ出発はできないだろう。
「境光が落ちきる訳でもありませんから真っ暗にもならず……読めませんな」
通常、境光はおよそ1日単位で出たり落ちたりする。実際には鐘3つ分くらいで落ちたり、丸1日以上出っぱなしだったりもするので厳密には決まっていないが、さすがにこの中途半端な光量で3日連続というのは少しおかしい気がする。
「……神物のせい、というわけではないのか?」
神物というのは境壁の向こうの不可思議な力で生み出されると言われている獣のことで、私は密かに、神人も神物の1つだったのではないかと考えている。さすがに不敬すぎて口にはできないが。
「さて。少なくとも、神物が出現したとの報告は1週間程前のことですが、境光が不安定なのはここ数十年のことのようですね」
……世界が不安定になっている。
それは、私が生まれる前から言われていることだ。小さい部分では、各領地でこれまでなかったものが採れるようになったり、大きい部分だと、火山の活動が不安定になったりしている。
「鉱山領での鉄の産出が減っているのだろう? そんなに昔からか?」
「ええ。20年程前から徐々に減って来ていたようですな。王宮に報告もしていたそうですが、黙殺されていたようです」
クァンの言葉に眉を顰める。
「……黙殺?」
「まぁ、鉄の代わりのものを探すようにという助言はしたそうですが……鉱物に関しては、王宮に住まう者たちへの影響はすぐには出ませんからね。それより、草原領で小麦が採れるようになったことの方が重要だったのでしょう」
「……すぐ金になるからな」
しらけた思いで呟く。直接の影響がなくとも、鉱物の産出が減って農具の開発が滞れば、お望みの小麦の増産にも支障が出るだろうに。
……長く安定してきたことによる弊害だな。
「頭が固い年寄り連中は世界の変化について行けないのだろう。これまでの安定がこの先も続くとお気楽に考えているんだろうな」
「人というものは経験していないことを想像するのが難しい生き物ですからね」
「能も覚悟もない者が上に立つと弊害しか生み出さないな」
「お言葉をお慎みください。ここは邸ではございませんよ」
「……ハァ」
窓から見える世界が暗い。遠くまで見通せない。知らないうちに影響を受けていたようで、自分の気持ちが塞いでいるのを感じる。
「……ん?」
馬繋場から宿の前に繋がる道を見下ろす。
「あの子ども……」
薄暗い中で荷車で荷物を運ぶ者たちのところで、小さな子どもがウロチョロしているのが見えた。
「……また誰かに迷惑をかけているのか」
……いくら小さいとは言え、仕事の邪魔をするのは良くないだろう。
注意しようかと考えて躊躇する。もし、自分に直接注意されて怒って暴言でも吐こうものなら、あの子どもは不敬罪に問われてしまう。
……いや、ここは2階なんだ。聞こえなかったフリをしてすぐに窓を閉じれば大丈夫か?
悩みながら見つめていると、子どもが1人の男の荷車に近づいて、何やら落書きを始める。
「…………え?」
目を疑う。
男が立ち上がって、荷車に軽く触れた瞬間、荷車がものすごい勢いで前方に進み、壁にぶつかって大破したのだ。
「…………な……」
二の句が継げない。
……何が、起こった?
いったい、あの子どもは何をしたのか。
「……神呪師の、子ども……?」
有り得ない可能性に息を飲む。
……まさか。
「どうか致しましたか?」
ガタンと音を立てて立ち上がったまま外を見詰めて息を飲む私の様子に、クァンが声をかけて来る。
「……クァン。……神呪師というのは、何歳から神呪が描けるものなのだ?」
やや呆然としたままクァンに尋ねる。目線は子どもから離れない。
「……詳しくは存じませんが……早い者であれば10歳くらいから何かしら小さなものができるようになると聞いたことがございます」
「…………10歳」
……有り得ない。
だが、それしか有り得ない。あの子どもが落書きに使っていた物。
……あれは……神呪具だった。
荷車のあの動き。周囲の男たちの呆然とした表情。
……あの小さな子どもは、神呪を描いたのだ。
「……あの子ども…………」
眼下では、大きな音に驚いた人々が飛び出してきて、その中から進み出た1人の男が子どもの頭を平手で叩いて小脇に抱えて回収していくという、一見素朴で楽し気な場面が展開されている。だが。
「何者なんだ……?」
周囲で怒ったり笑ったりしているあの者たちは、あの子どもの特異さが分からないのだろうか。
あれから、2日後には境光が出たので無事出発できた。だが、子どもの方は見かけない。元々それほど頻繁に見かけていたわけでもなかったし、身分が違うので仕方がないということは分かっているのだが、なんとなく私に見つからないように隠れているのではないかと穿ってしまう。
……それくらい、すごいことだと思うのだが。
神呪師だという両親のことは覚えている。出発の前に挨拶に来た者たちだ。父親の方が研究所の所長であり筆頭神呪師、母親がそれに次ぐ実力の神呪師だと聞いている。普段は2人とも王宮で働いているのだとか。
「才能の塊なんだな……」
そう思うと、胸がムカムカして落ち着かない。
「……王族もまた、王族にしかない能力がございますよ」
「王や領主として立てば、だろう」
「ナリタカ様はそれ以外にも明晰な頭脳をお持ちでしょう」
「……明晰なだけの者などどこにだっている」
従妹のアンドレアスが教師として指導を受けているペッレルヴォ師など、私がどれだけ勉強しても追いつけないだろうと思える。まさに、才能の塊のような人だ。
「私でなければならないことなど、これといってないだろう」
「それは、これからのナリタカ様次第でございましょうな」
……分かっている。
そんなことは分かっている。だが、もう12歳にもなる私がまだ何も突出した部分を表せていない横で、3、4歳くらいの子どもがその才能を惜しみなく発揮していては、さすがに自分というものに嫌気がさしてしまう。
「突出した才能があれば幸せかと言えば、そうとも限らないものでございますよ」
……使い方の問題だろう。ないものは使えない。あればある方がいいに決まっている。
クァンの言葉は、大人がよく口にする定番の記号のようなもので、その記号は私の心には何の作用も施さない。私なここ数年、この苛立ちを抱えたままだ。
「……次の休憩はいつだ?」
苛立ちを周囲にぶつけるわけにはいかない。一旦外に出て落ち着いた方がいいだろう。
「もうすぐ次の宿に着きますから、それまではご辛抱いただきたいのですが」
「……ハァ。分かった」
私が止めろと言えば、車は止まり、強制的に休憩に入るだろう。だが、さすがに苛立ちを紛らわすためだけに旅程を狂わせるわけにはいかない。
私は苛立ちを抱えたまま、黙って馬動車に揺られていた。