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待ち遠しい夜


 これほど、時間が夜になることを待っていたのは今まで一度も体験したことはなかった。


 そわそわと時間が過ぎることを侍女二人に気付かれないように気を張りつつ、二人が完全に寝静まる時間を待った。


 普段なら、時間を潰すことに慣れているが今日は違う。本を読んでいても、縫い物をしていても心はずっと自分の手元にはないような気がしていた。


 昨日と同じ外套を羽織り、白髪である頭を布で隠す。それでも慌てて音を立てないように注意しながら石畳の階段を降り切った。

 扉にかけられている内側の鍵を手早く解き放ち、そっと扉を開けばあとは走るだけだ。


「……っ」


 だが、普段ならば走る機会などないため、周りから見れば早足程度にしか走れなかった。自分の体力はそれほど多くはないようだ。


 息を整えつつ、木々の間をすり抜けていく。

 お気に入りの場所を仰ぎ見るとそこには一つの影があった。


 ……夢じゃなかった。


 あの後ろ姿は間違いなく、昨日の自分が見たものと同じだ。次第に胸の奥が嬉しさで満たされていく。


「……ふぅ」


 深呼吸をして、身なりがちゃんと整っているかを確認してからリルヴィアは一歩ずつアルクスへと近付いた。

 自分が歩いてくる気配に気付いたのか、アルクスが首だけこちらへと振り返る。


「あ、ルネさん。こんばんは。お先に失礼しているよ」


「こんばんは……」


 昨日、名付けてもらった夜だけの名前を再び聞いて、リルヴィアは安堵の溜息を隠しながら軽く頭を下げる。


 自分が座ることを最初から想定しているのか長椅子に座っている彼の身体は少し右側へと寄せられている。


「お邪魔します」


 一言、言い置いてからリルヴィアは隣へと座った。


 鼻を掠めたのは昨日とは違う匂いだった。どこか古めかしく、懐かしい匂いにリルヴィアはアルクスが手に持っているものへと視線を移す。


 リルヴィアの視線に気付いたのかアルクスはそれを目の前へと持ってきて、よく見せてくれた。


「うちにあった本だよ。元々は姉が持っていたものだったけれど、俺がこの本を好き過ぎて譲ってくれたんだ。昨日言っただろう、お気に入りの短編集を持って来るって」


「あ……」


 昨日の約束をすぐに実行するとは思っていなかったので、リルヴィアは思わず目を瞬かせてしまう。


「はい、どうぞ」


「……ありがとうございます」


 手に載せられた本からは、いつも自分が嗅いでいる少し古くて懐かしい匂いが強く感じられた。


 本の題名は表紙が古く掠れていて読めなかったが、とても大切に読まれているのか少し捲ってみた中身は綺麗なままだった。


「俺が一番好きな話は三つ目の話かな。この話に影響を受けて、空に流れ星が流れないか一晩中、起きていた日もあったよ」


「まぁ……」


 大きく笑い過ぎないように口元を袖で隠しつつ、背表紙の裏に刻まれている手書きの名前に目を落とした。


「……え?」


 そこに書かれていた名前に対してつい声を上げてしまうと、すぐにアルクスがそれに気付く。

 刻まれていた名前は「イルティ・ラグーナ」と書かれていた。


「あ……。言っていなかったね。俺、近衛騎士団団長のイルティ・ラグーナの弟なんだ」


「イルティ・ラグーナ団長……」


 どこかばつが悪そうにアルクスは頭を掻いていた。


「近衛騎士団では俺が団長の弟だって知られていて、それが少し面倒に感じる時があるんだ。どんなことでも、団長である姉と比べられると疲れちゃって。……だから、昨日は名前だけしか名乗らなくてごめんね?」


「い、いえっ、そんな……」


 まさか自分の知り合いの弟だったとは知らずに接していたので驚いてしまっただけだ。

 リルヴィアはもう一度、アルクスの顔を下から眺める。


 確かにイルティと同じで黒髪だし、鼻の形も似ている気がする。ただ、アルクスの方が大きく丸っこい瞳をしているので、並ばなければ姉弟だと分からないかもしれない。


「いい出来の姉を持っていると、どうしても比較されて、自分は半人前だって言われるんだ。まぁ、俺の実力がまだ足りないだけだと分かっているんだけれど……。……人のせいにしか出来ないなんて、情けないよなぁ」


 独り言のように彼は呟いていたがその表情は人知れず苦しんでいるようにも見えた。


 こういう時、どのような言葉をかけるのが正解なのかは分からない。それでも、彼が姉のようでなくとも、周囲から実力を認められたいと努力しているのは確かだ。


「……少し、失礼します」


「え?」


 リルヴィアは膝の上に投げ出されていたアルクスの掌をそっと触ってみる。

 自分よりも大きな手は、まめが潰れて固まっていた。


 以前、イルティが言っていた。剣を扱うことは簡単ではないと。最初はまめが潰れて血だらけになることもあるのだと。

 だが、そのまめが硬くなってくるのは剣が手に馴染んできた証拠でもあると言っていた。


「……アルクスさんは努力なさっている方だと思います」


 触れている手からしか、自分は語ることが出来ない。

 しかも、剣術などには素人だ。こんな自分に色々と言われたくないかもしれないが、言わずにはいられなかった。


「この手は……少しの努力でこのようになるものではないと思います」


「……」


「周りがどう言ってきたとしても、それはアルクスさんをしっかりと見て言った評価ではないと思うのです」


 今、自分が触っている手からしか感じることは出来ないが、アルクスは目に見える月日では表せない程に努力してきたのだろう。

 彼は彼なりに努力して、騎士となっているのにそれを比較して卑下することしか出来ない者達の方が自分は愚かだと思う。


 ……愚かなのは自分も一緒だわ。


 誰かを語る言葉など持っていないというのに、アルクスの苦しんでいるような表情を見たら、彼の努力を称えずにはいられなかった。


「……ルネさんは優しいね。俺はつい意地になっちゃうからな」


 苦笑しているアルクスからリルヴィアはそっと手を離す。そこには先程、見せた苦悶の表情は消えていた。


「別に自分の努力を知ってもらうために頑張っているわけじゃないけど、ちゃんと理解してくれる人がいると嬉しいものだね」


 歯を見せるように彼はにこやかな笑顔でそう言った。


「……私には剣術がどのようなものなのかは分かりませんが、それでも訓練はとても大変なものだと聞いております。その上で毎日、怪我無く無事にこなすだけでも十分に凄いことだと思っていますので……」


 そこでリルヴィアは一度、口を閉じて深く息を吸ってから言葉を続けた。


「なので、どうかお怪我がないように勤められることを祈るだけです……」


 剣を扱うことは危険が伴うらしいので、アルクスには怪我をして欲しくない。


「……うん、そうだね。ルネさんには心配をかけたくないから。……これからも気を付けて訓練するよ」


「はい……」


 笑みを浮かべるアルクスは先程までとは違って、表情が柔らかいものとなっていた。


「……せっかく、ルネさんに元気をもらったんだから、明日も頑張らないと」


 アルクスはゆっくりと立ち上がった。


「明日は隣国の使者が来るらしいから、少し面倒だけれどね」


「隣国の……」


「クプルム王国の使者が平和協定の更新に訪れるらしい」


「……」


 確か、地図上ではネフリティス王国の上に位置している隣国のクプルム王国とは数十年前に大きな戦争をして以来、毎年のように平和協定の使者を互いに送り合って、その安寧の維持に努めていると聞いている。


 だが、年中寒い気候のクプルム王国よりも南に位置しているネフリティス王国は温暖な土地で作物がよく収穫できるので、未だに豊かなネフリティス王国を狙っているのではないかと言われていた。

 もちろん、その情報は全てイルティから聞いたものである。


「明日はその使者を主役とした宴が夜にあるから、その警備に当たらなければならないんだ。だから、ここには来られないかもしれない」


「いえ、そんな……。……今年も無事に協定の調印が行われるといいですね」


 数十年前の戦争の爪痕が薄まりつつあっても、クプルム王国に対して未だに根に持っている者は少なくないはずだ。


 人の心というものは、負の感情ほど強く覚えているものである。だからこそ、鉄壁な警護によって安全に平和協定の更新を行わなければならないのだろう。


 ……どうりでイルティさんが最近、ずっと忙しそうにしていたわけだわ。


 この時期になると王城だけではなく、城下も緊迫した雰囲気に包まれると侍女のセリアが言っていた。一歩、(あやま)ちを起こせば再び戦争となる可能性だってあるからだ。


「あ、本はゆっくり読んでくれて構わないから」


「はい……。ありがとうございます」


 明日はアルクスに会えないかもしれないが、借りた本を読む楽しみが出来た。次に会った時に感想を言えるように明日のうちに読んでしまいたい。


「……今日も見送りはいらない?」


「申し訳ないですが……」


 リルヴィアが申し訳なさそうに答えると彼は小さく苦笑して頷いた。


「それじゃあ、気をつけて戻ってね。……おやすみなさい、ルネさん」


「おやすみなさいませ……」


 アルクスがこちらに手を振って来るので、リルヴィアも手を振り返した。背を向ける瞬間まで彼の視線と自分のものを重ねていたが、それはやがて途切れていく。


「……」


 木々が立ち並んでいる暗闇へとその背中が影になるように消えていってしまう。


 アルクスにおやすみなさいと言葉を送るのはこれで二度目だ。

 友人ならば、特別なことではないはずなのに、その一言を呟けば、晴れた夜が来るまで彼には会えない。


 胸に残る温かさと寂しさが何から来るものなのかを理解する感情を持たないまま、人知れず溜息を吐くしかなかった。

 

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