夕日
死ぬ瞬間がどういうものか考えたことはなかった。
読んでいた物語には死とはどういうものか記されていなかった。
アルクスが必死の形相でこちらに向けて手を伸ばしてくる。だが、それさえ構わずにリルヴィアは自らの喉元に刃を立てた。
振り続ける雨音は先程よりも強みを増したように思える。それなのに、激しい水音の中に一つだけはっきりと聞こえた言葉があった。
「――リルヴィア!」
青い瞳が自分だけを映している。強く呼ばれた名前は確かに自分のもので、その一瞬だけリルヴィアは動きを止めてしまった。
突進するようにアルクスが自分へと向かってきていた。リルヴィアに生まれた一瞬の隙を彼は見逃すことはなかった。
短剣を持つ手をアルクスが跳ね返すように、身体から離れた位置へと掴み上げられる。
しかし、勢い余ってアルクスの身体が直撃したリルヴィアはそのまま体勢を後ろへと崩してしまう。
「っ……」
視界は反転し、目を開けば雨を落とす黒い雲が見えた。身体に痛みがないのは、アルクスが自分の身体を強く抱きしめてくれているからだろう。
地面に染み込んだ水が直接服に染み込んできて冷たいというのに、自分の身体の前部分は何故か温もりを感じていた。
持っていたはずの短剣はもう、手元にはない。
ただ、分かるのは自分が死に損なったという現実と、アルクスから伝わる熱だけだった。
「……どうして」
リルヴィアの肩口に顔を埋めていたアルクスがゆっくりと上体を起こす。その顔は少し土で汚れ、そして涙で溢れていた。
「どうして、そんなことをするんだ」
雨ではない、温かい涙がリルヴィアの頬へと落とされる。
「自分が消えればいいと、本当に思っているなら、それは間違っている」
「……」
「俺は、そんなことを願ったことはない。俺が君に誓ったのは、一緒に夕日を見ようという願いだけだ」
ぽつりと落とされる涙は彼の感情が見えるものとして結晶化されたものなのだろう。だからこんなにも美しく見えるのだ。
「嬉しかった。たくさんのことを話して、笑って……。それだけで、良かった。君が笑える世界にしてあげたかった。君の心を守りたかったのに、守ってあげられなかった……!」
アルクスは再び、リルヴィアにすがるように抱きしめる。その腕は強い力で自分を包み込んでいるというのに、震えていた。
「ごめん、君の心を守れなくて……。でも……お願いだから、どうか……消えないでくれ。消えたいなんて、言わないでくれ」
訴えかける言葉は一つ一つが震えたものとなって、リルヴィアの心に落ちてくる。
「……私は……自分のことが、嫌いです」
アルクスの訴えに重ねるようにリルヴィアは呟きを返す。
「誰からも疎まれるなら、消えてしまえばいいと何度も思っていました。なのに、ずっと躊躇い続けてしまった……」
リルヴィアはそこで小さく息を吸い込み、言葉を続けた。
「いつか、自分を必要としてくれる人が現れるのではと、愚かな期待を持っていたから……。早く、自分で消えることを選んでいれば、こんなことにはならなかったのに……」
雨はまた、強くなっていく。遠くで聞こえる轟音は川の水が止まることなく流れ続けている音だ。
もう、間に合わないかもしれない。こうなってしまったのも全て自分のせいだ。
だから、早く消えさせて欲しかった。
想像しなくても、分かっている。
この後、自分に浴びせられる罵声と、冷めた視線。そして憎しみの感情――。
その全てから逃げてしまいたかった。
「……ねぇ、聞いて欲しいんだ」
耳元でアルクスがこの場に似合わない程の穏やか声で呟いた。
「君が俺を好きだと言ってくれたように、俺も君のことが好きだ。多分それは、友人や側近としてだけじゃない。アルクスという一人の人間として君のことが好きなんだ」
「……」
アルクスが再び、自分の顔を覗くように上体を起こす。降っていた雨は彼によって阻まれた。
揺れる瞳でリルヴィアはアルクスを真っ直ぐと見つめる。
「雨を降らせる力を持っていても、君がこの国の姫でも、本好きの友人でも……。その全部を含めた上で君が好きなんだ」
アルクスの右手がリルヴィアの左頬へと添えられる。雨で濡れているはずなのに、彼の手の温度は自分が知っている柔らかなものだった。
「君が消えると言うなら、俺も付いて行く。俺は君の心を守るために、傍にいることを誓ったんだから」
「……っ。あなたは……酷い方ですね。そんなことを言われれば、私がどう思うか分かるでしょうに」
悔しがるようにリルヴィアが顔を歪ませると、アルクスは軽く頷いて破顔した。
「知っているよ。君はとても優しい人だと。誰よりも優しくて、儚くて……そして、雨に溶けてしまいそうなくらいに脆い人だから……。だから、俺は君を自分の手で守りたいなんて、傲慢なことを願ってしまったんだ」
頬をなぞるように触れられる手の温度が心地よく、リルヴィアは薄く目を閉じる。
「俺は君が必要なんだ。この気持ちは君のためだけにある。君が生きていなければ、隣に居なければ意味がないものとなってしまう」
「アルクスさん……」
どうして、彼はこれほど優しい言葉を自分に与えてくれるのだろう。いや、きっと感情というものは損得で決まるものではないのだ。
好きだから、傍にいたい。好きだから支えたい。
その気持ちは優しさと温かさで出来ているのだと思う。
「誰かに必要されたいと、誰かのために生きたいと思うのならば、どうか俺のために生きて欲しい。友人としてでも、姫君としてでもなく、俺が生きるには君の心が必要だから」
告げられる言葉は、生きて来た中で一番、優しくて残酷な言葉だった。
彼は自分に生きろと言っているのだ。それを嬉しいと思ってしまう自分が憎らしかった。
誰かにとっての害としかならない自分を好きだと言ってくれるアルクスの心を受け止めたいと思ってしまった。
欲が出てしまったのだ。
このまま自分が消えれば、きっと皆が幸せになるだろうとそれだけを信じ、寄せられる心を無視していた。
本当は死にたくなんてない。アルクスの前から消えたくはない。
それでも、きっとこの先には自分を憎み、恨む人だっているだろう。
自分自身がこの存在を許せないというのに、目の前のアルクスは自分が「リルヴィア」として居続けることを望んでくれる。
それならば――。ほんの少しだけ、許してもいいだろうか。
自分を好きだと、必要だと言ってくれる人のために生きてみたいと思ってもいいだろうか。
心の中で、閉じ込めていたはずの感情が蓋を開けてく。溢れる想いが零れていく。
独りは寂しい。夜は虚しい。
その感情をアルクスに伝えてしまいたい。
「……私も、本当は……ずっと、誰かに想って欲しかった。私を好きでいてくれる人と……ずっと、一緒に……」
リルヴィアは抑えきれなくなった涙を零しながら、泥水で汚れた手で拭っていく。
心が求めるのは一つ。
それが何なのか分かっていた。
「アルクスさん、私もあなたが必要なんです……。生きていくのは怖いことだと分かっているのに……それでも、あなたと生きたいと望んでしまう……」
強くは生きられないのに、それよりも強く願ってしまった。
アルクスと共に生きたいと。
「望んでも、いいですか。あなたと生きることを……。私は弱い人間だから、きっとあなたにも迷惑がかかることがあると分かっています。それでも、あなたと共にあることを願ってもいいでしょうか」
自分はずるい人間だ。頼って、甘えて、そして望むことしか出来ない。
それなのに、目の前で微笑んでくれるアルクスはゆっくりと頷いてくれた。
それがどうしようもなく、幸せだと感じた。
自分は周りを不幸にしてしまう存在だというのに、勿体ないくらいに幸せだと思ってしまったのだ。
「もう一度だけ、無礼を許して欲しい。――リルヴィア、君を心から想っている」
リルヴィアの左頬と頭にアルクスは両手を添えてくる。近付くアルクスの顔は優しいもので、リルヴィアは涙を流したまま微笑み、そして目を閉じた。
自分の唇にアルクスのものがそっと重なる。その一瞬で、冷たくなってしまったはずの身体の内側に火が灯ったように熱くなっていく。
心地よささえも感じるその口付けにすがるようにリルヴィアは顎を軽く上げる。
想われるということが、自分の心の中に春風のような柔らかさを作り上げていくものだとは知らなかった。
生まれてはじめて、空白であり続けた心の中に春の日差しのような温かさが広がっていく。
アルクスのうなじへと両手を伸ばし、リルヴィアは自分に押し付けるように力を入れた。
この瞬間を忘れなければ、少しだけ強く生きられる気がしたのだ。それを分かってくれているのか、自分に覆いかぶさるように口付けてくるアルクスも頭に回した手に力を込めてくる。
温かい気持ちで、心も身体も満たされていく。
与えられた言葉、気持ちを忘れることはないだろう。これほど嬉しいものを忘れるわけがない。
だからこそ、強く生きたいと思えるようになってしまう。
ふと、何かに気付いたアルクスが唇から離れていく。
その驚きの瞳は空へと向けられていた。
何事だろうかとリルヴィアが思っているとアルクスによって、上体をゆっくりと起こされる。
身体を起こして、濡れた土の上へと座り直すとアルクスが指をさす方角を見て、リルヴィアは息を飲んだ。
遥か彼方に見える、雲間から覗き込むのは淡い閃光。見た事のない、眩い線は少しずつ広がっていく。
そこで初めて、雨が止んでいることに気付いた。
「どうして……」
自分でそう呟きつつも、目の前に広がっていく光景から、背を向けることはしなかった。
空を覆う雲は灰色から白いものへと変わり、強い風が吹いているわけでもないのに、雲はどこかへと流れていく。
晴れていく空に、浮かぶように見えたのは眩しいくらいに美しい世界だった。
薄い朱色の太陽はその周りを鮮やかな同色でにじませている。
物語の中で想像を膨らませていた光景よりも、それはとても美しくこの一瞬を彩る儚いものだと感じた。
自分が見た事のなかった世界がこれ程までに美しいものだと知らなかったリルヴィアは夕日を見ながら涙を再び零す。
それが嬉し涙だとアルクスは分かっているらしく、最初に会った頃のような無邪気な笑顔をこちらに向けて来た。
アルクスの笑みにリルヴィアも涙を流しながら笑い返した。
冷たい雨はすっかり止み、温かな夕日が笑い合う二人をそっと照らしていた。




