冷たい雨
「……」
アルクスの手際が良過ぎる戦いを呆然と見ていた頭の男はそこで初めて動揺したような表情を浮かべ始める。
リルヴィアの方から見えるアルクスの表情は無ということしか分からない。黒髪が肌に張り付き、青い瞳は光を無くしたまま、頭の男を見つめている。
頭の男も気付いたのだろう。アルクスが彼よりも強いということを。アルクスに恐怖したのか、頭の男が握っていた長剣が自我を持ったように手から離れていく。
呆然としている頭の男に対して、アルクスが躊躇なく剣を振り上げた。
この瞬間、アルクスが頭の男に問答無用で剣を振り下ろすことが分かっていたリルヴィアは力の限り名前を呼んだ。
「――アルクスさんっ!」
雨の音を打ち消すように叫んだリルヴィアの声が届いたのか、アルクスの振り上げた腕が止まった。
「……っ」
動きそうになる腕をアルクスは唇を噛んで留めている。
アルクスの気迫に圧されてなのか、頭の男はその場に尻餅を付いた。表情はただ怯えたように強張っている。
「殺しては、いけません」
「っ……。こいつらは……! 君を殺そうとしたのに、どうしてそんなことを言うんだ……!」
とどめを刺すことを抑えていたアルクスの腕が振り下ろされる。
「っ!」
一瞬、リルヴィアは目を瞑ってしまう。
しかし、鈍い音はしても叫び声のようなものは聞こえず、様子を窺うように瞳を開けて見ると、アルクスの足元に頭の男が転がっていた。
血は出ておらず、白目を剥いているようだ。どうやらアルクスは剣の柄で男の頭部を殴り、気絶させたらしい。
他の四人の男達も皆が気絶しているだけのようだ。
アルクスの手際の良さと、正確さに安堵しつつもリルヴィアは自分が犯している罪の続きを思い出し、短剣を再び強く握りしめた。
「……リルヴィア姫、お怪我は……」
冷静を取り戻した声色でアルクスがこちらを振り返る。
しかし、アルクスはリルヴィアが行おうとしている行為に気付き、目を大きく見開いた。
揺らいだ青い瞳に悲しみが込められているように見えて、リルヴィアは小さく微笑む。
「……ごめんなさい、アルクスさん」
「何を……するつもりなんだ」
リルヴィアは短剣の刃先を自分の喉元へと向けていた。その光景を見たアルクスの表情は悲しみによって歪んでいる。
「この人達は私を使って、大雨を降らせ、そして……ネフリティスに百年前と同じ大災害をもたらそうとしているんです」
「……大雨で流行り病が発症して、多くの人が亡くなったあの大災害のことか」
「そうです。先程、この人達は上流にある川の水量を調節する堰を壊してしまいました。あとは増水した川の水が下流に流れていくだけです。その水を増やしているのは……私なんです」
アルクスが剣を持っていない方の手を自分の方へと伸ばしてくる。だが、リルヴィアは少し後ろに下がって、首を横に振った。
「このまま雨が降り続ければ、増水した水が王都を襲うでしょう。治水が百年前よりも発達しているとは言え、近隣の村々の農地に大打撃を与えることは確実です」
時間はないのだ。自分が王城の塔から出て、すでに二週間。十分すぎる雨が降っている。
もしかすると自分の知らないところで大雨による影響が出ているかもしれない。
「今から、王城の塔に戻る時間はありません。ですが……私が今、いなくなってしまえば、この冷たい雨が止むかもしれません」
「っ!」
アルクスの表情が泣き出しそうなくらいに歪んだ。
「駄目だ。そんなの……俺が許さない」
「他に方法はありません。私の思い通りにこの雨が止むことはないのです。消えるしか……私が消えるしかないんですよ」
諭すような口調でリルヴィアはアルクスに告げる。彼は納得がいかないと言わんばかりに首を横に振った。
「それなら君が……君が消えて、雨が止むという確証だってないじゃないか」
「ええ、そうです。でも私は……」
リルヴィアは顏を少し上へと向けて、冷たい雨を頬に受け止める。
「私はきっと、耐えられません。生きていても、誰かの迷惑となり続けることに耐えられないのです。……誰かを包み込む優しい雨にはなれなかった。私は……不幸を招く、冷たい雨にしかなれなかった」
今もこうやってアルクスを巻き込んでしまっている。
それを痛ましく思う心を持っている限り、知らないうちに自分以外の誰かを不幸にしてしまうことに慣れることなど出来はしない。
「逃げてしまう自分は弱い人間なのです。本当なら、あなたを側近として受け入れるべきではなかった。甘えるべきではなかった。……誰も、何も知らないままずっと塔の中で閉じこもり続ければ良かった」
独りぼっちで過ごしていた夜に出会ったのは、自分が浴びる事の出来ない太陽のような温かさを持った人。
向けられる笑顔がこれ程、柔らかく嬉しいものだとは知らなかった。
優しさと喜びを知り、本当の意味での寂しさを知った。
全て、アルクスが自分に与えてくれた感情だ。それを持てたことを喜ばしくも思うし、持たなければ良かったとも思える。
心さえなければ、きっと自分は何も感じることがないまま、この先も生きていただろう。
今だからこそ、はっきりと自覚している。
自分は、ずっと独りで夜の中に閉じこもっていれば良かったのだ。そうすれば、自分以外の誰かを傷付けて、苦しめることなどなかったのに。
「ごめんなさい、アルクスさん……。酷い主で……友人でごめんなさい」
「止めるんだ。お願いだから……」
一歩ずつゆっくりと近付こうとするアルクスを牽制するようにリルヴィアは喉元へと刃先を更に近づける。
まだ刺してはいないが、少しでも動かせば身体に痛みが沁みていくだろう。
「私、あなたと友人になれて本当に嬉しかったんです。……側近になりたいと言ってくれた時も嬉しかった……。あなたと過ごした全部が幸せだった」
思い返せば、それほど長い時間を一緒に過ごしたわけではない。
だが、募る想いは濃密で、一つ一つが夜空の星のように眩しく光っている。全て大切な時間だ。
「あなたの持つ優しさ、温かい笑顔、温度……全部が好きでした。独りぼっちだった私にたくさんのものをくれたあなたが大好きでした」
「っ……」
アルクスが唇を噛んで悔しそうな表情をした。その表情をさせてしまっているのは自分なのだ。
「もし、私が死んでも雨が止まなかったら、ごめんなさい……」
リルヴィアは雨越しにアルクスを見つめる。彼は首を横に振り続けた。
「――さようなら、アルクスさん」
冷たい雨に似合わないくらいに、穏やかな笑みをアルクスに向けてから、リルヴィアは短剣を持つ両手に力を込める。
「っ! やめ……」
アルクスが焦ったような表情で地を蹴った。彼の右手にあった長剣はその場に音を立てて倒れていったが、その光景がやけにゆっくりと見えた。




