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静かな覚悟

 

「……」


 どのくらいの時間が過ぎただろうか。恐らく、昼は過ぎているだろう。空腹を感じてはいるものの、腹部を縄で縛りあげられているため、窮屈さから物を食べたいと思えなかった。


 ……セリア達は無事かしら。


 彼女達も自分のように縛り上げられていた。せめて、アルクス達が気付いて、助けてくれている事を願うしかない。


 空を見上げて、止んで欲しいと願っても、灰色の雲は雨を落とすばかりでリルヴィアの気持ちを汲み取ってはくれない。


 このまま、上流であるこの場所に自分がいれば多くの雨を降らせてしまうことは分かっているし、水量だってもちろん増えるに決まっている。


 ……王城の塔に戻るには時間が足りなさすぎる。


 すぐにでも雨を止めなければならないと理解しているが、ここは王城からかなり遠く離れた場所であるため、自力で戻るにはあまりにも時間が足りない。


 今、自分が着ている雨除けの術がかけられた外套は全く効力を発揮していないようなので、あてには出来ない。


 そこで、リルヴィアは一つだけ方法を思いつく。


 それは方法と呼ぶにはあまりにも強引で確信が持てるものではなかった。何をしても間に合わないというのなら、それならばいっその事――。


 目を細めて、息を吐く。浮かぶのは諦めの表情ではなく一つの決意。

 誰かの迷惑となって生き続けるのは弱い自分には出来ない。


 このままクプルムの密偵達に良いように扱われ、どうせ後々殺されるというのであれば、死ぬのが早くなるか遅くなるかの違いだろう。


 幸いというべきなのか、服の下に短剣を隠し持っている。これでどうにか――。


「……」


 胸元で小さく揺れた朱色の石が自分を励ますようにそこに在った。この首飾りを貰った時の事を静かに思い出す。


 穏やかな声、優しい微笑み、自分を気遣う言葉。その全てが思い出となる覚悟を今、決めなければならない。


 優先するべきものは何か、分かっているつもりだ。

 自分のせいで誰かを傷付けるわけにはいかない。たくさんのものを失うわけにはいかない。


 リルヴィアはもう一度、気合を入れ直し、何とか縄から逃れようともがいてみる。


 雨によって水分を含んだせいなのか、縄が先程よりも柔らかい気がした。もしかすると上手くいけば縄から身体を抜けられるかもしれない。


 試しに着ていた外套を破るつもりで下へずらすように引っ張ってみる。荒っぽく引っ張ってみると見事にボタンは引き千切れ、外套は少しずつ手元へとずれていく。

 そして外套を脱ぎ切ると、布一枚分がどれほど重要なものだったのかよく分かった。


 ……これで、何とか。


 動きやすくなった身体をもう一度捻らせながら、腕を上下に動かしていく。


「っ!」


 右腕が先に縄から抜けきり、次に左腕もするりと抜ける。空いた両手を使ってリルヴィアは腹辺りを締め付けていた縄を素早く緩める。

 最後に放り投げるように縄を潜って、完全な自由の身になることを成功させた。


 破ってしまった外套を捨て置き、冷え切った身体を叱責するように、無理矢理に立ち上がる。久しぶりに立ったせいか、足が痺れているようにも感じるが、今はそれどころではない。


 とにかく、クプルムの密偵達に見つかる前にこの場から離れた方がいいだろうとリルヴィアはもつれる足を何とか動かしつつ、小走りに前へと進み始める。


 早く、逃げなければ。少しでも下流へと移動した方がいいだろう。


 リルヴィアは周りを見渡しながら、クプルムの密偵達が近くにいないことを確認し、少し斜面となっている道を駆けるように下り始める。


「……っは……」


 走りながら上手く呼吸することが出来ないため、すぐに息が上がってしまう。だが、立ち止まって弱音を吐いている暇などないのだ。


 痛みも空腹も辛さも、全て後から後悔すればいい。だから今は奴らの手から逃れることだけを考えるのだ。


 遥か後方で轟音が聞こえた気がしてリルヴィアは一瞬、立ち止まる。


「うそ……」


 耳を澄ませば、先程まで聞こえていた川の水音が大きいものとなっている。


 密偵達は川の水量を調節するための堰を壊すと言っていた。この水音の変化は堰が壊された証拠なのかもしれない。


「っ……」


 それならば尚更、自分はここにいてはいけないだろう。この場所に居れば、自然と雨が降るため、川の流れの勢いを増すのに力を貸すだけだ。


 昨夜、泊まっていたアティ村がどの方角にあるのかは分からないがとにかくこの場所から離れるしかない。リルヴィアはもつれる足に注意しながら、ただひたすら走り続けた。


 茂みの枝に身体が当たっても、雨足が強くなっても、それすら無視して逃げることだけに集中する。


 汗と雨が服に染み込み、弾いた土が泥となって足を汚す。どこからどう見てもこの国の姫とは思えない格好に自分でも笑ってしまいそうだ。

 いや、いっそのこと笑えるくらいに余裕があれば良かったのだが、強まる雨が激しさを含め視界を奪っていく。


「あっ……」


 視界が揺らいだせいで、足元への注意を怠ったリルヴィアは大きな石に躓き、その場に転がるように身体を反転させる。


 白い服も白い髪も全てが泥で汚れて、重く張り付く。身体の内側は熱いのに、四肢は随分と冷えているように感じた。


 ……早く、急がないと。


 地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がり、再び歩を進めようとした時だ。


 真後ろから馬の鳴き声と蹄の音が響いたことで、リルヴィアの焦りが大きいものへと変化する。


 ……気付かれた!


 そういえば、彼らは荷馬車を持っていたのだから、馬で自分を追ってきてもおかしくはないだろう。そこまで考えが至らなかった自分が悪い。


 蹄の音がする方に背を向けて、リルヴィアは再び走り始める。疲れなど襲い掛かる恐怖によっていつのまにか消えてしまっていた。


 ふっと息を吐いた瞬間、それは起こった。


 自分の左脇を何か勢い付いたものが過ぎ去っていったのだ。あまりにも動きが早くて見えなかったものは前方にある大木に当たって、動きを止める。

 それが何かを認識したリルヴィアは引き攣った声を上げた。


 大木の幹に深々と刺さっていたのは鋭い鉄の矢だった。


 立ち止まって、後ろを振り返ると馬上からこちらを狙っている、石弓(いしゆみ)を両手に持ったクプルムの密偵がいた。

 その後ろからは他の男達も追いかけてきている。


「よぉ、お姫さん。自力で縄から抜けるとはたいした根性だな」


 頭の男が馬から降りてこちらに近づいて来る。男が浮かべている笑みは怒りが混じっているもののように見えた。

 

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