泣ける場所
いつも待ち合わせしている同じくらいの時間帯にリルヴィアがお気に入りの場所へ行くと、そこにはすでにアルクスの姿があった。リルヴィアの足音に気付いたのか、彼はこちらを振り返る。
「こんばんは、ルネさん」
夜だけの名前を彼が呼んでくれたことにリルヴィアは嬉しさを感じたことをそっと隠しつつ、笑みを浮かべた。
「アルクスさん、こんばんは」
やはり、主と従者という関係よりもこちらの方が幾分か気は楽だ。それをアルクスも承知しているのか、昼間の時に見せた堅苦しい雰囲気は全く見られなかった。
リルヴィアはアルクスの隣にそっと腰かける。
「昼間は突然訪ねて、ごめんね?」
アルクスは少し肩を竦めながら、申し訳なさそうに呟く。
「確かに驚きました。まさか……アルクスさんが、私の側近になりたいなんて想像していなかったものですから」
「うーん。俺もこんなに早く決まるとは思っていなかったんだけどね」
それはいつか自分の側近になりたいと申し出るつもりではいたという事だろうか。
「実は昨日、姉上に君との仲を知られちゃってさ」
「えっ……」
やはり、イルティは自分がアルクスと関わっていることを気付いていたらしい。思わず、勢いよく振り返ると指五本分の先にアルクスの顔があった。
突然の距離の近さにリルヴィアは固まってしまう。だが、アルクスは小さく苦笑するだけで、すっと視線を空へと移した。
「姉上に言ったんだ。夜の友人として君と会っていたって」
「……イルティさんは何と……?」
「驚いているみたいだったよ」
困ったようにアルクスは眉を下げた。
「俺と君が友人なのも、君が夜にこうやって一人で星を見ていたことも」
「……」
誰にも言っていない秘密の時間だ。ずっと一緒にいるセリアやミーシェにさえ秘密にしている。その秘密の時間の中に、ふわりと春の風が舞うようにアルクスがやって来たのだ。
「だから俺、姉上に言ったんだ。リルヴィア姫の側近になりたいって」
「アルクスさんが自ら……」
「うん、そうだよ。でも、それを承認してもらうために、姉上と一晩中、剣で決闘することになっちゃって。まぁ、何とか勝てたから良かったけれど、あと十回勝負しろと言われたら負けていたなぁ」
「けっ……決闘っ⁉」
声が裏返ってしまったリルヴィアは、後から大声を出してしまったことに気付き、自分の口をそっと押えた。
「あ、あの……。お怪我は……」
「え? あ、大丈夫だよ。擦り傷はたくさん作ったけれど、すぐに治るよ。俺も毎日、鍛えているからね」
「ですが……」
リルヴィアは視線をアルクスの手に向ける。大きな手を昼間はよく見ていなかったが、今なら分かる。以前よりも擦り傷が増えていたのだ。
「本当に大丈夫だよ。だから、気にしないで――」
アルクスが言葉を全部、告げる前にリルヴィアはその手を両手で包み込むように握った。
「……」
怪我をしてまで、どうして彼はそれほど自分のために動いてくれるのだろう。混ざり合った気持ちは嬉しさと申し訳なさと、もう一つ――愛おしさだった。
「……ありがとうございます」
リルヴィアは涙を目元に溜めながら、アルクスの手を自分の額に押し付けるように握りしめた。
自分は彼に何も与えられないというのに、どうしてそこまで自分に優しくて温かいものを与えてくれるのだろう。
「……俺、君が泣ける場所になりたかったんだ」
「え……」
アルクスは口元を緩めて、握られていない方の手の指先で、リルヴィアの目元をそっと拭っていく。涙はアルクスの指先に吸い取られるように持って行かれてしまった。
「君は周りの人に心配かけないように、いつも気を張っているんじゃないかな」
「それは……」
リルヴィアは口籠ってしまう。
だって、自分は仮にもこの国の王女という立場だ。誰かに弱みを見せて、そう易々と泣くことは許されない。もし泣いたとしても、誰かがその涙を拭ってくれるわけではないのだ。
「ルネさんは強い人だと思う。でも、俺の前ではただの女の子で居て欲しいんだ。あ、もちろん夜だけ、だけどね」
「アルクスさん……」
彼は一体、どこまで自分のことを理解してくれているのだろう。
アルクスの負担になると分かっているのに、自分を想ってくれていることが嬉しくて、リルヴィアは再び瞳を潤ませた。
「それで、今から言う言葉は友人として言わせてもらうよ」
アルクスがリルヴィアの手に大きな手を重ねてくる。普段、剣が握られているその手の内側は硬いものだったがとても温かった。
「君と交わした約束のために。……いつかその瞳が夕暮れ色に染まることを願って、君の心を守る剣と盾になることを誓う」
静かに紡がれる言葉の意味がどういうものなのかは理解していた。
昼間にもアルクスは自分に向けて、こう言っていた。
この瞳が夕暮れ色に染まる瞬間を見たいと。
……友人としてでも、側近としてでも、その願いは変らないのね。
どちらの場合でも、自分の心に寄り添うと言っているのだ。
それが嬉しくて、リルヴィアは自分の口を押えながら、強く頷いた。だが、涙だけは止まることなく零れ続ける。
「ええと、大丈夫? 君にとって泣ける場所にはなりたいけれど、悲しんで欲しいという意味じゃないからね……」
アルクスは中々泣き止まないリルヴィアの様子を見て、少し慌てたように軽く背中を撫でてくる。
「いえ、悲しいわけではないのです……」
手の甲で必死に涙を拭いつつ、リルヴィアは顏を上げる。
「今まで生きてきた中で、一番嬉しい言葉を頂いたのが……。どうしようもなく、幸せだと感じてしまったのです」
涙を拭き終えて、リルヴィアは再びアルクスの手を握った。
「ありがとうございます、アルクスさん」
自然と笑みを浮かべられるのはきっとアルクスのおかげだ。
胸元に漂っている温かい気持ちも、明日がまた来ればいいと思えるようになったのも、全てがアルクスに出会った故だ。
「えっ、いや……。俺も、君が幸せになってくれる方が……嬉しいし」
アルクスはほんの少し、頬を赤らめながら視線を重ねてくる。
「まだ友人としても、側近としても至らない点があると思うけれど……。これからも宜しくね」
「はい」
きっと、この一日を忘れることはないだろう。この先、自分の身に何か起きたとしても今日のことを思い出せば、乗り越えられそうな気がした。
与えられたのは優しさと温かさと、少し添えられた勇気。
「……また明日も晴れたら、きっと夜空は綺麗ですよ」
リルヴィアの呟きにアルクスは小さく笑った。
明日も会える。そして、夜にも会えるのだ。
募っていく想いが友人に対するものでなくても、その喜びが変わることはない。
アルクスの笑みに返すようにリルヴィアも微笑を浮かべつつ、星を見るべく夜空に顔を向けた。今日も星の美しさは変らないというのに、今まで一番眩く見えた気がした。




