秘密の場所
太陽が沈めば、塔の外へと出られる身となる。日が出ているうちに外へ出ると雨を降らせてしまうが、日が完全に沈んだあとならば、外へ出ても雨が降ることはない。
自分でも可笑しな力だと思うが、本当にそうなってしまうので仕方がないのだ。
だからこそ、父である国王も義兄弟達も自分をこの塔へと閉じ込めて日中は雨を降らせないようにしている。
それは恐らく正しいことだ。
自分が塔の外に居れば、ずっと雨が降り続けるため国中の人に悪影響を及ぼしてしまう。密やかに塔の中に閉じこもって暮らすしかないのだ。
「……よし」
リルヴィアは念のために雨除けの術がかけられた外套を羽織り、そのまま頭を隠した。
塔の中に閉じこもってばかりだと、身体がなまって仕方がない。毎日というわけではないが、こうやって日が沈み、皆が眠りについた時間帯に一人で塔の外へと散歩することを小さな楽しみとしていた。
もちろん、誰かに知られればこの夜の散歩が咎められる行為だと自覚している。
すっかり夜目が利くようになってしまったので、灯りなしでも廊下の壁に接触することなく真っすぐと進むことができた。廊下を静かに歩き、石畳の階段を降りていく。
セリアもミーシェも眠りが深い方なので自分がこうやってこっそりと外へ散歩に行っていることはもちろん知らない。
階段を降り切って、内側から鍵のかけられた扉に手を伸ばす。かちゃり、と金属音が響くがそれは微かなものなので、塔全体に反響するほどの音ではない。
扉をゆっくりと開けていくと、開け放した扉の向こう側から月明りが射し込んできて、リルヴィアは一瞬だけ目を閉じた。
その眩しさしか、自分は知らない。
太陽を直に浴びる時はどのような温かさなのか気にならないわけではなかった。
リルヴィアは口をきゅっと結び直してから、塔の外へと一歩出る。靴の裏から伝わる土の感触はいつも懐かしく思ってしまう。
鼻を掠めるのは塔の周りを囲っている木々の香り。風は吹いてはいないが、どこからか誰かが陽気に歌っている声がここまで届いていた。
それ以外は何もない夜の世界。
自分はこの中でしか生きることが出来ない。
一歩ずつ歩みを進めては、自分がいかに普通とは違うということを再確認してしまう。
暗い事を考えては駄目だと頭を振り、リルヴィアはお気に入りの場所を目指した。
自分が星見に使っている場所は塔から少し離れた木々が開けた場所にある。そこに古い長椅子が置かれていたので、いつからか自分はそれをお気に入りの場所として使うことにした。
ここに長椅子を持ち込んだ誰かも自分と同じようにひっそりと星見をしていたのかもしれないなどと、思いを馳せつつ、リルヴィアはその場所へと向かった。
それなのに、今日は違ったのだ。
「っ……」
自分がいつも使っている長椅子に見知らぬ人影が座っていた。こんな人気のない場所に誰かが来たことなんて今までなかった。
むしろ、稀有な力を持つ自分を恐れているため、誰かが塔周辺に足を向けることの方が少ないのだ。
長椅子の上に座っているのはどうやら男性のようで、彼はただ静かに空を見上げていた。
顔はここからではよく見えないが、着ている服に見覚えがあり、よく見ようと一歩だけ足を前に出した時だった。
足元にあった枝に気付かずに音を立てて折ってしまう。思わず、息が引き攣りそうになったが、口元を片手で押さえてリルヴィアは視線を再び長椅子の方へと向けた。
先程まで背を向けていた彼は、音に気付いたのかこちらを振り返った。
「――誰かいるのか?」
問い詰めるような声色ではなく、穏やかに訊ねられる声につい安堵してしまう。
このまま木の裏側に隠れていてもお互いに不安が募るだけだ。それなら姿を見せた方がいいだろうか。
リルヴィアは頭を隠している布を深く被ってから、月明かりが差し込む場所へと姿を現した。
「……こんばんは」
「こんばんは」
普通に挨拶の言葉を交わしただけなのに、彼はどこか安堵したように笑った。その笑顔は自分が見て来た表情の中で一番温かいものだった。
「あ、もしかして、ここって君のお気に入りの場所だった?」
男は慌てたように長椅子の真ん中に座っていた身体を端へと動かした。どうやら一緒に座るように勧めているらしい。
「……失礼します」
いつも世話になっている侍女二人とイルティ以外の人間と言葉を交わすのは久しぶりだ。自分の言葉や態度は相手に不快な思いを与えていないだろうか。
リルヴィアは彼の隣に腰掛けつつ、顔をこっそりと見た。
黒髪の短髪で青い瞳。見た目は自分よりも少し年上のようだが、快活そうな表情をしている。
……悪い人ではなさそう。
着ている青い制服は確か、王城に勤めている近衛騎士団の騎士が着ているものと同じで、彼が騎士であることを示している。
「ここは良い場所だね。静かだし、星も月も綺麗に見えるし」
「……そうですね」
彼は布で顔を隠した自分のことを不審に思ったりしないのだろうか。もし、彼が見た目に似合わず悪い人ならば、この布を脱がそうとするかもしれない。
そう思うと、ここから立ち去った方が良い気もしてきた。
だが、穏やかな声と星を見ている表情がどこか純粋な子どものように見えてしまい、つい気を許してしまうのだ。
ふと、鼻を掠めたのはお酒の匂いだった。彼はどうやら酔っているらしい。そう思って、隣を見ると彼はどこか照れくさそうに頭を掻いていた。
「ごめん、酒の匂いがきついよね」
「い、いえ……」
何となく思っていたことに気付いたようで、彼は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「俺、一応騎士なんだけれど、まだまだ新人扱いされていて……。そのこともあって、騎士団内の小さな宴の席で無理矢理に酒を飲まされちゃってさ……。あまり得意じゃないんだけどなぁ」
彼はそう言って苦笑しているが、その表情の裏にはどこか気苦労のようなものが見え隠れしていた。
「だから、こっそりと宴から抜け出して来たんだ。宿舎に戻っても宴に連れ戻される可能性があるから、出来るだけ時間を潰せる場所を探していたら……ここに着いちゃったんだ」
「……」
青年ははにかむように笑って、再び空を見上げる。塔を出た時に遠くから聞こえた声は宴の席で誰かが歌っていたものだったのかもしれない。
「……好きなだけ、ここに居て下さって構いません。私以外は誰も……知らない場所ですから」
昼間にこの場所へ来たことはないが、夜にここで人と会ったのは今日が初めてだ。この場所は木々に隠されているので余程の事がない限り、今後も誰かが来ることはないだろう。
「それは凄く助かるけど……。君はいいの? お気に入りの場所を俺に知られて迷惑してない?」
「いえ、そのような事は……。今まで誰かがここを訪れることはなかったので、最初は驚きましたが……」
嫌というわけではないが、あまり他人と話す機会がないため緊張しているだけである。その緊張感も布を被っていることで覚られていないようだ。
「じゃあ、秘密にしておくよ」
「え?」
青年がこちらを振り返った。布を被った下から彼の瞳をそっと覗くと、そこには穏やかな表情があるだけだ。
自分に向けられる表情でこれほど穏やかだったものはなかった。だからだろうか、胸の奥が急に苦しくなった気がしたのだ。
「君しか知らない秘密の場所なんだろう? それなら俺も秘密にしておく。絶対に誰にも言わない」
それは彼の優しさなのだろうか。優しさを誰かから向けられることには慣れていないため、思わず視線を下へと逸らしてしまった。
「……ありがとうございます」
「うん。せっかくの良い場所だからね。たくさんの人に知られて静かな雰囲気を壊されるのも嫌だし」
柔らかい言葉は自分の中に作っていた彼に対する壁を少しずつ剥がしていく。
初めて会った人に対して無防備になることは危ういことかもしれない。だが、彼の言葉と表情、そして気遣いが何よりも嬉しく思ってしまう自分がいるのだ。