第7章 タイ
夏菜子は教室に着くと、鞄を下ろして席に座った。正面の掛け時計を見ると、8時30分。朝のホームルームが始まるまであと10分だった。
彩綾はきっと今日も学校に来てない。隣のクラスだからわからないけれど、でもここ数日はずっと姿を見ていないから。それはそうだろうな。だって彩綾はもう、あと半年しか時間がないのだから。
私だけがこうして呑気に登校して、私だけがまだたくさんの寿命が残っていて。私は彩綾に、何もしてあげられない。私しか彩綾の苦しみを知っている人はいないのに。
私は、どうしたらいいの。
しかし夏菜子がふと教室の入口を見ると。
「……彩綾!?」
そこには彩綾が立っていた。夏菜子を見て、笑いかける。夏菜子はすぐに席を立ち上がり、彩綾の元へと駆け寄った。クラスメイト達はそんな夏菜子の様子に一瞬視線を向けたが、しかしすぐにそれぞれの雑談へと戻る。
「夏菜子、おはよう」彩綾は言った。
「えっと、おはよう。今日もお休みだと思ってて……」
「残りの寿命がどうであれ、私は中学生だから。学校には行かなくちゃね」
「そっか。うん。そうだね」
「今日、学校が終わったらうちに来ない?」
「うん、そうする!」
「じゃ、また後で」
彩綾はそう言って自分のクラスへと戻っていった。
彩綾は強い。私が彩綾と同じ状況なら、学校になんて行けないだろうな。それどころか、まともに正気を保っていられるかどうかすらわからない。彩綾はそんな状況なのに、それでも私のことばかり気にかけてくれて。私は……。
夏菜子はふらふらと廊下を歩き、そして窓の外を見る。そこからは正門が見え、遅刻しそうな生徒が何人か、急いで駆け込んでいるのが見えた。
夏菜子がそれを見たのは偶然だった。
あの男がいたのだ。理科室で日本刀を持っていた男。
男は大きな植木の影に隠れていて、そうして駆け込む生徒達の様子をうかがっている。
まさか。いや、きっとそうだ。生徒を襲うつもりだ。あの時も、中学生を切りたいだとかなんだとか、そんなことを言っていた。
どうする。先生を呼ばないと。いや、駄目。間に合わない。それなら彩綾と一緒に魔法で……。
待って。私は何を考えているの。彩綾に頼れるはずがない。彩綾はもう変身できない。変身したら彩綾は半年しかない余命すら失っちゃう。
私ひとりでやるしかない。大丈夫、きっと上手くやれる。あの男は魔法の存在を知っているみたいだったけれど、でもあの時は魔法少女の私から逃げた。つまり、あの男にはきっと魔法は使えないはず。
彩綾との約束。こんなにすぐ破ってしまうことになるなんて。ごめんね。でも、私、あの男だけは。
よし。
夏菜子は変身した。制服姿の夏菜子はいなくなり、水色のコスチュームの魔法少女へと。廊下を歩く生徒達には夏菜子の姿が見えず、彼らは表情一つ変えずに歩いていた。
あの男は危険だ。もう今ここで、『時止め』を使ってしまおう。
夏菜子は右手を高く上げ、強く握った。そうして一瞬の後、時が止まる。
これでいい。『時止め』が終わるまでの1分間で、あの男を拘束してしまうしかない。
夏菜子は廊下の窓を開け、その縁に飛び乗る。2階から飛び降りたら、いくら魔法少女でもただではすまない。そこで夏菜子は氷で階段を作り出し、その階段を使って正門の前へと下りた。
男は口元がにやりとしていて、学校に駆け込む女子生徒を見ているその姿のまま、確かに止まっていた。
さあ、急がないと。あと40秒くらいしかない。
夏菜子は氷の檻を作り出し、そしてその檻で男を拘束しようとした。
その時。
作り出したはずの氷の檻が粉々に砕けた。
え。どうして。なんで。こんなことは今までなかったのに。
次の瞬間、夏菜子は吹き飛ばされていた。5mほど後ろに飛ばされて、そして氷の階段にぶつかった。
「……痛っ」
夏菜子は混乱していた。何が起きているのかわからなかった。
夏菜子は顔を上げる。夏菜子の目の前に、男が立っていた。
「おい。その魔法は俺には効かねえよ」
「どうして……」
「お前、その程度しか魔力を貰ってねえのか。下級の時止めと、基本的な氷魔法。見くびられたもんだな。あの時はビビって損したよ」
男はそう言うと、何かを唱えた。
すると、夏菜子の体が突然固まった。そうして氷の階段の横に倒れこむ。
何これ。全く動けない。何をされたの。
「全身の筋肉を硬直させた。口も動かせねえよ。ほんの一時的なもんだが、お前にはそれで十分だろう」
まずい。やられる。殺される。私、彩綾がいないとこんなに何もできないなんて。怖い。嫌だ。怖い。どうしよう。どうしよう。
「あーあー。大丈夫だ。心配はいらない。お前のことを殺しはするが、それはお前の為だよ、アグナ。やっぱり口の硬直だけは解いてやるか」
そうして男が手首をくいと回すと。
「……あ」
声が出るようになった。でも体は動かない。
「ほら、もう喋れるぞ」男は言った。
「どういうこと? アグナって何?」
「アグナはかつてのお前の名前さ。輪廻しても、お前の中にはアグナのかけらが残ってる。だから俺は、お前を殺してやらなくちゃいけない」
「意味のわからないことを言わないで」
私。殺されるんだ。でも、どうしてだろう。アグナ。アグナ。何か聞き覚えのあるような。
「魔女がお前と契約している理由がわかったよ。奴はお前をも呪いにかけようとしている。お前まで俺のようになってしまったら手遅れだ。いや、或いはもう既に……。だからとにかく、俺はお前を殺してやらなくちゃならない」
「何を言っているの? あなたは一体なんなの?」
死ぬ。死ぬ。殺される。とにかく会話を伸ばして続けるしか。でも、どうすれば。
「あの女の呪いを受けただけの男だ。輪廻する前は、愛し合っていたのに」
そう言うと男は空を見上げた。が、すぐに夏菜子へと視線を戻す。そして刃渡り30cmはあろうかという刃物を取り出した。
だめだ。まるで話ができない。
「お前がもしもう呪いを受けているとしたら、ここで殺してやってもまた繰り返すだけかもしれない。それでも、もしまだ呪いを受けていないとしたら。とにかくさよならだ。すまない、アグナ」
男は刃物を夏菜子に向かって。
夏菜子は反射的に目を瞑った。
ああ。刺される。
あれ。私、刺されてない?
「……くそっ」
男の声がした。
夏菜子が目を開けると、そこには桃色の魔法少女の背中があった。
「彩綾!!!」
「危ないところだったね、夏菜子。もう大丈夫だよ」
桃色の魔法少女はそう言うと、呪文を唱えた。
男は倒れる。動きが次第に鈍くなっていく。
「……催眠呪文か。強力だ。くそ。アグナ、奴に気を付けろ」
そう言い残し、男は眠った。
「彩綾! どうして……」
「夏菜子はまだ生きなくちゃ。私はどっちにしろ、あと半年しかなかったからいいの」
「でも、でも!」
夏菜子は涙を落としていた。
「ありがとう。夏菜子。私は最後に、この男だけは消さなくちゃ。この人は、この世にいてはいけない。そうでしょう?」
彩綾は消滅呪文の詠唱を始めた。それは夏菜子も見たことのないものだった。
眠っている男の体が光り輝いた。その光は次第に大きくなっていく。夏菜子は理解した。この男は、彩綾の呪文でこの世から消え去るんだ、と。
男の体が宙に浮き始めた。光はさらにその強さを増していき、そして。
「……キュリオス」夏菜子の口から、その言葉が漏れた。
あれ、私、今なんて言った?
そして光は突然消えた。男の体もまた、光と一緒に消え去っていた。