第1章 冥界から
小さな赤い目覚まし時計が叫んでいる。夏菜子は目を覚ましたが、起き上がることはせずにベッドでそのまま横たわっていた。
んん。なんだか悪い夢でも見てたのかな。どうにも気分が良くない。それに、すごく長い夢だったのかも。寝てたはずなのにこの疲労感はなんだろう。私、風邪でもひいてるのかな。
夏菜子はゆっくりと起き上がり、小物入れから体温計を取り出した。脇にそれを挟もうとしたが、思い直したのか再び小物入れへとそれを戻す
いや、多分熱はないと思う。うん。月曜病だな。
夏菜子は学校に行くのが面倒な時に体が怠くなることを月曜病と名付けていた。中学2年生になった半年前から時々発症するようになった病気で、要は無意識の仮病である。
夏菜子は時計の針を見て、ぎょっとする。ぴょんとはねた寝癖を手で押さえながら、夏菜子は慌てて自室のドアを開け、階段を降りる。
黒くて太くて真っ直ぐな私の髪の毛。これだけ芯があるとパーマをかけてもふわふわにはならないんだろうなあ。なのにこういう寝癖はすぐつくんだから、困っちゃうよ。時間がないからこのまま行こう。学校に着くまでにはおさまるだろうし。
夏菜子が1階に降りると、夏菜子の母がキッチンに立っていて。
「あら、おはよう。ちょうどパン焼いてるから、それ食べな。あとこれ、レタスとトマト」
「はあい」
夏菜子はトースターから大きめのロールパンを取り出し、切れ込みにレタスとトマトを挟む。
「ちゃんと椅子に座りなさいよ」
トースターの前で立ったまま、パンをむしゃむしゃと頬張る夏菜子を見て、母はそう言った。
「はあい」
夏菜子は返事をしたが、既にパンを平らげ、廊下に掛けてあった制服に着替えている途中であった。
「なに、そんなに急いで。遅刻しそうなの?」
「まあ」
「気をつけなさいよ」
「私、足速いから大丈夫」
「車に轢かれないようにね、ってこと」
「行ってきまーす!」
夏菜子は会話もそこそこに、玄関から飛び出した。
秋晴れ。空気は澄んでいて、風が鋭い。夏菜子は住宅街の小さな路地を駆け抜ける。小学生が列を作り、高い声でおしゃべりしながら登校していた。
私、小学生から見たら大人に見えるのかな。私が小学校に入ったばかりの時は、中学生と大人の違いがあんまりわからなかったもの。でも中学2年生なんて、あなたたちと対して変わらないのよ。
そういえば春香は家にいなかったから、きっともう小学校に着く頃かな。まあ、春香はかわいい妹だけど、欲を言えばお兄ちゃんも欲しかったなあ。
私がもっと小さかった頃。お父さんとお母さんに大切にされて(もちろん今もだけどね)、おじいちゃんにもおばあちゃんにも、他の親戚の人にも、皆に可愛がられて私は育った。でも春香が産まれて、私はお姉ちゃんに。私は可愛がられる側から、春香を可愛がる側の立場になった。
春香が産まれるまで、私は自分のことをヒロインだと思っていた。ヒロイン、なんて言葉は知らなかったけど、世界は私を中心に回ってる、そんな感覚がどこかにあった。おとぎ話のお姫様みたいに生きていくんだと思っていたんだろうな。
春香ばかりが可愛がられるようになって、正直ちょっと不満だったけど、それはそのうちに受け入れた。私にとっても、春香は本当に可愛い妹だったし。
だけどクラスには私より可愛い子が何人もいて、賢くて不思議な雰囲気を持つ子もいて、飛び抜けて運動ができる女の子もいた。ふとその事に気付いて、私は愕然としたのをよく覚えている。私は普通の人だった。特別な女の子なんかじゃなかった。
小学4年生の時にはケンタ君に、5年生の時にはユウキ君に、私はバレンタインデーのチョコを渡した。ケンタ君もユウキ君も、ホワイトデーのお返しはくれなかった。そういうこともあるのかな、そんな風に思っていた。けれど6年生になったある時、私は気付いてしまった。
なんだ、私のことなんて眼中にないんだ。
6年生のバレンタインデー。私は好きな男の子にチョコを渡せなかった。
まあ、それはそれ。普通でもそれなりに楽しいの。そりゃ、今でも特別な女の子になりたいなとは思うけど。ドラマの女優さんだって、殆どは脇役の人の方が演技が上手だもんね。
そんなことを思いながらしばらく走っていた夏菜子だったが、小学校を横目に坂を登っているところでさすがに息が上がり、そこからは歩くことにした。
んん。小学校のチャイムが聞こえる。ってことは今は8時30分か。ここから中学校までは5分とかからない。よし、大丈夫。40分から始まる朝のホームルームには間に合う。危ない、危ない。もし今日も遅刻したら、流石に職員室行きになるところだった。
夏菜子はふうっ、と息をついた。やいやいと小学生が騒ぐ声がかすかに聞こえてくる。そして夏菜子はふと小学校と反対側にある交差点に目をやった。
すると。
「春香!」
夏菜子は叫んだ。
春香がふらふらと交差点に入って行ったのだ。8歳の小さな体。そこはカーブの途中になっている見通しの悪い交差点で、車が走ってきたら間違いなく轢かれてしまう。さらに運の悪いことに、カーブ側進行方向の信号は青だった。
夏菜子のいる位置と春香のいる交差点までの距離はだいたい25m。夏菜子は走り出した。
どうか車がきませんように。どうか車がきませんように。どうか車がきませんように。
夏菜子は祈る。夏菜子は走る。あと20m。
どうして春香はここにいるの。もう小学校の教室にいるはずじゃ。いや、そんなことは後でいい。春香を。
「春香! そこは車がくるの! 道路から出て!」
夏菜子は必死に声を上げた。春香は夏菜子に背を向けていて、その声に気付く様子がない。あと15m。
エンジンの唸る音。カーブの向こう側から車が走ってきてしまったのだ。ドライバーはおそらくカーブを曲がってそのまま直進しようとする。小さな春香がいることに気づいたときにはもう。
やめて、やめて。どうしたらいいの。もう車はすぐそこまできてる。これじゃ間に合わない。車は春香に気付かない。気付いたとしてもブレーキが間に合わない。
車はカーブを曲がり、交差点へと入った。スピードが乗っている。
「……あ」
夏菜子はパニックになった。春香が、春香が。
夏菜子はまるで周囲の時が止まったように感じられた。車は春香に接触するまであと30cmというところ。時間にしてあと1秒もない。
あ、これ、走馬灯みたいなものか。私が死ぬわけじゃないけど、目の前でただ1人の妹が轢かれるなんて。そりゃ、走馬灯も見れるってものだよね。
春香の七五三。3歳の時も7歳の時も、春香はやたら緊張してたな。家に帰ってきてから千歳飴を嬉しそうに舐めてたっけ。春香が小学校に入学した時は、ランドセルの重さで立ち上がれなくて泣いてた。ぶどうがやたら好きで、私の分まで全部食べちゃって、私は怒った。そんなことで怒らなくてもよかったな。
走馬灯って、随分親切なんだなあ。本当に時が止まっているみたい。いや、待てよ。
違う。
本当に時が止まっている。
「夏菜子さん。こんにちは」
夏菜子の目の前に、黄色いウサギのような生き物が浮かんでいる。手のひらに乗りきるかどうかという大きさ。ウサギよりも少し小さい。
それが浮かんでいること、見たことのない生き物であること、そもそも日本語で挨拶してきたこと。不自然なことが多すぎて夏菜子は混乱する。
とりあえず挨拶を返そうと思った夏菜子であったが。
あ、あれ。声が出ない。ううん、声が出ないだけじゃなくて体も動かない。まさに時が止まってるんだ。これは一体、何が起きているの?
「私は魔女様の使い魔です。夏菜子さん、あなたは妹さんを助けたいですか?」
勿論助けたい。でも。
「そうですね。普通ならば妹さんが死んでしまうことはもう決まりきっています。次の瞬間には、妹さんは肉片になるでしょう」
私の考えていることがわかるの?
「使い魔ですから。今、時が止まっているのも私のおかげです。けれど、この魔法はそう長くは持ちません」
どうにかして春香を助けたいの。お願い。何か方法はない?
「魔女様の魔力をほんの少しだけ、夏菜子さんにお貸ししましょう。そうすればあなたはこうして時が止まったまま、少しの間だけ自由に動けますよ。さあ、どうぞ」
夏菜子はがくっと崩れ落ちた。固まっていた体が突然動くようになったのだ。夏菜子は座ったまま、浮かんでいる黄色のウサギを見上げた。
「あなたは何なの……?」
声も出るようになっていた。
「ですから魔女様の使い魔です。それより早く妹さんを助けないと、魔法が消えますよ」
夏菜子はさっ、と春香を見る。今にも車とぶつかりそうであった。夏菜子は立ち上がり、時が止まった空間を走る。
「春香っ……」
夏菜子は春香を抱きしめて、そのまま抱え上げる。そうして車道から離れ、道路脇の安全な所で春香を座らせた。すると。
「よかったですね。もし夏菜子さんが魔法を扱うことに興味があるのなら、私のことを呼んでください。魔女様のところへお連れしましょう。それでは」
使い魔はそう言うと、短い前足をふっ、と振り下ろす。
バチッ、と大きな音がして、眩しい光が辺りを包んだ。夏菜子は反射的に耳を塞ぎ、目を閉じる。
何も起きない。
夏菜子はおそるおそる目を開けて、耳を塞いでいた手を下ろす。
風が吹いていた。木の枝と葉っぱがこすれる音。春香を轢くはずだった車はもう通り過ぎている。小学校のチャイムが秋空に響いていた。
あれ、変なウサギがいない……。時間が動き出したんだ。いつも通りに。
「おねえちゃん?」
春香がぼんやりとした表情をしながら、そう言った。
「春香……。よかった……」
夏菜子は小さな春香の体を抱きしめる。
「おねえちゃん、どうしてここにいるの?」
夏菜子の腕の中で、もごもごと春香が言う。
「春香! だめでしょ、道路にふらふら出て行ったら!」
「んんん。ハル、そんなことしたかなあ?」
「とぼけてもだめなんだから。車に轢かれたらどうするの。さ、遅刻よ。教室に行きなさい」
「おねえちゃんは、ちこくじゃないの?」
「……あ」
夏菜子はすっと立ち上がる。
小学校はすぐ目の前。春香は1人で大丈夫だろう。私は朝のホームルームには遅刻確定だけど、せめて1時間目の始業には間に合わないと大目玉だ。
「春香。お姉ちゃんはね、今から走る。春香は気をつけて教室まで行きなさい。車に気をつけるのよ」
「おねえちゃんもきをつけるのよー!」
10分後。教室に着いた夏菜子だったが、案の定職員室に呼び出され、ありがたいお言葉のお叱りを受けるのであった。