終末速度
最初の記憶を返り観ても私は空を飛んでいた。
今より速かったことは覚えている。
あのときは若かったから良かったが、今だったら風圧でバラバラになっていたに違いない。
ベテルギウスを眺めるのにも飽きたので私は下を向いた。
“雲”という、白くてもやもやしたモノが満たされていた。私が名付けたのだ。雲は時々窓を開き、私に“海”や“土”を見せて愉しませた。
これまで随分と上昇を続けたが、それも終わりが近いだろう。
懐古に走る私のことだ。あとそう永くは保つまい。
アンタレスがまだあの辺りに在った頃。私は壮大な夢を描く青年だった。
月を蹴り、金星に住む女神を娶り、木星に子を残し、冥王星にて偉業を果す。
あの勢いなら何だって出来る気がしていた。
私は青かったのだ。
皺が増え、
眼は衰え、
喉は渇き、
何より段々と鈍くなるのを感じている。
せめてアルタイルには一言申したかったが。
最早これまで。
上昇が止まる。
風が凪ぐ。
投げ上げられた物体が自由落下に転ずることを私は知らなかった。
私は落ちた。来た道を逆さに辿り、下からの風に息を喘いだ。
私は二次方程式を解くことが出来た。無論二次方程式などという私の創作物など君達は知らないだろうが、これを使って私は“平方根”の概念を手に入れた。
たったの1.4秒。つまり2の平方根で私は最高速度に達した。
若い頃は加速的に年を重ねていったものだが、降りるのはその何倍も時間がかかった。
永かった。辛かった。
私の空虚で無色な人生をなんの起伏もなく見せつけられるのは耐えられなかった。
風圧で私の皺は引き伸ばされた。
僅々日の陽が遠くなるにつれ眼の霞は晴れていった。
喉の渇きは雲の中で潤された。
「たのしそうね」
私を投げた者の妻が微笑む。
「好きなんだ。こうすると喜ぶ」
私の意識は秒速5.2メートルで過去へと引き戻される。
嘗て私を投げ上げた者の腕がしかと私を受け止めた。
私の速度はついにゼロとなった。
「そーれ。もう一回だ」