日常1
「モヤシ、モヤシにモヤシが買えたよ♪」
夕暮れの街を舞奈が歩く。
背には初等部指定の通学鞄。
手にはスーパーのビニール袋。
悟との決戦の後、舞奈は病院に担ぎこまれた。
だが鍛え抜かれた肉体と溢れる若さのおかげで瞬く間に完治し、担当医を驚愕させながら退院した。
リハビリ代わりの健康体操のおかげで、今では生活リズムもすっかり元通りだ。
なので学校帰りにスーパーに寄って、特売のモヤシを買い漁ったりもする。
ただひとつだけ異なるのは、舞奈が三剣邸を訪れることがないということだ。
今日も下校のついでに何となく近くまでやってきた。
けれど家主のいないあの屋敷の前を通るのも気が引けて、避けるように普段は通らない道を歩いていた。
山の手の讃原町と軍人街の統零町の境には、どちらの住人も何となく寄りつかない一角が存在する。
無人のビルや倉庫がひしめく倉庫街だ。
人気のない路地の端を、讃原を根城にしている野良のシャム猫が通る。
そんな街の静寂を、遠くで走る珍走団の異音が乱す。
「また、うるっさいのが湧いてやがる」
顔をしかめる。
一緒に猫も迷惑そうに見やる。
旧市街地でこういう輩があらわれた数日後には、登下校時に新開発区で壊れたバイクを見ることになる。白バイ警官に追われて逃げこむらしい。
タイミングが悪いと隣にDQNの残骸が並んでいたりして、気分が悪い。
「……ったく。命を無駄にするなとは言わんが、人の迷惑になるなよ」
やれやれと肩をすくめる。
そのとき、ふと、ビルの前に人影が見えた。
入り口付近にしゃがみこんで、何かしている。
舞奈より年下のちっちゃな子供のようだ。
この界隈に子供がいるなんて珍しい。
しかも時間も遅い。スーパーのタイムセールが終わる時間だ。
「おいあんた、こんな時間にそこで何を……って、チャビーじゃないか」
「あ、マイ!」
声に気づいて顔を上げたのは、ツインドリルのクラスメートだった。
背丈も言動も子供みたいに幼いが、これでも舞奈と同い年だ。
「こんな暗くなるまで遊び呆けてると、親御さんが心配するぞ」
「あのね、マイ――」
言いかけたチャビーの足元で、小さな何かが「みゃー」と鳴いた。
「子猫じゃないか。どうしたんだ?」
声をかけると、こちらを向いて「みゃー」と鳴く。
サイズはチャビーの靴と同じくらい。
毛の色は茶トラに見える。
きょとんと見つめる幼い顔の、くりくりとした目が可愛らしい。
茶トラの子猫はつぶらな瞳で、舞奈の手にしたビニール袋を見やる。
ガサガサいうのが気になるらしい。
「……やらないぞ。これはあたしの晩御飯なんだ」
舞奈は袋を後ろ手にかばう。
わりと意地汚い挙動である。
だがチャビーはそんなことは気にもせずに、
「あのね、この子、ここでお腹をすかせてたんだよ」
そう言って子猫を見やる。
「ずっとここにいるし、ママもいないみたいなの」
「いつも讃原のあたりにいる野良猫の子供なんじゃないのか?」
言いつつ、先ほど見かけたシャム猫の姿を探す。
「シャム猫は茶トラの子を産まないと思うな」
「……言ってみただけだよ」
チャビーに突っこまれて、むくれる。
だが自分のことを話してるのがわかるのか、子猫は見上げて「みゃー」と鳴く。
つられて舞奈も笑みを浮かべる。
「だからね、わたしがママになって、この子にごはんをあげてるんだ」
幼女のくせに一丁前のことを言いつつ、チャビーは懐から何かを取り出す。
チーズかまぼこだ。
歯を使って器用にビニールを剥いで、子猫に差し出す。
子猫はチーかまをかじる。
そして嬉しそうに「みゃー、みゃー」と鳴く。
「そっか、そりゃよかった」
モヤシの需要はなさそうだ。
チャビーはこれでも、園香と同じく讃原に家のあるお嬢様だ。
子猫のためにチーかまを買うくらい、何てことはない。
「けど遅いのは本当だぞ。ほどほどで帰れよ」
「はーい!」
「みゃー」
舞奈は1人と1匹に背を向けた。
そして再び、夕暮れの街をひとり歩く。
「……チーかま、美味そうだったな」
腹がぐーと鳴った。
「早く帰って、こいつを食うか」
ガサリと音をたててモヤシの袋を持ち上げて、見やる。
舞奈は園香と違って調理に手間をかけない性質なので、このモヤシも塩コショウで炒めるだけだ。
ボリュームがあってシャキシャキしてて、舞奈的に文句はない。
だがチーズの味がするもっちりしたかまぼこの食感を思い浮かべた後では、何とはなしに物足りなさを感じてしまう。
「チャビーの奴、ひょっとしてチーかま余らせてないかな」
ふと魔がさして、子猫のご飯に食指がのびる。
「まさかバラで買う訳はないだろうし、あの猫が1袋食うとも思えんしな……」
ひとりごちてニヤリと笑う。
チャビーの夕飯は親御さんが心をこめて作ってくれる。
残り物のチーかまで腹を膨らまさせるのも忍びない。
「……いやいや、さすがにそれはな」
子猫のご飯を横取りするなんて、さすがの舞奈も気が引ける。
というか、そんなことができるならスミスか張の店で食わせてもらっている。
仕方がない。
大人しく帰ってモヤシを食うか。
いつぞやのように御釈迦にしないよう、気をつけて帰ろうと思った。だが、
「……ったく、チン走野郎ども、こっちのほうに向かってやがるな」
オートバイの耳障りな排気音が、先ほどより大きくなっていた。
舞奈は顔をしかめる。
「……まさかな」
背後を振り向く。
排気音はどんどん大きくなる。
珍走団どもは人気のないこの通りをいい気分で走るつもりだろうか。
夕暮れの街は暗く、頭の緩い走り屋どもが安全運転なんてするはずもなく、幼女と見紛うばかりの小学生は小さくて、子猫はさらに小さい。
「……やっぱりチーかま1本くらい貰うか」
ひとりごちて、今しがた歩いてきた道を足早に戻る。
否、走る。
耳障りな排気音は、いつの間にか爆音と化していた。
悪い予感が脳裏をよぎる。
以前にこうやって走った先で、大事なものを失いかけたことを思いだす。
舌打ちしつつ角を曲がる。
その刹那、視界をライトの光が塗りつぶした。
路地の向うから爆音を上げてやってくるバイクの爆音。
バカ騒ぎする耳障りな男の声。
路地に跳び出そうとする小さな子供の影。
そして路地の真ん中に、それより小さな子猫の気配。
迫りくるバイクの群の真正面。
「糞ったれ!」
走る。
躊躇なく袋を投げ捨て、気配を拾う。
やわらかな毛むくじゃらを傷つけぬよう、逆の腕でチャビーをつかんで押し倒す。
背後を爆音。
そして群れなす鉄の気配が通り過ぎる。
「バカヤロー! 気をつけろ!!」
男はスピードを緩める素振りすら見せずに怒声を飛ばす。
そして舞奈に排気ガスを吹きかけながら走り去った。
「どっちがバカだよ! 珍カス野郎!」
一挙動で立ち上がり、無駄と知りつつ怒鳴り返す。
その手の中で、毛むくじゃらが「みゃー」と鳴いた。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「マイ……」
側のチャビーが、泣きそうな顔で見ていた。
怖ろしい出来事の、ショックから抜け出しはじめているのだ。
「もう大丈夫だ、チャビー」
「マイ……マイ……!」
舞奈はチャビーを抱きしめる。
子猫が道まで出てきてしまい、そこに運悪く珍走団が通りすがったのだろう。
轢かれそうな子猫を、チャビーはあわてて守ろうとした。
舞奈と同じように、大事なものを失う恐怖に追い立てられて。
「もういいんだ、チャビー。みんな無事だ。猫も、おまえもな」
「みゃー」
手の中の子猫の温度と、腕の中のチャビーの温度を抱きしめる。
「でも、でも、マイ……」
チャビーが見やる先を、思わず見やる。
消えかけた街灯の明かりに照らされた夜の路地に、何かが散乱していた。
無残に破られ、引きずられ、薄汚いタイヤの形に潰されている。
チャビーや子猫がそうなる運命をまぬがれたそれは――
――モヤシの入った袋だった。
舞奈の両眼が見開かれる。
その表情が落胆の色に塗りつぶされる。
無我夢中で投げ捨てた舞奈の夕飯は、1人と1匹の身代わりに御釈迦になっていた。
「この糞野郎ども! トラックに轢かれて転生しちまえ~~!!」
舞奈は涙を流しながら、チャビーと子猫がドン引きするほどの怒声をあげた。
そんな舞奈を、倉庫の屋根の上から野良猫が見ていた。
そして野良のシャム猫は排気音の方向を見やり、不快げにひと鳴きした。
……それはともかく、チャビーはチーズかまぼこを隠し持ってはいなかった。
いつも割高なバラ買いをしていたらしい。
その理由は「猫ちゃんも新鮮なチーズかまぼこのほうが嬉しいでしょ?」だ。
チーかまに新鮮もクソもないだろうにと思った。
チャビーの親御さんに事情を話したら晩御飯ぐらいご馳走してくれただろう。
だが幼い娘を慈しみ育てている親御さんに、余計な心配をかけたくなかった。
だからチャビーを玄関前まで送り、そのまま舞奈は帰った。
なのでその日の夕食は、いつぞやもお世話になった水道水になった……。