今を生きる1
目を覚ますと、ぼんやりした視界の中で美佳が不安げに見つめていた。
舞奈は飛び上がるように半身を起こす。
少女の細い背中に両手をまわし、ふくよかな胸に顔をうずめる。
「……カ」
かすれるように言葉が洩れる。
ずっと会いたかった。
美佳が一樹とともに光の中に消えてから、美佳がいない世界を彷徨ううちに、自分が徐々に薄汚れ、擦り切れていくのを感じていた。
自分が、美佳の知らない誰かになるのが恐かった。
母親とはぐれた迷子のように、彼女の姿を何度も捜して、見つからなくて、それでも美佳が誇ってくれた良い子であり続けた。
誰よりも強くて、いつも笑顔で、可愛い舞奈ちゃん。
美佳に今の自分を見てもらいたくて、もう片時も離れたくなくて、けれど溢れ出す言葉を上手に言葉にできなくて、だから嗚咽をこらえるように、舞奈は彼女を力の限り抱きしめた。彼女も舞奈を抱き返した。
「……ちゃん」
耳元で彼女がささやいた。
彼女の胸は柔らかく、あたたかく、そっと背中を包みこむ細い腕は包みこむように優しく、繊細な指先が背に触れる感触が心地よかった。
やっと夢から醒めたのか、それともこれが夢なのか。
そんなことを考えることすら馬鹿馬鹿しいと思えるほど、舞奈は美佳を求めた。
そしておそらく彼女も。
舞奈と彼女は、2つの身体がひとつになるかと思えるほど互いを求め合った。
――そして甘いミルクの香りに、彼女は美佳じゃないと気づいた。
最初からここに美佳なんていなかった。
でも今は、不思議と悪い気分ではない。
自分はもう、それすら気にならないほど汚れてしまったのだろうか。
(だが、それも悪くない)
美佳は、どこか自分とは別の場所にいる。
その事実を、今なら少しずつ受け入れていくことができる。そんな気がした。
だから、今はただ美佳に似た少女を愉しんだ――
再び目を覚ますと、舞奈は病室のベッドに横たわっていた。
崩れ去る悟を見取った後、舞奈は近所の市民病院に担ぎこまれたのだ。
落とし子に撃たれまくっていたからだ。
今までなら怪我は悟に治してもらっていたのだが、その悟はもういない。
そして土曜日を丸1日寝て過ごし、今に至る。
側では、長い黒髪の少女が、丸イスに座ったままこちらを見つめていた。
「寝ずの看病か。おまえにしちゃ気が利くな」
「まだ夕方よ。それに看病じゃないわ」
「じゃあ、なんだよ?」
「貴女が寝ぼけて看護士のお尻を触らないように、見張ってたのよ」
明日香は面白くもなさそうに答えつつ、暇つぶしに読んでいたのであろう布カバー付きの単行本をサイドテーブルに置く。
側には、花瓶に生けられた百合の花。
明日香が持ってきたのでは間違ってもないだろう。
生真面目で風情を解さない彼女にとって、花もヘチマもまとめて『草』だ。
けれど百合は美佳が好きだった花だ。
美佳のことを誰かに話したことはない。
だが舞奈も好きな花を尋ねられたら百合だと答えるだろう。
他にとっさに思い出せる花の名などない。
あるいは、何処かで百合を見て美佳を想う姿を見られていたのかもしれない。
「そんな寝ぼけ方する奴はいないよ。だいたい、男のケツ触って何が嬉しいんだ」
舞奈は花に顔を寄せ、甘いミルクの残り香を探す。
「で、女の子の胸なら喜んで揉むってわけね。やれやれだわ」
「おまえみたいに、ちょっとでも胸のある奴には分かんないよ」
「そういう問題じゃないでしょ? なら自分の胸板でも撫でてなさいよ」
「胸板はやわらかくないだろ……」
軽口を叩きあいながら、ふと少女の青い下フレームの眼鏡を見やる。
「ひとつ、聞いていいか?」
「何よ?」
明日香は怪訝そうに見やる。
「あたしとサト兄って、似てるのかな」
舞奈はひとりごちるように、言った。
美佳の幻を追って夢になった悟。
同じように過去に囚われ、それでも夢から覚めてベッドに横たわっている舞奈。
2人の何が違っていたのだろうか?
「そんなの他人に聞くことじゃないでしょ」
「じゃ、誰に聞けば良いんだよ」
身も蓋もない答えに不貞腐れて寝転ぶ。
そして窓から覗く夕日を見やる。
ふと脳裏に浮かぶのは、昨日、これと同じ夕日の下で、悟とともに夢へと還ろうとした舞奈に明日香が向けた激情に歪んだ表情。
あの時、自分は彼女に、決して戻り得ない過去に囚われたまま冷たい暗闇を這いまわる人生を強いようとしていたのだろうか。
自分と同じような。
たぶん、そう思えることが、夢に殉じた悟と現実にまみれて薄汚れてしまった自分との違いなのだろう。
「なぁ、明日香」
ふと思って上体を起こし、姫カットと眼鏡が似合う端正な顔を見つめる。
そして――
「――落ち着けよ、明日香。話せば分かる」
「落ち着いてるから、話してみなさいよ?」
花瓶を振りあげる明日香の手首を必死で押さえながら、何でこんなことになってしまったのだろうと舞奈は思う。
明日香の瞳はどこまでも冷ややかだ。
「その……なんだ、手がすべったんだ」
「寄寓ね。わたしもよ」
ニコリともせずに言い返される。
人の頭ほどの大きさの花瓶を両手で持ち上げて頭上に振り下ろそうとする動作を指して、手が滑ったとは言わない。
だが、薄手のワンピースの上から胸に唇を這わせ、当たった突起を口に含む行為も、手が滑ったとは言わないだろう。なにより手は関係ない。
あの時、彼女を現実につなぎとめてくれた胸の感触を、もう一度感じたかった。
だが、今の彼女にそんなことを言っても、全力で花瓶を振り抜かれて終わりのような気がする。
舞奈としては、彼女は揉んだりり触ったりという行為に対して過敏に反応しすぎると思う。減るわけでもないし、むしろ増えるかもしれないのに。
そう思って、思わず口元に笑みを浮かべる。
今いるこの場所が夢なのか、現実なのか、それがわかったとは思わない。
だが、どちらにせよ、激昂した見舞い客(しかも自分の)に花瓶で脳天をカチ割られる最後だけは御免被りたい。
それよりマシな終わり方なんて他にいくらでもあるはずだ。
「……そうだ。ほ、ほら、おまえ、サト兄に撃たれた時に消えただろ? スゴイじゃないか、だから、また消えるかと思って試してみたんだ」
「ああ、あれはクロークがないと使えないわよ」
苦し紛れの言い訳に、明日香は何事もなかったかのように花瓶を元の場所に戻す。
「【反応的移動】。4枚のルーンを併用した瞬間回避の魔術よ」
「へえ、そいつはどういう代物なんだい?」
「瞬間移動の魔術【戦術的移動】を自動化して、攻撃に反応して瞬間移動で回避する術よ。魔力の消費が激しいから、それに併せてクロークの――」
明日香は水を得た魚のように嬉しそうに語り続ける。
「そ、そうかい、そりゃよかった……」
彼女がウンチクを語るのが大好きで、本当によかった。
(やっぱり笑ってるほうが可愛いな)
姫カットと青い下フレームの眼鏡が似合う友人の横顔を眺めながら、微笑む。
「ちょっと舞奈、聞いてるの?」
「ああ、もちろん聞いてるさ。……なぁ、明日香。また今度、張の店に食いに行かないか? あたしの退院祝いに」
「聞いてないじゃない!」
舞奈はあわてて、花瓶を明日香の手の届かないところに動かした。