日常
「欲しがってた資料は、これで全部アルね」
ここは【太賢飯店】の衝立の奥の特等席。
「いつもお手数かけます、張さん。お代はいつもの口座に振りこんでおきますね」
中華模様をあしらったテーブルに積み上げられた古書の山を確認しながら、明日香は満足そうにうなずいた。
「こっちこそ毎度ありアルよ。明日香ちゃんの頼みなら、いつでも大歓迎アル」
太った禿の中年男は、テーブルの向かいでドジョウ髭を揺らせて破顔する。
張が商う空席だらけの中華料理屋は、魔術品の売買という裏の顔を持つ。
元執行人の肩書を持つ彼は外見とは裏腹に抜け目ない。
そして、なにより信頼の置ける台湾人の商人だ。
だから明日香は、彼に大陸由来の魔術品や情報の入手を頼っていた。
今回は新たな魔術を編み出すべく、仏術の本場であるチベット王国から魔術書を取り寄せてもらっていたのだ。
高価な希少本を大量に購入したので、張の愛想もすこぶる良い。
明日香は、早く帰って大人買いした資料を読みこもうと席を立つ。そのとき、
「ま、待ってアル。桃饅頭はいかがアルか? 甘くてとっても美味しいアルよ」
「まだ何か?」
張の制止に、眼鏡は仕方なく座りなおす。
「その……つかぬことを伺うアルが……」
まごまごしている張に、明日香はやや温度の下がった視線で先を促す。
「この前の依頼のときにお2人に譲った割れた鏡、まだ持ってるアルか?」
「どういうことですか?」
知人に譲りましたと即答しなかったのは、好奇心故である。
張のような商人が儲け話に敏感なのと同様に、魔術師は知識に対して貪欲だ。
「実は、あの鏡はさる人の依頼で手に入れたものアルよ――」
詳しく聞くと、どうやら件の鏡は納品先の決まった重要な代物だったらしい。
「けど、舞奈ちゃんが割っちゃったんで、その話はなかったことになったアル」
それを取り戻しに行って、割って帰ってきたのだ。
動揺して嘆きまくったのも無理はない。
「それが、【組合】経由で魔道具の修繕ができる魔術師とのコネができたアルよ」
だから鏡を取り戻し、修理してやっぱり売りたいという算段であろう。
張は明日香の微妙な視線を勘違いしたか、
「いや、明日香ちゃんの魔術の腕前は知ってるアルよ」
慌てた様子で言った。
「けど、ほら、明日香ちゃんみたいな可愛い娘に、そんな地味な作業なんて頼めないアルよ。ガラスの破片が危ないアルね」
すごい早口だ。
いろいろツッコみたいところはあるが、気にしないことにした。
戦闘魔術は【物品と機械装置の操作と魔力付与】により魔道具の作成が可能だ。
だがそれは、他流派の魔道具に無制限に操作できることを意味しない。
さらに件の神鏡は、本来は物品にまつわる術を持たない古神術に所縁ある品だ。
大魔法による魔法的な裏技によって作られている。
場馴れしているとはいえ一介の魔術師に手出しできる代物ではない。
そもそも、自力で修理できるなら依頼の失敗を報告する前に直している。
明日香はしばし考えた後、
「そもそも、そんな大事なものを泥人間に奪われたんですか?」
とりあえず質問してみた。
当時の状況を例えるなら、家宝の茶碗を野良犬に奪われたようなものだ。
不注意だと言われればそれまでだが、不用心が過ぎないだろうか?
今でこそ太って禿げてはいるが、かつては腕利きの執行人だったと聞いている。
そんな張はしばし言いよどむ。そして、
「鏡を届けに行こうと店を出たら、いきなり結界に閉じこめられたアルよ」
「戦術結界?」
「おそらくケルト魔術の【理想郷の召喚】アルよ」
「魔道士がいたということですか?」
「というより……むしろ何らかの魔道具を使った感じアル」
張の答えに明日香はしばし考えて、
「結界の中で泥人間に?」
「そうアル。大量の泥人間が一斉に襲いかかってきて、鏡を奪っていったアルよ」
「【怪物の大使役】の魔術が使われていたように思えるのですが」
まるで、サチの魔道具を狙った道士たちの襲撃のときのように。
明日香もまた、舞奈と同じ結論に達していた。
魔道具を巡る2つの事件は、無関係ではないと。
「そういう情報は依頼の際に提示してください」
心中の疑惑を誤魔化すように、明日香は冷ややかに張を見やる。
「申し訳ないアル。それで、後で落ち着いて占ったところ、泥人間が鏡を持っているということしかわからなかったアルよ……」
「探知魔法を妨害された……?」
明日香は思わずひとりごちる。
「……まあいいです。それより、その鏡はどなたのご依頼で?」
「ああ、それは――」
明日香の問いに、張は普通に返答する。
こういった業界で依頼人の名前を他人に明かすのは軽率な行為である。
普段の彼ならば犯すはずもないミスだ。
だが、張もそれだけ必死なのだろう。
ドジョウ髭の商人の前にどれほどの大金がぶら下がってるのだろうか。
張は少女の機嫌次第で鏡を取り戻せると思っているのかも知れない。
だが、それは彼の微笑ましい勘違いだとばかりに明日香は笑顔で拝聴する。
「――三剣さんアルよ。ほら、讃原町にある大きなお屋敷に住んでる」
その言葉に、思わず張から目をそらす。
割れた鏡を譲った相手も三剣さんだ。
根の善良な彼は、タダで取り戻した品物に値段を付けて同じ相手に売りつけるような商売ができない。それは彼の美徳のひとつである。
「実はですね、張さん」
明日香の呼びかけに、やっと返してくれる気になったと目を輝かせる張。
ずっと欲しかった玩具が手に入りそうな子供のようなキラキラした瞳だった。
こんな嬉しそうな張の表情を、明日香は今まで見たこともなかった。
明日香は笑う。
張も笑う。
そして明日香は冷徹に事実を告げた。
明日香は、魔力を伴わない一言で人が目を剥いて悶絶する様を初めて見た。
そして翌朝の、ホームルーム前の教室。
「……ということがあったのよ」
「そりゃ、お気の毒様」
舞奈は椅子に逆向きに腰掛けながら、言葉を返す。
背もたれの上にだらしなく頬杖をつく。
「いちおう、今度サト兄に会ったら、張が鏡を直せるって伝えとくよ」
舞奈は苦笑しつつ言う。
「そうしてあげると喜ぶと思うわ」
明日香も苦笑を返す。
「そういえば、園香の護衛は引き続き奈良坂さんだってさ」
雰囲気を変えるべく、別の話題を振ってみる。
「そうみたいね」
「奈良坂さんも、ああ見えてちゃんと執行人やってるんだなあ」
しみじみと言って、舞奈は笑う。
「平時の護衛任務が回って来るってことは、Bランクか?」
「……Dランクだそうよ」
「Dランク? そりゃ護衛される側じゃないのか?」
ガラにもなく驚いて声をあげた。
執行人は実力や任務の成功度によってランク分けされる。
最高位はSランク、その下にAランクがあって、最下位はFランクだ。
数多の術を使いこなす魔道士が、異能力者と同じ基準で評価されるのだ。
ランクは上がりやすいはずである。
舞奈もつい先ほどまで、魔道士は最低Bランクだと思っていた。
「大丈夫なのか……?」
「心配ないはずよ。彼女もいちおうは仏術士なんだから」
「まあ、そりゃそうだけどな……」
仏術はいちおう攻守のバランスに優れた魔法戦士である。
そして、危険を察知する能力にも長ける。
舞奈のかつての仲間、果心一樹も仏術士だった。
明日香が修めた戦闘魔術も、ルーン魔術と仏術を掛け合わせた代物だ。
なので明日香も奈良坂に親近感を感じているのかもしれない。
舞奈が彼女に、昔の仲間の影を見ているように。
抜け目なく聡明なパートナーである彼女に、力強く真言を操る一樹と、優しく知性あふれる美佳の面影を求めているように。
そんな皮肉げな笑みに、
「それに、諜報部の占術士も真神さんを意識してるわ」
明日香は肩をすくめて答える。
舞奈が守り抜いた【思兼】九杖サチ。
家が近いせいで園香とも親しい【デスメーカー】如月小夜子。
奈良坂より高度な仏術を使いこなす【心眼】中川ソォナム。
襲撃事件の混乱から回復しつつある諜報部の面々は、怪異や怪人の動向を察知する【機関】の目としての役割を取り戻していた。
「だから、あの彼女が再び真神さんに手を出すのは困難なはずよ」
言い残して席を立ち、明日香は教室を出て行った。
手洗いか何かだろう。
「……だといいけどな」
そんな明日香の黒髪を、舞奈は何となく見送る。
あくびまじりの大きな伸びをして、過去への思慕を振り払う。
その代わりとばかりに、ドジで粗忽な奈良坂に想いをめぐらす。
小動物のようにおどおどとした女子高生の胸は、ずいぶん小ぶりだ。
けれど、スカートに隠された尻とふとももは、やわらかくてふくよかだ。
園香のように、サチのように、彼女とももっと親密になりたかった。
彼女の気弱げな瞳を悦びでいっぱいにしたかった。
一樹と笑みを交わすことはもうできないから、彼女にも笑って欲しかった。
美佳を忘れさせてくれるくらい可憐な笑みを、彼女にも向けて欲しかった。
それがあまりに身勝手な願いだと気づき、口元を寂しげな笑みの形に歪めた。
そしてふと、
「ゾマじゃないか。どうしたんだ?」
甘いミルクの香りに気づいて見あげる。
側に園香が立っていた。
「マイちゃん、あのね……」
長身巨乳のワンピースは、もじもじと舞奈を見つめながら話しはじめた。
聞くと、園香の両親は今夜も揃って留守らしい。
誘拐されたばかりの娘をひとり残して無用心なことだとは思う。
だが仕事なのだから仕方がない。
山の手に居を構えるのも大変なのだ。
「奈良坂さんはどうしたよ?」
「朝と帰りはいっしょだよ。でも、追試が近いから泊まるのは無理だって……」
執行人の妖術師が追試なのか?
戦闘も弱くて頭も悪くて、彼女の人生には挫折しかないのか?
いろいろツッコみたかった。
だが、園香の不安げな表情を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。
舞奈は少女の危機を見逃せない。
笑みを曇らせることすらしたくない。
「そういや、この前言ってたオムライス、まだ食ってなかったな」
舞奈はニヤリと笑みを向ける。
安心した園香も微笑む。
その大人しげな笑顔に、思わず魅入った。