人喰い冷蔵庫の9割はニセモノだ
「……もぬけの殻ってのは、どういう事だ?」
油断なく改造ライフルを構えつつ、それでも呆然とひとりごちる。
がらんとした部屋の、無人の執務机を睨みつける。
そんな舞奈の問いに答える者はいない。
何故なら続いて部屋に跳びこんできた仲間たちも、同じように困惑しているからだ。
一連の事件の元凶たる『Kobold』支部ビル最上階に位置する『ママ』こと卑藤悪夢の執務室。
この場所にたどり着くために、舞奈と明日香は死に物狂いで戦った。
小夜子とサチも。
楓と紅葉も
待ち構えていたイレブンナイツの面々も、卑藤悪夢を守るべく戦って死んだ。
もちろん下の階の騎士たちもだ。
……だが広くて立派な執務室に、排除目標である卑藤悪夢はいない。
無駄に豪華な装飾品や観葉植物だけが、場違いな来訪者を無言で迎えている。
もしや、この期に及んで隠れているのか?
周囲を見渡し、気配を探る。
だが動くものも、物陰に隠れて息をひそめている何者かも見つからない。
他の面子の様子からすると魔法感知も同様のようだ。
熟達した魔術師2人、呪術師3人の感知から逃れることは不可に近い。
何故なら預言を……つまり術を使える怪異は妖術師だ。
その身体には使える分だけの魔力が常に溜めこまれている。
「窓から逃げた……とは考えられませんか?」
「開けた窓を閉めて、中から鍵までかってか?」
「流石に建物の外に道士が張りついてれば魔法感知で気づくけど……」
楓の言葉に舞奈が答え、いつも以上に不機嫌そうな小夜子が答え、
「魔法的な手段で逃げたって事はないかしら?」
「転送用の魔道具なら現物があるはずですし、大魔法でも痕跡くらいは察知できるつもりですが……」
「一本道だったから、入れ違いに出て言った訳でもなさそうだしね」
首を傾げるサチにも明日香が冷静な答えを返す。
紅葉も自分たちが入ってきた唯一のドアを見やりながら答える。
皆も各々のやり方で一連の事件の元凶を探している。
だが誰も奴らの『ママ』を……卑藤悪夢を見つけられない。
「――つまり最初からいなかったって事か?」
再びひとりごちる。
理由はどうであれ、事実として執務室に卑藤悪夢はいないのだ。
だが他の仲間たちも困惑しているのは同じだ。
だから舞奈の問いに是とも非とも答えず、首を傾げるしかなかった……
……同じ頃。
騒動の元凶たる『Kobold』支部ビルと同じ駅前に位置する槙村邸。
こぢんまりとした庶民の家の台所兼食卓で――
「――ネネ、下がって」
腰みの一丁に仮面をつけた黒んぼが槍を手にして身構える。
ヘルビーストと言ったか。
足元には周囲を威嚇する数匹のコツメカワウソ。
「は、はい!」
腰みのの背にかばわれるように、小5ほどの眼鏡の子供が小さくうなずく。
ぐったり気を失った母親を重そうに、けど大事そうに全身で抱えている。
凄い力……ではなく必死なのだ。
そんな3人を取り囲む、槍を手にした『Kobold』の騎士たち。
全員が光り輝く鎧兜で完璧に武装している。
もちろん全員が異能力を持ち、チップで強化された精鋭だ。
母娘は昼食の最中だったかテーブルの上には2人分のラーメンの椀。
庶民の家の狭い部屋は、テーブルに加えて数人の騎士が詰めるといっぱいだ。
だから卑藤悪夢は両開きの障子戸で隔てられた隣の部屋にいる。
もちろん周囲に多数の騎士をはべらせている。
何なら家の外にも予備の騎士が控えている。
狭い部屋の壁際に鎮座する火のついていない暖炉は無言でたたずんでいる。
新旧2つ並んだ冷蔵庫も。
雑に置かれたダンボール箱も。
敵は孤立無援。
対して味方は雲霞の如く。
三対無数……否、戦える者の数で言えば一対無数。
圧倒的に多勢に無勢だ。
そんな戦況を眺めつつ、卑藤悪夢は手にした符を弄びながらほくそ笑む。
卑藤悪夢自身も怪異の道士だ。
預言で『Kobold』の屋台骨を支える程度には腕に覚えもある。
先ほども道術で母親を眠らせた。
だが、その術を再び行使する必要もないだろう。
騎士の集団が小癪なシャーマンをすり潰し八つ裂きにしてから、遺された子供からゆっくりと母親の身柄を奪えばいい。
そう。
卑藤悪夢がいやらしい視線を向ける先は、子供が抱えた美しい母親。
すなわち新進気鋭の有名AV女優、まきむら奈々子。
卑藤悪夢と『Kobold』が仕掛けた一連の騒動の目的は彼女の身体だった。
事の起こりは数カ月前。
卑藤悪夢は人間社会からの多大なる搾取を怪異の上層部に認められ、完全体になる資格を手に入れた。
その際に若く美しい女性の身体を自分のものにしようと思いついた。
具体的には美女を捕まえてチップを埋めこんで自分の身代わりとして操るのだ。
それも騎士たちやイレブンナイツに埋めこんだような中途半端な代物じゃない。
対象の自我を消し去り文字通りの傀儡にするほど強力なチップをだ。
その状態で完全体になる儀式が行われれば、三尸には自身の肉体は対象である若く美しい女性であると記録される。
三尸とは脂虫をデータ化して保管する虫の形をした宝貝だ。
他の怪異が別の儀式によってデータを己が身に取りこむことで、データ化された人格は対象の怪異に上書きされ、能力や容姿までもが記録されたそのままに現世に蘇る。
要は永遠の命だ。
その容姿の部分に、支配した若く美しい女性をあてがうのだ。
計画が成功すれば卑藤悪夢は死して蘇る度に若く美しい身体に戻る。
そんな計画を思いついたにも理由がある。
人間だった頃から卑藤悪夢は若く美しい女性を妬んでいた。
自分がそれを失って久しいからだ。
嫉妬心をこじらせ、若いから、美しいからという理由で美女をネットで攻撃した。
美しい女性が描かれた創作物にまでクレームと劣情をぶつけた事もある。
だが自分が若さと美しさを手に入れられるなら別だ。
その生贄に、最初は首都圏のグラビアモデルを使おうと思った。
なのでデスカフェを使って彼女らの子供を誘拐した。
母親を拉致するよりそっちのが楽だったからだ。
後で子供を餌に母親を捕えるのだから、引換券みたいなものだ。
だが、そうこうするうちに自分にピッタリな肉体を見つけた。
それがAV女優、まきむら奈々子だ。
こちらも同じように子供を拉致しようとしたら、思わぬ邪魔が入った。
強力なシャーマンであるヘルビーストと、凄まじい技量を持つ志門舞奈のタッグだ。
だから今度は逆に母親を直にさらおうと思った。
そっちも普通に家に押し入ったら思わぬ邪魔が入った。
なので策を練った。
そう。
今日の襲撃は預言を元に入念に練りあげた計画の最終局面なのだ。
卑藤悪夢は嗤う。
他者から奪った『美』は手入れする必要がない。
自身で生み出したものじゃないから愛着もなく、躊躇なく使い捨てることができる。
そして卑藤悪夢は怪異に墜ちるほどの心の醜さを自覚している。
なればこそ今回の一件は千載一遇のチャンスだ。
他人が持っていて羨ましくて仕方が無かった若さと美貌を貶め、蔑み、奪い取って我がものとしてから使い捨てる。
それは身も心も醜い卑藤悪夢にとって何よりの愉悦だった。
だから今回の作戦は絶対に失敗したくなかった。
だから最も得手とする道術である預言を駆使し、あらゆる不安要素を取り除いた。
だが今回の計画には、どうしても排除しきれない危険があった。
恐ろしい預言だ。
その中で卑藤悪夢は計画に失敗し、ピンク色のジャケットを着た少女に殺される。
自身の起こり得る未来の出来事を音のないビジョンの形で会得する未来予知の道術によって、卑藤悪夢は惨たらしい死を何度も見た。
どの死の風景にもピンク色のジャケットが映っていた。
組織の情報網を使って調査し、その少女は志門舞奈だと見当をつけた。
なるほど奴は怪異の天敵だ。
今までだって数多の怪異を無慈悲に屠ってきた。
そこには海外のヴィランや魔獣すら含まれる。
なんて恐ろしい子供ザマスか!
奴と正面から戦うなんて愚策中の愚策だ。
そう卑藤悪夢は判断した。
だから今、この時、志門舞奈が別の案件にかかりきりになるよう仕向けた。
具体的には【機関】による『Kobold』支部ビル攻略作戦だ。
そのためイレブンナイツに執行人を襲撃させた。
弱そうな執行人を殺させ奴らのヘイトを集めさせた。
意図的に戦力を分散させ、何人かが捕らえられ情報が洩れるよう仕向けた。
だから今ごろ志門舞奈は支部ビルで騎士団やイレブンナイツと戦っている。
運が良ければ騎士なりイレブンナイツに倒されているかもしれない。
期待はしていないが、棚からぼたもちということわざもある。
あるいは奴はもう最上階の執務室にたどり着いているかもしれない。
だが、そこに卑藤悪夢はいない!
ここにいるからだ!
ハハッ!
ちなみに今回の作戦でイレブンナイツも騎士団もほぼ壊滅するヴィジョンを見た。
だが気にしてはいなかった。
何故なら卑藤悪夢にとって配下の騎士など使い捨ての道具に過ぎない。
代わりはいくらでもいる。
リーダー格であるイレブンナイツとて同じだ。
だが自分が永遠になる前に最高の容姿を手に入れるチャンスは今しかないのだ。
比べるまでもない。
だから幾つもの策を巡らせ、卑藤悪夢は万難を廃してここにいる。
目的の達成まで、あと一歩。
目前のヘルビーストだけが最後の障害だ。
奴を一刻も早く倒さなくてはならない。
そして、まきむら奈々子の若さと美貌を手に入れるのだ!
大事な大事な若くて美しい肉体は先ほど【失去就睡】で昏倒させた。
それを今は奴の子供が抱きかかえている。
ああ、そうザマス!
子供のほうは福祉に繋いでやるのも悪くない。
卑藤悪夢はニヤリと嗤う。
別の怪異の組織が児童支援の名目で国から助成金を騙し取っていると聞く。
そいつらの元に、親を亡くした子供として送ってやるのだ。
そんな悪趣味な皮算用をしながら卑藤悪夢がほくそ笑むうちにも……
「……くっ!」
「ヘルビーストさん!」
「大丈夫。ネネ、心配シナイデ」
数人の騎士を相手にヘルビーストは苦戦している。
背後に子供と母親をかばい、壁際まで後退して槍で数人を牽制する。
だが別の方向から他の騎士が襲いかかる。
そちらに気を取られている間に、さらに別の騎士が槍で突く。
もちろん騎士たちが持つ槍の長さは奴の槍より長い。
奴は仮面を盾にし何本かの槍を防ぐが、別の槍が浅黒い肌をかすめ赤い糸を引く。
背後の子供が悲鳴をあげる。
思惑通りだ。
奴が得意とする呪術を使う余裕すらない。
足元のコツメカワウソも、にぎやかしにすらなっていない。
この人数に、奴ひとりでは対抗できないのだ。
その事実は以前のデスカフェ内部での戦闘で確認済みだ。
奴は強力なシャーマンだが戦士じゃない。
多数の騎士で囲めば倒せない相手じゃない。
その理を覆すことができる志門舞奈は今ごろ『Kobold』支部ビルだ。
駆けつけることはできない。
卑藤悪夢は内心で高笑いする。
自分は賢く価値ある存在だ。
だから自分の得手不得手は把握している。
直接戦闘などという危険で下賤な嗜みは自分には向いていない。
だから使い捨ての騎士たちを大量に用意して最終局面に臨んだ。
そうやって今までも数々の危機を回避してきた。
死と破滅のヴィジョンを避けるための方策を事前に講じて万難を逃れた。
首都圏では公安の追求から『Kobold』を守ってきた。
あの神話怪盗ウィアードテールからだって逃れ続けてきた。
だから自分のやり方は間違っていない!
自分の生き方だけが正解ザマス!
他の奴は間違っているから騙されも搾取されても当然ザマス!
そう、アテクシは奴とは違うザマス!
単身で家を守っていた奴とは!
強力なシャーマンだから何でもできるとタカをくくっていた奴とは!
気づくと子供がこちらを向いて目を丸くしている。
それはそうだろう。
奴はこれから自分の母親の身体を手に入れる女を見ているのだ!
いずれ怪異の頂点に立ち、人間社会を喰いものにする女を見ているのだ!
恐れおののきもするだろう!
勝ったザマス!
そう! アテクシの勝ちザマス!
そう内心でガッツポーズを決めた途端……
「……何ザマスか?」
ふと我に返る。
不自然な寒気を感じたからだ。
いっそ悪寒と呼べるほど寒々しく、忌まわしく、禍々しい冷気。
勝利を目前にした今の自分が感じるはずもない感覚。
だから――
「――なっ!?」
振り返った卑藤悪夢は驚愕した。
何時の間にか冷蔵庫が開いていた。
新旧2つの新しい方だ。
それはどうでもいい。
だが、そこに何人かの騎士が頭を突っこんだまま動かない!
「何を遊んでいるザマス!?」
卑藤悪夢は思わず叫ぶ。
こんな庶民の家の冷蔵庫にあさって楽しいようなものなんか無いザマス!
しかも他の騎士たちは呆然と見ている。
こいつらはこいつらで、同僚を制止しようと思わなかったザマスか!?
兜で顔が見えないからって寝ている訳じゃないザマスよね!?
怒り狂う卑藤悪夢の目前で、開け放たれた冷蔵庫のドアがゆれる。
貼られた大きな付箋に書かれた『チャムエル在中』という言葉の意味を……
「……今度は何ザマス?」
考える暇はなかった。
何故なら逆方向から、今度は不自然な熱を感じたからだ。
「ひいっ!?」
振り返った卑藤悪夢は悲鳴をあげる。
暖炉が盛大に燃えさかっていた。
それも良い。
だが、そこに何人かの騎士が頭から突っこんで果てていた!
ごうごうと燃える暖炉の火の中から、何処かの有名ホラー映画のように脚が生えている様子は中々にシュール。
しかもファンタジー映画に出てくる野営の焼き魚みたいに何人も並んで!
何故にそんな事になっているザマス!?
こんな大事な時に、奴らは何をしているザマス!?
卑藤悪夢は怒り狂う。
いや待て、何か変じゃないか?
そもそも冷蔵庫ってひとつの部屋に2台とか置くものなのか?
それに、入って来た時に暖炉に火はついていなかった気が……?
卑藤悪夢は困惑する。
怒りと疑惑がないまぜになって混乱する卑藤悪夢の――
「――イタッ! 今度は誰ザマス!?」
さらに後頭部に衝撃。
石か何かをぶつけられた!?
振り返っても不審な者は誰もいない。
数を減らした騎士たちは微妙だにせず状況を静観している。
糞野郎ども指示待ちにも程があるザマス!
立ってろっつったまま死ぬまで放っておいたら貴様ら死ぬザマスか!?
何なんザマス!? この状況は!
けど、あれ?
さっき見た時とダンボール箱の位置と角度が違うような?
しかも箱の下からエアガンの先っぽみたいなものがはみ出していて……。
――現段階での本体への直接攻撃はちょっと
――あと上位の怪異に麻酔弾は効かないよ
――あっすいません面白くてつい
何処からか小さな話し声がする。
誰だ?
隣の部屋からか?
これだから安普請は!
恐怖と困惑のあまり些細な物音にもイライラし始めた卑藤悪夢の背後で、
「ギャー!」
今度は悲鳴。
振り返ると暖炉に突っこんでいる騎士の数が増えている!
「ギャー!」
またしても悲鳴。
振り返ると冷蔵庫に頭を突っこんでいる騎士の数も増えていて……
「……なっ!? 何ザマス! 何ザマスかアレは!?」
卑藤悪夢は見てしまった。
冷蔵庫のドアがモグモグ動いてる!
何か喰ってる!
何か金属質のものを、ぺっぺと海老の尻尾みたいに吐き出す。
……中が空になった甲冑や兜だ!
ええっ!?
冷蔵庫が騎士を喰ってる!?
あいつら冷蔵庫をあさってたんじゃないザマスか!?
逆に冷蔵庫に喰われてた!?
もしかして暖炉も!?
気づくと、大量にいたはずの周囲の騎士がほとんどいない!
暖炉と冷蔵庫に喰われたのだ!
本当に文字通り、ちょっと目を離した隙に!
なんだそりゃ!?
「ちょっと! おまえ! 何とかするザマス!」
不幸中の幸いにも近くにいた騎士を詰問しようとつかみかかった途端――
「――!?」
甲冑は抵抗もなく倒れる。
すっかり広くなった部屋の床に、大きな音を立てながら大の字になって激突。
拍子に外れた兜の下の騎士は――
「――立ったまま寝ていたザマスか!?」
意識が無かった。
目を見開いたまま動かなかった。
あるいは死んでいるのかもしれない。
気がつくと、今やまばらな騎士たちは誰ひとり微妙だにしない。
動いているのは黒んぼと戦ってる数人だけだ!
「ギャー!」
ギャー!
新たな悲鳴の元を見やりもせずに、卑藤悪夢はたまらず逃げ出す。
この家はおかしいザマス!
何かいるザマス!
入ってきた玄関から家を飛び出す。
残った騎士? そんなもの知らんザマス!
……って、家の外に控えているはずの騎士もいない!?
何で勝手に帰るザマスか!
玄関から冷蔵庫と暖炉とダンボール箱が飛び出して追いかけてくる。
ギャー!
卑藤悪夢は道術【狼気功】でスピードアップして逃げる。
何なんザマスか!?
訳がわからないザマス!
何アレ?
あれも怪異?
騎士たちは怪異に喰われていた?
やめてよ大事な時に!
それに、あんな同類なんか知らない!
あんな奴らが家にいる限り、まきむら奈々子の身柄を奪うのは不可能ザマス!
作戦を練って出直すザマス!
でも大丈夫!
作戦は失敗したけど、この状況から逃げのびる事はできる!
何せ預言では自分を殺すのはピンク色のジャケットを着た少女だ。
他の致命的なビジョンは見なかった。
そして志門舞奈はここにはいない。
だから大丈夫。
そうだ大通りに向かうザマス!
奴らの背後にいるのが【機関】や魔術結社なら、余人に術を見られるのを嫌う。
人通りの多いところでは活動が制限されるはず。
それに今ごろは以前に事故ったのと別のデスカフェが近くを巡回しているはずだ。
運よくランデブーできれば乗って逃げられるかもしれない。
そう考えてほくそ笑んだ途端――
「――なっ!?」
ピンク色のジャケットがいた!
しかも消音ライフルを構えて撃ってきた!
何故?
何故ザマス!?
大通りに近い路地で人を撃って平気ザマスか?
誰も通報しないの!?
おまわりさん! おまわりさん!
符を取り出すも防御魔法が間に合わない!
そのまま撃たれる。
ギャー!
だが亜音速弾は肩口をかすめただけ!
セーフ!
撃たれた肩が凄く痛い!
まるで内側から焼かれているようだ!
こういうのが嫌だから直接戦闘を避けてきたのに!
でも生きてる!
痛いけど生きてる!
泣き笑いながら走る。
本気で走る。
卑藤悪夢は【狼気功】に魔力を追加し、さらにスピードアップして走る。
ピンク色のジャケットは追ってくる。
ここには決していないはずの志門舞奈が!
だが志門舞奈は術者じゃない。
直線距離での純粋なスピード勝負なら術で高速化しているこちらに分がある。
けど何故?
何故?
何故ザマス!?
志門舞奈はいないはず!
絶対ここにはいないはず!
今ごろは『Kobold』支部ビルで騎士団たちと戦っているはず!
そのために奴らに支部ビル襲撃作戦を決行させた!
そのためイレブンナイツに執行人を襲撃させ、情報が漏れるよう仕向けた!
他に何が足りなかったザマスか!?
思った途端に衝撃!
背中を殴られた!?
奴が追いついてきた!?
何故!?
どうやって!?
驚き、恐怖し、混乱した卑藤悪夢の視界が真っ白になる!
何も見えない!
まるで仏術【摩利支天神鞭法】にかかったように!
再び衝撃!
今度は突き飛ばされた!?
全身が痛い!
硬いアスファルトの上を転がっている!?
もう訳がわからないくらい、痛くて痛くて痛い!
妖術に視覚を奪われ、平衡感覚もなくなって立ち上がれない。
上下も左右もない。
あるほはただ痛みと恐怖と混乱だけ。
だが耳に慣れたバスの音がする!
デスカフェの音だ!
勝ったザマス!
いや、まきむら奈々子の身体は手に入れ損ねた。
だが自分は生きている。
ピンク色のジャケットを着た少女に殺されるという自身の預言に反して!
そして永遠の命を手に入れる。
若くも美しくもない姿でだが。
ああ、そうザマス!
アテクシが永遠になった暁には若く美しい女を粛清し続けるザマス!
いや美を求める人間すべてを痛めつけ続けるザマス!
それがアテクシから美を奪う機会を奪った人間どもへの復讐ザマス!
そう考えるうちにもデスカフェの音は近づいてくる。
おおーい!
卑藤悪夢は声にならない声で叫ぶ。
自力で立ち上がれないから救いの手を求める。
今まで自分は誰ひとり救わず、奪い、利用して蹴落としてきた。
けど今は自分の身が危険なので救いを求める。
世界は博愛に溢れているべきだと主張する。
自分の身が大事だからだ。
卑藤悪夢にとって世界中の何よりも、誰よりも自分が大事だ。
自分だけが大事だ。
だから、
アテクシはここザマス! 早くたすけ――
――凄い衝撃と共に卑藤悪夢の意識は途切れた。
バスが人を轢いた。
以前にも暴走してた女性支援団体のバスだ……。
あーあ。今度はとうとう……。
世間一般では平和で何事もない休日の、うららかな昼下がりの大通り。
唐突な人身事故に騒然とする人々の姿を、ピンク色のジャケットを着たチベット人の少女――中川ソォナムは微笑みながら眺めていた。
何の事はない。
休日出勤を有給休暇でボイコットしたソォナムは、舞奈のそれによく似たピンク色のジャケットを着こんで街に繰り出していた。
あえて変装の仏術【乾闥婆護身法】は使わなかった。
魔法感知を警戒したからだ。
なので代わりに心身に宿る魔力を周囲に同化させて隠していた。
そこに卑藤悪夢が走ってきた。
ソォナムは消音ライフルで撃ったがはずれた。
悲しいかな舞奈と同じジャケットを着てもソォナムは舞奈にはなれない。
なので【韋駄天法】で高速化して奴を追いかけた。
奴の背に符を張り【摩利支天神鞭法】で無力化して【摩利支天九字護身法】で透明にし、そのまま車道へ突き飛ばした。
その結果、奴は何も知らずに走ってきたバスカフェに轢かれた。
見えないものが飛び出してきて、そいつを避けるとか無理にも程がある。
もちろん事故直後のどさくさにまぎれて現場もきちんと確認した。
これでも諜報部のはしくれである。
結果、正直どう見ても排除成功と言わざるを得ないぐちゃぐちゃの状態だった。
しばらくは悪夢にうなされそうな凄惨な末路だった。
だが、すべて預言で定められた通りだ。
ソォナムは奴の預言の癖を見極め、預言で得たはずの情報を元にした対抗策では抜け落ちるであろう安全策の隙を突くべく幾重もの罠を仕掛けた。
舞奈が凄く警戒されるのはわかっていたから、その裏をかいた。
必要な関係各所にも協力してもらった。
具体的には【組合】と【協会】。
術のプロである彼女たちだけが敵の預言を逆手に取った作戦の協力者たりえた。
そんな奇策を成功させるため、正直なところ多くの情報を同僚に伏せていた。
下手に情報を共有すると、それに対する反応を過去の卑藤悪夢に察知される。
その結果、対策されて回避されてしまうのだ。
首都圏での公安は、そうやって奴らを取り逃し続けた。
だがソォナムは心を鬼にして機密厳守とポーカーフェイスを貫いた。
だから今まで預言によって数々の攻撃を回避してきた卑藤悪夢の排除に成功した。
……で、排除に成功したのだから今から皆にネタばらしだ。
本気で奔走してくれた皆にすべてを話すのが……何と言うか少し気が重い。
珍しくそんな事を考えながら携帯電話を取り出す。
ソォナムにとって同僚は仲間だ。
必要があれば隠し事もするけれど、すべてが終わった後に正直に話す。
そうしないと心が痛む。
だが、そんな人の心のおかげで今までも人の縁を繋いでこられた。
少なくともソォナム自身はそう自負している。
と、まあ、それは良いとして。
ソォナムは携帯をじっと見つめる。
大事な作戦の直前に有給取得を突きつけてドン引きさせた【機関】支部。
奴のブラフに乗ったふりをするため『Kobold』支部を攻略するべく本気で作戦に取りかかてくれている舞奈たち。
どちらに先に真実を話すのが筋なのかを真剣に考える。
そうしながら携帯をコールした途端……
『……ソォナムちゃんか!? 丁度いい! トラブルだ!』
ひっ迫した舞奈の声が溢れ出す。
どうせ気まずいのは同じなのだから、身体を張ってくれた方を優先したのだ。
電話の向こうでざわざわしている声から作戦に参加した6人が無事だと察する。
よかった。
本当によかった。
「落ち着いて聞いてください――」
『んなコト言ってる場合か! 最上階――に』
ソォナムは可能な限り意図して穏やかで冷静な声色で話しかける。
切羽詰まった舞奈の声を強い強い意思で聞き流し――
「――卑藤悪夢の排除に成功しました」
『……は?』
伝えた途端、いきなり電話の向こうが静かになった。