帰還
銀色の虫のような甲冑の四肢を氷の茨が縛め、凍らせる
大頭で強化した明日香の【氷獄】が完全体を拘束したのだ。
周囲にひしめく脂虫どもが、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
手足の自由と一緒に奴らのコントロールも失ったか。
そして明日香が更なる必殺の大魔法を放とうと錫杖を取り出した途端――
「――何者も! このアテクシの生き方を縛ることはできないザマス!」
「あっ!? 野郎!」
完全体の虫のような胴体が、四肢を引き千切って飛び上がった。
ロボットの玩具のように関節を切り離し、手足を縛める氷の枷を逃れたのだ。
驚く舞奈の側で、明日香も忌々しげに舌打ちする。
機械を模した構造には、そういう利点もあったらしい。
というより破損した腕を修復した時点で警戒するべきだった。
銀色の芋虫のように頭と胴だけになった目前の完全体も、すぐさま先ほどのように脂虫を吸収して手足を取り戻すだろう。
最初からそうするつもりで手足を犠牲にして胴を守ったと考えるべきだ。
「例え手足を失っても、息子タンがアテクシを守ってくれるザマス! ああ! 息子タンは何て素直でお利口ザマショョョョョョウ!」
「幸い大頭はまだひとつあるわ。一旦、退いて隙を見て――」
「――問題ない。続けてくれ」
動揺する明日香を抱きかかえたまま舞奈は静かに笑う。
訝しむ魔術師に、
「奴の動きは見切った」
言い放つ。
その双眸は、宙を舞う虫みたいな銀色をしかと見据えている。
明日香が手にした錫杖を、握った手の上から握りしめる。だから、
「ぶっつけ本番で当てる。杖の先が向いてればいいんだな?」
「ええ」
明日香はうなずく。
「ハヌッセン・文観」
コマンドワードを唱えた途端、錫杖の柄がひとりでにのびる。
長さは彼女の背丈ほどか。
杖の先で狙いをつけるには好都合だ。
2人が握った聖なる杖【双徳神杖】の先端で、髑髏のオブジェが金属質に輝く。
髑髏を囲う輪形に通された16個の遊環が涼やかな音色を奏でる。
そんな2人が見やる先で、完全体は地面に潜る。
ワンパターンな地中からの奇襲だ。
舞奈は明日香を抱えて跳ぶ。
直後、2人の残像を斬り裂くように完全体が地面から跳び出て――
――タスケテ……
何処からともなく声。
もちろん明日香ではない。
超能力の【精神感応】に似た、直接に頭の中に聞こえる声。
魔法的な声の出所を耳で聞き分けることはできない。
だが舞奈は目前の完全体からだと思った。
おそらく声の主は、奴の体内に収められているガラス瓶。
「――避けるなザマス!」
今度は物理的に聞こえるダミ声。
「次で死ぬザマス! 大人にたてつく生意気なメスガキども!」
「大人だの子供だの言う前に、あんたは人間じゃないだろ」
怒る完全体に軽口を返しつつ、舞奈は頭上を見上げて舌打ちする。
完全体は跳び出した勢いのまま宙を舞い、空中にピタリと制止した。
浮力や推力は何らかの魔法的な手段で得ているらしい。
手足がなくても移動能力には問題なさそうだ。
否、むしろ軽くなったぶん機動力は上がっていると考えるべきか?
そう分析した次の瞬間――
――嫌……ダ……
再び脳裏に声。
同時に手足のない完全体が、それとわかるくらいバランスを崩す。
――モウ嫌ナンダ……コロシテ……僕モ……コノ女モ……
「息子タン!? 何故ザマス!?」
完全体は目鼻のない顔で驚愕する。
どうにか身体の制御を取り返して態勢を戻す。
だが動力が不安定になっているのは誰の目にも明らかだ。
「――ああ、そりゃそうだ!」
思わず舞奈の口元に笑み。
状況が何となく飲みこめた。
舞奈は小学5年の女子だ。人の親でもなければ男でもない。
だが、この街で仲間たちと――スプラ、バーン、トルソ、切丸、そしてピアースと轡を並べて戦った今では理解できる気がする。
男の子は誰かに過干渉されるのは嫌いだ。
たとえ、それが自身を守るためでも。
自分が信じた何かのために、自分自身の全力で走りたいのだ。
少しばかり無茶でも、無謀でも、危険でも、ときに命すら脅かされても。
強いとか弱いとかは関係ない。
大人だとか、子供だとかも。
それが男という生き物だ。
そんな簡単な事実に、目前の虫みたいな女は気づこうともしなかった。
奴が母親の皮をかぶっただけの怪異に過ぎないから。
だから――
「――今度はおまえたちが息子タンをたぶらかしたザマスかっ!?」
何も知らぬまま、知ろうとせぬまま銀色の虫は激昂する。
「殺してやる! 殺してやるザマス!」
叫びつつ、踏ん張るように動きを止める。
おそらく体内のガラス瓶から無理やりに魔力を引き出しているのだろう。
「あのヤンキーの姫気取りの売春婦と同じように、おまえたちをズタズタに引き裂いてやるザマス! 徹底的にリンチして! レイプして――」
「――できないよ。あんたにはな」
舞奈は挑発するような笑みを浮かべて口元を歪め、
「次で当てる。施術を頼む」
「オーケー」
明日香を抱えた左腕に力をこめる。
杖ごと明日香の手を握った右の手にも。
次の瞬間、銀色の虫は地に潜る。
再び跳んだ2人の足元から跳び出す。
だが今回も避けた2人の残像を裂くのみ。
「そんなワンパターンな動きじゃ、ルーシアちゃんにゲームで勝てないぜ!」
舞奈は跳んだ勢いで態勢を変えつつ着地。
明日香の手ごと握った杖の先をピタリと銀色に向ける。
対して空中で制止したまま完全体は動かない。
否、動けない。
奴は枯渇しかけた魔力を振り絞った渾身の突撃を避けられた。
だからバランスを崩した。
回避など出来ようはずもない。
手下を、手足を、魔力すら失った醜い怪異に身を守る術はない。
正直、タイミングを計る必要すらなかったくらいだ。
何故なら奴を憎み、恨み、破滅させようと願っているのは舞奈たちだけじゃない。
奴の敵は、奴以外のすべてだ。
その事実に2人は改めて気づいた。
だから奴を逃すつもりは毛頭ない。
舞奈も、明日香も。
完全体を見据えながら、明日香は素早く真言を唱える。
左手につかんだ月輪の首――最後の大頭が魔力の塵と化し、杖の先に収束する。
溢れる魔力が杖の周囲に凝固し、何かの機器のようなものが形作られる。
ルーン魔術の流れを汲む【物品と機械装置の操作と魔力付与】技術を併用した、エネルギー放出の威力を効率よく増すための砲身のようなものか。
そのように側で明日香が大魔法を行使する僅かな間。
舞奈は自身がどんな勝利を望んでいるのかと、ふと想う。
奴は四国の一角を結界で閉ざし、Wウィルスで市民を根絶やしにした元凶だ。
手下の怪異どもを使ってスプラを、バーンを、ピアースを殺した仇だ。
切丸を惑わし、トルソを殺させた卑怯者だ。
舞奈たちに罵声を浴びせ、襲いかかってきた敵だ。
空を暗闇に閉ざされた異郷の戦場で過ごした3日間で舞奈が見た犠牲、惨劇。
それらすべてを引き起こした目前の怪異が、どんな惨たらしい散り方をしたら彼らの溜飲が下ったと胸をなでおろすことができるのだろうかと、ふと思う。
舞奈は奴にどうあれと望んでいるのだろうか? と。
奴らがスプラにしたような、唐突で理不尽な終わりか?
バーンの身に訪れたような手に負えない暴力にねじ伏せられる末路か?
トルソが味わったであろう、裏切りと絶望に満ちた最後か?
……否。舞奈の童顔の口元に浮かぶのは笑み。
たぶん舞奈が男たちに見せたいのは、そんな凄惨な勝利じゃない。
目にした誰もが驚嘆するような、殉じて良かったと思えるような美しい勝利。
彼らが頂く太陽にたるSランクに相応しい。
まるでゲームのスーパープレイヤーのような。
だから――
「――総統」
「――セレスティアルパニッシャー!」
明日香が施術を魔術語で締める。
同時に舞奈もゲームの中の魔法の名前を叫ぶ。
もちろん杖の狙いは敵のど真ん中。
次の瞬間、明日香が手にし、舞奈が狙いを定めた杖から烈光が放たれる。
渦巻く光の奔流。
非常に強力なレーザー照射の魔術だ。
その苛烈な光量と熱量は【熱光嵐】の1発の比ではない。
レーザーを照射しているというより、目の前の視界すべてが光に覆われている。
他の魔術師たちが用いる光線の魔術と、呪術師の大魔法と比べてすら圧倒的。
即ち【断罪光】。
戦闘魔術の手による破壊と殲滅、断罪のための光だ。
視界の端で、光に飲みこまれた廃ビルの下の階が特に手ごたえもなく消滅する。
落ちてきた上の階が、暖炉に紙をくべるように一瞬で消える。
そうやって射線上に建っていたビルが次々と光に薙ぎ払われる。
下手に手がぶれると光束で街全体を薙ぎ払ってしまいそうだ。
そんな出鱈目なパワーを放つ光の中に――
――貴様に次の生があったら、為政者として、人の親として誇れるように振る舞え!
太刀を振り上げた作業着の背中が見えたような気がした。
――流石にそのおフェイスは俺ちゃん的にはノーサンキューかな。スプラッシュ!
――てめぇをぶちのめしてゲームクリアだぜ! バァァァニング!
軽薄な声色と共に放たれる稲妻の矢が見えた気がした。
あるいは赤いジャケットの背中が。
――僕たちの街を取り戻すんだ! うわあぁぁぁぁ!
槍を構えた青年の背中が見えた。
両手に日本刀を構えた黒ずくめの少年の背中も見えた気がした。
あるいは話したこともない特攻服のヤンキーたちの背中が完全体へと襲いかかる。
特攻服の背には金糸に輝く『禍川総会』の文字。
そんな彼らの先頭に立つのは同じ色の僧服の背中だ。
いつの間にやらピアースも揃いの特攻服を着こんで、月輪とならんで敵に挑む。
たぶん気のせいだろうと舞奈は思った。
明日香の手札に、そういう幻を呼び起こす術はなかったはずだ。
だから、これは単に興奮状態にある舞奈自身が見ている夢か、あるいはガラス瓶に閉じこめられた魂がもたらす何らかの影響だと結論づける。
だから――
――ボクは……
――君も一緒に来なよ。ゲームは皆でやったほうが楽しいよ
面識のないひょろっとした少年を、ピアースが先導して共に走り出す。
渦巻く光の中に、そんな幻を見て舞奈の口元に笑みが浮かぶ。
「何ザマスあなたたちは!? 息子タン!? イヤアァァァァァァァ!」
完全体は目鼻のない顔を驚愕に歪め、身動きを取ろうとするのも忘れて叫ぶ。
無論、卑小な怪異風情が、圧倒的な光と想いの奔流に耐えられる訳がない。
だから次の瞬間、銀色の虫も何の手ごたえもなく潰れて消えた。
そして烈光が止んだ。
大魔法を補佐していたツールが魔法の塵になって消える。
舞奈は抱きかかえていた明日香を離す。
明日香は最初のサイズに縮んだ錫杖をクロークの裏に戻す。
そうすると廃墟と化した街の中に、舞奈と明日香だけが遺された。
舞奈は周囲を見渡す。
「……ずいぶんさっぱりしたな。いくら何でもやり過ぎだろう」
「そうかしら? 核爆発のときからこんなものだったわよ」
「そいつもおまえの仕業だけどな」
側の明日香と軽口を返す。
途端、漆黒の空に亀裂が走り、幾筋もの光が差す。
舞奈と明日香は目をかばう。
3日ぶりに浴びる太陽の光だ。
やがて光に目が慣れてくると、そのまま空を見上げる。
2人が見上げる先で、黒ずんだ結界が消えていく。
まるで暗くて分厚い雨雲が晴れるように。
やはり奴が身体に収めたガラス瓶が、結界を維持する礎となっていたらしい。
もう不可思議な声も聞こえない。
幻も見えない。
舞奈と明日香が見やる先で、黒ずんだ結界の欠片が溶けるように消える。
すると頭上には抜けるような青空が戻って来た。
舞奈はそのまま目を細めながら空を見続ける。
結界の外は今日も平和だったとばかりに白い雲がゆっくりと流れる。
無意識に『CONGRATULATIONS』の文字を探す。
けど空には、どんなに待っても文字なんか浮かんでこなかった。
もちろん崩れたビルの陰から見慣れた人影があらわれたりもしない。
けど舞奈は現実がゲームと違うことなんて嫌というほど理解している。
だから、せめて光の中に消えた彼らが空の何処かで笑っていればいいと思った。
雲がたゆたうのほほんとした空は、勇士たちの安息所に相応しい気がした。
どうせなら虹も見られれればいいのにと思ったが、空には虹も出ていなかった。
代わりに廃ビルの陰からくわえ煙草たちが跳び出してきた。
先ほど逃げ去ったはずの脂虫どもが、本能に従って生存者を襲いだしたのだ。
逃げたり戻ったり忙しい奴らだと少し思った。
今やこの街で生きている人間は舞奈と明日香だけだ。
だから面倒でも脂虫どもを片付けようと得物を構える2人の頭上に……
「……!!」
飛来する機影。
両側に大型ローターを備えた輸送機だ。
以前にKASC支部攻略戦で援護に来てくれたのを見たことがある。
だが今、目前に迫ってくるのはドローンサイズの式神ではなく実機らしい。
だから特徴的なローター音と共に、機影はたちまち航空機サイズにまで大きくなる。
エンジンナセルが稼働してローターが天に向く。
そして顔をかばう2人の前で、轟音と嵐のような風圧と共に降下を始める。
舞奈たちの周囲に迫る脂虫たちが、奇声をあげながら逃げ惑う。
逃げたり戻ったり改めて逃げたりとせわしない奴らだと少し思った。
V-22J。通称セイクリッドオスプレイ。
米国のV-22オスプレイを対怪異用に改良した聖なる軍用機だ。
我が国の優れた鍛冶技術にて設えられたローターは回転により特殊な電磁波を放つ。
それは神術【鳴弦法】と同様の効果を持ち、低級の怪異を怯ませる。
そんな輸送機が、風圧に圧される舞奈と明日香の前に着陸する。
先ほどまでの激戦で周囲が更地になっていたのが幸いだ。
ネイビーブルーの尾翼に見慣れた五芒星が描かれていることに気づく。
どうやら明日香の実家【安倍総合警備保障】が所有する機体らしい。
機体側面の扉が開く。
顔を出したのは糸目の女子高生。
ニュットである。
「舞奈ちんに明日香ちん。よくぞ大任を果たして結界を解除してくれたのだ。同じ巣黒支部のメンバーとして、あちしも鼻が高いのだよ」
「……あんたからは大人しく待機してろって聞いてたがな」
「そのはずだったのだがな」
軽口を叩く舞奈に糸目が答える。
この場所に舞奈たちを迎えに来るために彼女があらわれたのは、適任者だからだ。
今回の任務はそれ自体が危険なものだと認識されていた。
その上で計画の失敗と、大魔法による爆撃計画。
そんな中、おそらく誰にとっても予期しないタイミングで解除された結界。
出迎えることになるのが誰かなんて、正直わからなかったはずだ。
舞奈と明日香だって、どちらか片方ないし両方がいなかったかもしれない。
そんな状況で、そこに誰が居て誰が居なくても、まるでそれが最善を尽くした最良の結果であるかのように最高の笑顔で出迎えられるのは面の皮の厚い彼女だけだ。
ソォナムやサチだと場合によっては顔に出る。
だから舞奈と明日香、7人だったチームのたった2人の生き残りを、彼女は満面の笑みで出迎えてくれた。
まあ普段の言動のせいで笑みも胡散臭く見えるのは玉に瑕だ。
だが、それすらも……今は懐かしいと思える。だから、
「一斉攻撃の直前、【組合】の術者が結界内に大魔法の反応を観測したのだ。怪異のものではない反応が散発的にあったので、こちらに確認連絡があったのだよ」
「それで明日香のことを話したのか」
「うむ。結界内にも大魔法を行使可能な魔術師が残っていることを理由に攻略作戦の失敗という判断を撤回、大魔法の一斉行使による結界破壊を一時保留したのだ」
何食わぬ口調で語られた言葉に、対する舞奈の口元には笑み。
明日香が大魔法の媒体にしていた大頭は【禍川総会】の執行人たちだ。
支部を守るべく勇敢な決断を下した月輪と彼らの生きた証を、舞奈たちは殴山一子を討つために使った。
それは同時に舞奈たちを、魔法のフレンドリーファイヤから守ることにもなった。
「明日香様、舞奈様、御無事でなによりです」
「クレアさん、こんなの操縦できたのか」
「ええ。前職で戦闘機とヘリコプターの操縦経験がありまして、その流れで」
輸送機の操縦席の窓からクレアが顔を出す。
「……で、貴女はなにを?」
「こいつの係っすよ! ボス」
「そうですか……」
明日香のツッコミも何処吹く風で、ベティが古びたラジカセをかざしてみせる。
そんないつもの2人を見やって舞奈も思わず口元をゆるめる。
そしてニュットに促されるままキャビンに乗りこむ。
配線剥き出しの壁際に設置されたベンチに座る。
通信設備からベティがかけた音楽が流れてくる。
――そよ風にのってタンポポの綿毛が
――あの日を運んでくるよ
「この曲、ひょっとしてメジャーなのか?」
思わず舞奈は苦笑する。
双葉あずさの『GOOD NIGHT』。
明日香と2人、死酷人糞舎へ向かう道すがらで聞いた曲だ。
知らないタイトルだからかけたのだが、帰りの飛行機で再び聞くとは思わなかった。
けど、このナンバーを静かに聞くのも悪くない。
あの街で共に戦った仲間たちが、もう少しだけ側にいてくれる気がするから。
だが側のニュットは舞奈の感傷など気にもせず、
「では出発するのだよ」
出発の合図をする。
彼女らは舞奈たちを回収したので、これ以上ここですることはない。
舞奈たちも任務を果たした上に元凶も倒したし、やるべきことは残っていない。
『了解。これより発進します。揺れることはないはずですが、舞奈様も明日香様もいちおうシートベルトはつけておいてください』
クレアのアナウンスと共に、輸送機がゆっくり離陸する。
なるほど確かに空を飛ぶヘリの中とは思えないくらい安定している。
鋭敏な舞奈の感覚で、辛うじて揺れが感じられるくらいだ。なので、
――夏の日差しに、追われて、春が終わるころ
――青い空の下、君がいた
――学校も塾もぜんぶ放り出して、野ウサギのように野を駆けた
――オレンジ色の空に急かされて
――小さく手を振りながら
――夕日に長くのびる君の影、見えなくなるまで見てた
壁際に据えつけられた座席の上に膝立ちして窓を見やる。
途端、上下にすれ違う何かを見やり、
「装脚艇?」
柄にもなく怪訝そうに声をあげる。
先ほど倒したばかりの歩行屍俑……というより20年後の夢で見た装脚艇そのものに似た鋼鉄製の巨人が、巨大なパラシュートみたいなものに吊られて降りてゆく。
しかも複数。
その上、巨人たちが降りてくる元は、はるか上空の巨大戦艦。
先ほどまでは見えなかったから、光学迷彩か何かで隠れていたのだろう。
「香港軍のフォート・マーリン級とウォーメイジ?」
「いんや。ASEAN各国は大陸の怪異を抑えるだけで手いっぱいなのだ。他国に増援を送るほど魔法戦力に余裕はないのだよ」
明日香とニュットが訳知り顔で、巨人の軍隊の所属を誰何する。
「スカイフォールという小国の予備兵力なのだ。ほれ、マーキングも違うのだろう?」
「なるほど、あれが……」
ニュットの知識マウントに大人しく屈し、明日香も並んで窓の外を見やる。
2人そろって電車ではしゃぐ子供みたいだが、まあ別に誰が見ている訳でもない。
そもそも舞奈も明日香も子供だ。
もし2人がテックのアバターみたいな大人だったら彼らを……
あるいは最初から、あの装脚艇を使えたなら……
……いや、やめよう。もう終わったことだ。
明日香は知識とうんちくによって、何かを割りきろうとしている。
だから舞奈も口元に乾いた笑みを浮かべながら窓の外を見やる。
――泥んこに汚れた服に靴
――ママに叱られながら
――うわの空で夜空を見上げながら、君のすがた探してた
殴山一子と死闘を繰り広げた死酷人糞舎とその近辺が、半装軌車で駆け抜けた大通りが、玩具の街のように小さくなっていく。
視界の端にあらわれた禍川支部ビルも眼下に去っていく。
やがて駐車場に米粒みたいな焦げた車が並んだスーパーマーケットが、ホームセンターの屋根が、舞奈の視力ですら見えないくらい小さくなっていく。
舞奈たちが繰り広げた激戦の痕が遠のいていく。
仲間たちが笑い、憤り、散った証が、記憶が風化するように小さくなっていく。
貸倉庫や喫茶店や、とある民家を目で追おうとしたけど間に合わなかった。
――ベッドの中で
――まどろみながら
――君の髪
――君の声
――何度も想い浮かべてた
――明日の朝、目覚めても忘れていないように
あの街に最初に訪れたのは、明日香とニュットと3人でだ。
舞奈も明日香も、あの街に来た時に持っていたものを特に何も失わずに街を出た。
彼らに会ったのは一昨日で、会えなくなったのは昨日だ。
ピアースですら3日くらいしか一緒じゃなかった。
なのに、あの街に大事な何かを置き忘れてきた気がして、遠くなる景色を見つめる。
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
――拾い集めた宝物を捨てて
――泥のように深く眠ろう
――君のいた、あの日のその先に、出会えるように
やがてビルも、家も道路も見分けがつかなくなる。
街全体が混ざり合い、豊かな緑の端にのびる灰色のゲジゲジになる。
いつか見た航空写真では、どす黒い結界に覆われていた場所。
その小さな黒ずみを取り除けたことが、舞奈と仲間たちの戦果だ。
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
――あの日、願ったような、大人になれなかったとしても
――君とした約束、守れたらいいな
――そうすれば、あの空は永遠になる
そうするうちに輸送機の左右のエンジンナセルが横向きになる。
そして背後の街が緑色に溶けていく。
街の背後の山々のさらに向こうに流れる吉野川と一緒に小さくなって、やがて四国全体が小さな緑色の島としか認識できなくなる。
そうやって、仲間たちの記憶も薄れて消えてしまうのが嫌だと思った。
まるで醒めた後の夢のように。
花屋で見た夢のように。
だから口元を歪め……ふと気づいてコートのポケットに手を入れる。
指の先に硬いものが当たった。
ピアースから受け取ったゲームのメダルだ。
このメダルをテックに渡すまで、舞奈の旅は終わらない。
そう考えるのは嫌じゃない。
そう想えるようなものを、舞奈の手元に遺してくれたあたりが彼らしいと思った。
だから口元をゆるめる。
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
「見たまえ! あれが我らが懐かしの本州なのだ」
「いや、そういう括りで懐かしいとか思うものなのか……?」
そもそもあんたは一旦帰って、ついさっきまで巣黒にいたろう。
芝居がかったニュットの言葉に冷ややかなツッコみをいれる。
けど、そんな風に気心の知れた仲間と軽口を叩くのも悪くない。
何故だか今は、そんな気分だ。
行く先に見えるデカイ緑の島も、懐かしいと言われれば懐かしいのかもしれない。
「そういえば、もう昼なのだな。食べたいものはあるかね?」
「んー。うどん」
「では手近な鶴亀製麺を貸し切るのだよ」
「それは他の客の迷惑になりますので……」
ニュットのさらなる妄言をにべもなく切り捨てる明日香を見やって笑う。
そうしながら、せめて景色を目に焼き付けておこうと再び小さな小さな島を見やる。
仲間たちとの束の間の旅のことを、忘れないように。
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
――GOOD NIGHT.GOOD NIGHT.
――GOOD NIGHT.SEE YOU IN MY DREAMS……
そのようにして、四国の命運をかけた禍川支部奪還作戦は成功裏に終わった。