戦闘2 ~梵術&修験術vs道術
――今から10年ほど前。
猫島朱音が【機関】神奈川支部の執行人だった頃。
県内某所に位置する緑地公園の一角で、
「……たすけて……殺さないで……」
若い女が、恐怖に顔をひきつらせてすすり泣いていた。
その両腕は、ガラの悪いくわえ煙草の少年たちにつかまれている。
その上さらに、薄汚い身なりの少年たちに取り囲まれている。
学ランを不格好に変形させ、木刀を手にした脂虫――邪悪な喫煙者ども。
彼らのような卑しい珍走団は、当時は暴走族と呼ばれていた。
そんな下衆どもは思い思いに煙草をくわえ、女を囲んでニヤニヤ笑う。
「そいつは無理ってもんだなぁ。てめぇも彼氏と同じように死ぬのさ」
「へへっ、アイツみてぇにな!」
少年たちが煙草をふかしながら、ニヤニヤ笑って見やる先。
そこには無残に四肢を引きちぎられた男の遺体が転がっていた。
悪臭と犯罪の申し子である喫煙者――脂虫の少年たち。
忌まわしい喫煙者どもは、通りがかったアベックを集団で襲ったのだ。
男は果敢にも相方をかばった。
だが邪悪な脂虫どもは男の四肢を集団でつかんで残虐な方法で殺害した。
そして女を拘束し、
「その前に」
「ああ、あんたには俺たちを楽しませてもらわないとな!」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて女を見やり、
「い、嫌!!」
女の四肢をそれぞれつかんで大の字に広げ――
「――ぐあっ!!」
殴り飛ばされた。
ガタイの大きな少年が4人――否、4匹、2メートルほど打ち上げられる。
他の脂虫どもは驚愕し、思わず見やる。
引き裂かれた男。
その側で、うずくまる女。
周囲に落下してきた4匹の仲間。そして――
「――間に合ったようだな」
彼らを凄まじいアッパーで吹き飛ばしたのは、小柄な少女だった。
コートの下には地元高校の制服。
若かりし頃の猫島朱音である。
「てめぇ!? 何しやがる!」
「おっこいつも女じゃねぇか!」
脂虫どもは朱音を見やり、いやらしく舌なめずりする。だが、
「なら、こいつも一緒に……ぐあっ!?」
台詞を言い終えることなく吹き飛ばされた。
いきなり突風に吹きつけられたからだ。
朱音の梵術だ。
そして凄惨な殺人現場に恐るべきカバディと、嵐の如く攻撃魔法が吹き荒れた――
朱音は南アジアへ留学していた帰国子女である。
留学先は治安当局の力が至らず治安は悪く、集団レイプも横行していた。
そのような輩に対して朱音の対処はひとつ。
修行で身に着けた梵術を使い、当局に代わって始末していた。
義に根差した朱音の行為は現地では受け入れられ、ときに聖者と崇められもした。
帰国後の朱音は【機関】の執行人として怪異との戦闘で大いに活躍した。
朱音が修めた梵術は強く、カバディは激しく、朱音自身も勇敢だった。
何より彼女は正義感に溢れていた。
そんな朱音は、界隈で暴れまわる暴走族どもを警戒していた。
なんらかの対策をしなければ、奴らは取り返しのつかない災厄の元になると。
だが実質的に犯罪者の隠れ蓑になってた地元警察は、暴走族の横行を黙認した。
地元の【機関】支部も、警察に忖度した。
どちらも、食い下がる朱音を煙たがった。
悪臭と犯罪をまき散らす喫煙者は人間ではない。
脂虫という種類の怪異だ。
その事実は今も昔も変わらない。
だが当時は【機関】でも積極的に駆除すべきとまでは考えられていなかった。
公的組織や企業の上層部に、多くの脂虫が蔓延っていたという理由もある。
そんな起こりうるべく状況の中、奴らは凶行に至った。だから、
「――何だこれは!?」
事前に朱音がしていた通報に応じ、おっとり刀で訪れた警官たちが見たもの。
それは保護された女を介抱する朱音。
その側で無残にも四肢をもがれた男。
周囲を不自然なまでに濡らす噴水の水。
そして打ち捨てられた木刀と、薄汚いヤニ色をした破片。
元の人数がわからないほどバラバラに分割され、恐怖と驚愕に目を見開きながら転がる頭部とごちゃまぜになって散乱した暴走族の少年たちだった。
意外にも警官たちは朱音に何もしなかった。
彼らが恐れるものが正義や信念を失うことではなく、力だからだ。
だが後日、地元警察からの強い抗議に応じる形で朱音は【機関】を放逐された。
その後、その実力と正義感を買われて公安にスカウトされた。
そして治安維持業務に携わる中、暴走族どもが地元警察と内通していたとを知った。
そのリーダー格の名字も『長屋』といった。
そして時は戻る。
「ヒヒヒ。オレは女を――子供を痛めつけるのが大好きなんだ」
貧相な身なりの団塊男が、憑かれたように不気味に笑う。
相貌はヤニで黄ばみ、唇には煙草が癒着している。
長屋博吐――PTA会長にして女児宅侵入、婦女暴行の常習犯だ。
長屋はひとりの少女を締めあげていた。
首都圏の私立中学の制服を着たショートカットの少女――夜空だ。
ウィアードテールを援護すべくKASC支部ビルに侵入した彼女。
そんな彼女は『夜闇はナイト』を召喚しようとしていたところを長屋博吐に見つかってしまったのだ。下劣で残虐な、悪党どもの中でも最悪の男に。
そんな下衆の側頭に、銃口が突きつけられた。
躊躇なく発砲。
薄汚い脂虫は横に吹き飛ぶ。
そして側にコートの女性があらわれた。
猫島朱音だ。
手にしたリボルバー拳銃の銃口からは硝煙。
透明化の梵術【摩利支天の加護】から無慈悲な接射を見舞ったのだ。
悪党が手放した夜空を、側に出現した金髪の行者が抱きかかえる。
こちらはフランシーヌ。
同じく【摩利支・経津主・陽炎】の修験術で透明化していた。
透明化の魔法は、ほとんどの流派において初歩の術だ。
公安の術者ともあれば当然、嗜んでいる。
だが不自然なまでの身体能力で態勢を立て直した長屋博吐は無傷。
貧相な身体を【虎気功】で強化していたのだろう。
そして、とっさに【土行・岩盾】を行使して身を守ったのだ。
「俺の楽しみを邪魔しやがって! 何者だよ!?」
長屋は身勝手に叫ぶ。
「公安だ」
「警官が! 人を撃ってもいいのかよ!」
「貴様は人じゃない。脂虫だ」
朱音がリボルバー拳銃を突きつけて牽制する間に、
「大丈夫ですか?」
「けほっ、だ、大丈夫ですわ。危ないところをありがとうございます」
フランシーヌが少女を介抱する。
やや天然な女子中学生の反応にひとまず安心する。だが、
「糞ったれ! ……お前たち、出番だ!」
長屋が叫び、そして嘯。
途端に数多の足音。
廊下の奥から長屋博吐と同じ顔をした貧相な男たちが駆けて来た。
全員が煙草をくわえ、頭蓋骨と毛で装飾された槍――方天画戟を携えている。
最初の長屋博吐も同じものを取り出して構える。
「肉人壺で作ったコピーか。不快な顔もそれだけ並ぶと壮快だな。殺り甲斐がある」
背後の2人をかばうようにリボルバー拳銃を構える朱音。
警官らしからぬロックな発言に対する虚勢のように、
「驚いたか!? 俺はなぁ! 特別なんだよ!」
長屋は勝ち誇ったように喚き散らす。
「金を持ってるだけの死塚とも違う! 長屋に伝わる再生・復活の力と、あの方が与えてくださった偉大な力を両方とも持ってるんだ!」
耳障りな声で、叫ぶように語る。
背後のコピー長屋もくわえ煙草のまま笑う。
「だから何度でもやり直せるんだよ! それで一度でも上手くやれりゃあ、あの方と同じ強大な力と無敵の身体が手に入るって寸法よ!」
唇に煙草を癒着させたまま、貧相な団塊男は目を血走らせて喚く。
「そのために沢山の生贄を捧げてきた! 女子供を! 動物を! 悲鳴と命を宝貝に捧げるのさ! 楽しかったぜ! 俺は女や子供を痛めつけるのが大好きなんだ!!」
「ひっ……」
「何という……」
憑かれたように笑う男に夜空は怯え、フランシーヌも口元を歪める。だが、
「ああ、知っているさ。貴様たち『長屋』――長槍の一族は皆そうだ」
朱音はただ冷ややかに、目前の下衆男を見やる。
どこもかしこもヤニで歪んだ、貧相で醜い怪異を。
「邪悪な異能力を持つ宝貝を餌に、怪異の下僕と化した呪われた一族」
言い放つ。
「一族の全員が脂虫で、その姓を持って生まれた子供も脂虫になることを約束されている。なにより自ら家単位で人であることを捨てた、根絶やすべき人類の仇敵だ」
かつて【機関】を追われ、公安として人の世に紛れた怪異の悪行に抗い続けた朱音。
その中で、彼女は滅ぼすべき敵について知識を得ていた。
「そこまで知ってるか! 警察の嬢ちゃんよぅ!」
長屋の一族の邪悪なる末裔のひとり……否、1匹である長屋博吐はいやらしく笑う。
「だがな警察の中にも、俺たち長屋の協力者がいるんだぜ!」
貧相な団塊男のくわえ煙草の口元が、邪悪に歪む。
「だから俺は何をしても無罪放免。逆に俺の楽しみを邪魔した奴が犯罪者だ! なあ警察の嬢ちゃん……いや! 元第三機関の猫島朱音! お前みたいにな!」
長屋は朱音を見やって叫ぶ。
その貧相な醜い顔には邪悪な笑み。それでも、
「構わんさ。わたしは公安という立場のために戦ってるわけじゃない」
朱音は何気に答えながら、口元に笑みを浮かべる。
その笑みが、かつて銃火を交えた幼い最強――志門舞奈に似ていることに彼女は気づいていない。その信念が、背中が、背にかばった仲間を奮い立たせていることにも。
「守るべきものを守るために、そのほうが都合がいいというだけだ!」
言い放ちながら不意に始まるカバディ。
高速化の呪術【韋駄天の健脚】は瞬時に発動できる。
朱音の守るべきもの。
それは、かつて子供だった自分が守りたかった正義。
今この時にも若者たちが必死に守ろうとしている信念。
自身の後ろに守られた少女。
それらを害する者に一切の容赦はない。
「そうかよ! だがな! ヒヒッ、俺はお前の戦い方もよく知ってるんだぜ!」
長屋博吐は口元を下衆に歪める。
「あんたは走りながら術を撃てる。だから誰にも止められない」
「……そういう風に噂が伝わるのか」
「だがな! 狭い廊下の途中で、これだけの俺を相手にどこまで通用するかな!?」
長屋は勝ち誇ったように笑う。
だが朱音の口元にも笑みが浮かぶ。
またしても、あの最強の少女のように。
何食わぬ風を装った、だが絶対の自信に裏付けられた不敵な笑みが。
おそらく奴が聞いた噂の出元は地元警察。
そこにも怪異の下僕となった脂虫が何匹か潜伏しているとは聞いていた。
そいつらが梨崎邸での攻防の様子を伝えたのだろう。だが、
「そう思うなら、自分の身体で確かめてみるんだな!」
言いつつ左手でもリボルバー拳銃を抜く。
そしてカバディの激しい動作のまま2丁の拳銃を撃つ。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。
手元が見えぬほど素早く動作しながら撃って、撃って、撃ちまくる。
その凄まじい様相は三面六臂の如く。
コートの中から実包が飛び出てシリンダーに収まる。
風を操る【風天の舞】を器用に制御し、リロードを続けているのだ。
差し詰め手動の機関銃といったところか。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。
M60の……というよりリボルバー拳銃の限界を超えた連射に継ぐ連射。
コピー脂虫どもは成す術もなく蜂の巣になって吹き飛ぶ。
何匹かは手にした槍の力で再生するが、残りは果たせず崩れ去る。
その最後尾にいる本体の長屋博吐は驚愕に目を見開く。
だが朱音の猛攻は止まらない。
カバディが勢いを増す。
すると銃声に代わって、風など吹かぬはずの廊下で空気が軋む。
そして無数のかまいたちがコピー長屋どもを滅多切りにする。
大気を刃と化して複数対象を切り刻む【風天の多刃】の呪術。
次いで天井を走る水道管がはじけ、大量の水が噴き出す。
それが無数の刃と化してコピーどもに襲いかかる。
こちらは水を数多の刃と化す【水天の多刃】。
実のところ朱音の実力をもってしても風の刃では滅多切りが精一杯。
何故なら風は軽くて扱いやすいが、それだけに軽い。
だが実体と重量のある水の刃はコピー長屋の四肢を切断し、肉片へと変える。
10年前に同じように欲望のまま罪を犯し、裁かれた暴走族どもと同じように。
さらに廊下にあふれた水は、無数の氷の槍と化して再生したコピーどもを貫く。
重く鋭い氷の刃【大自在天の多刃】。
以前に舞奈との戦闘で使用した【大自在天の雹雨】の殺傷力を増した必殺の術。
水道管からあふれる水と、強風が吹き荒れた廊下の冷気を利用したのだ。
もちろん一連の施術は拘束の術になど変化しない。
滅ぼすべき怪異の先兵に、そうした配慮など必要ないからだ。
そして実のところ、これが朱音の本来の戦い方だ。
カバディを併用した高速施術と、梵術の制圧火力を組み合わせた猛攻に継ぐ猛攻。
まるでインドの叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』に記された神々の最終戦争を再現するかのような圧倒的な暴虐。攻撃魔法の豪雨。
狭い廊下は朱音の火力を余すところなく発揮できる専用の舞台だ。
むしろ高速移動しながら波状攻撃などという搦め手のほうが朱音的には例外だ。
戦場が広く、相手が素早く、賢く、ラッシュを避けられそうな相手への次善策だ。
目前の下男のように欲望のまま周囲に害成すだけの怪異にはする必要のない戦術だ。
そのことに長屋博吐は気づかなかった。
地元警察との癒着関係に慢心し、考えることをしなかったから。
だから串刺しにされたコピーどもは触角をのばし、それも限界に達して崩れ去る。
だが本体の長屋は妖術の岩壁【土行・岩盾】で猛攻を防いでいた。
「糞っ! 糞! 糞っ!!」
自棄になって符の束を放つ。そして嘯。
符は無数の石つぶてと化して朱音めがけて降りそそぐ。
即ち【土行・多石矢】。
だが朱音も水道水を操り、目前に氷の盾を形成する。
こちらは【大自在天の加護】。
分厚い氷の盾は、やけくそに放たれた石つぶてを事もなく防ぐ。
次に長屋は槍を左手に持ち、取り出した符を岩の剣へと変える。
即ち【土行・作岩】。
火力勝負では分が悪いと、接近戦を挑むつもりか。
だが次の瞬間――
「――何……だと……?」
ヤニで歪んだ双眸が恐怖に見開かれた
何故なら背に燃え盛る火の玉を押しつけられていたから。
長屋の背には、突きつけた錫杖の先に火球を灯したフランシーヌ。
即ち【不動・迦具土・散華】。
彼女は猛攻の合間を縫って、敵の背後に忍び寄っていたのだ。
もちろん透明化の妖術【摩利支・経津主・陽炎】を併用して。
いつか戦った舞奈と明日香のチームワークにヒントを得たコンビネーション攻撃だ。
銃弾と攻撃魔法が吹き荒れる中、魔力感知でも他の手段でも察知は困難。
加えて修験術士の彼女は高速化【韋駄・荒脛巾・疾風】の妖術を使用し、猛攻が途切れるタイミングを見計らって一気に駆け抜けることが可能。
流れ弾も障壁の妖術【三貴子・不動・身固】で防げる。
そうやって敵の背に突きつけた錫杖の先で、灼熱の炎が爆発した。
脂虫は爆炎に焼かれて吹き飛びながら無様に悲鳴をあげる。
だがフランシーヌは猛攻の手を緩めない。
連続行使できぬ火球の代わりに付与魔法を筋力強化の【四大・須佐之男・究竟】に切り替え、貧相で薄汚い脂虫を無慈悲に何度も打ち据える。
ヤニで歪んだ団塊男の身体が打撃に軋む。
フランシーヌはこの国の文化に惹かれて修験術を学んだ。
清廉な神道の思想を学び、術者としても才覚をあらわした。
そして心のままに公安の一員となった。
美しいこの国のありかたと、善き人々を守るために。
なればこそ人に化けて人を害し、文化を汚す邪悪な怪異を許せない。
悪を殲滅せんと欲する彼女の気概は、パートナーである朱音のそれに劣らない。
だから薄汚い長屋博吐は背をへし折られ、床に叩きつけられた。
だが次の瞬間、残骸と化した身体の中から魔法の光があふれ出る。
光は一瞬で膨張し、人の形へと変化する。
そして光がおさまった後にあらわれたものは、銀色に輝く逞しい男性の身体。
だが首の上についているのは人の頭ではない。
釣鐘状の、首まで覆うヘルメットのような、眼鼻も口も耳もない異様な物体。
「フハハ! 俺も遂にこの姿になれたぞ!」
完全体とかした長屋は叫ぶ。
「この屈強な肉体の前に貴様らのような女など!」
「完全体か。情報通りだ」
朱音は殊更に動じない。
そして更なる攻撃魔法でとどめを刺そうと身構える。だが、
「っ……! フランシーヌが!?」
完全体を挟んだ反対側には同僚がいる。
もちろん彼女とて強固な障壁【三貴子・不動・身固】を張り巡らせている。
流れ弾程度なら十分に防護できる。
だが必殺の攻撃魔法に巻きこむことが正しいかの判断はつかない。
そんな朱音の後ろで、夜空が動いていた。
激戦を避けつつ声を潜めて祈りを捧げ、【天使の召喚】を行使したのだ。
公安の2人に加勢すべく『夜闇はナイト』の素体である天使を召喚しようとした。
だが夜空は2つの過ちを犯していた。
ひとつは公安の術者を前に、ウィアードテールの協力者である『夜闇はナイト』を召喚しようとしたこと。もうひとつは――
「――ハハハハハハハハ!」
どこからともなく声が聞こえた。
正確には完全体の真上、水道管を破壊された天井の大穴から。
高いところがそこしかなかったからだ。
銀色の釣鐘頭は頭上を見やり……
「……ヘヘッ! なんだ俺を楽しませる気になったじゃねぇか!」
目も鼻もない顔で下品に笑う。
天井の中の砕けた水道管の上という、割とシュールな場所に立っていた何者か。
あろうことか、それは一糸まとわぬ姿の猫島朱音だった。
夜空が犯したもうひとつの間違い。
それは『夜闇はナイト』の造形が理想の王子様のイメージを元にしていたことだ。
だが、そのイメージは先ほど塗り替えられたばかりだった。
危機を救われ、目前で果敢に、そして圧倒的に戦った公安の女刑事のそれに。
結果、召喚された天使は朱音に酷似していた。
しかも全裸の。
そして長屋博人は完全体と化しても下卑た品性は変わらない。
だから裸の女めがけて跳躍する。
砕けた天井の穴へ。
すなわち朱音とフランシーヌの対角線上から離れた場所へ。
「今です! 朱音!」
「ああ! わかってる!」
朱音のカバディが神速なまでに勢いを増す。
水道管の凍りついた破損部から再び水が溢れ、ロープになって完全体を拘束する。
即ち【水天の枷】。
次いで完全体の周囲を氷が覆う。
こちらは氷を操り壁と成す【大自在天の加護】。
ただし完全体を守るためではない。
それが証拠に完全体と朱音たちの間の射線だけは開けたまま。そして、
「なんだと!? お、おい! や、やめろ!!」
朱音たちの目論見に気づいて叫ぶ完全体の前で、踊る朱音の周囲に放電する光の玉が幾つも踊る。千切れた電線から拝借した電気を使った【帝釈天の百雷】。
そしてフランシーヌが構えたリボルバー拳銃から雷弾が放たれる。
こちらは弾頭を【帝釈・建御雷・散華】で強化した必殺の銃撃。
朱音の周囲で輝く無数の雷弾も、完全体めがけて降り注いで炸裂する。
完全体は必死で身をよじり、朱音の姿をした天使を盾にしようとする。
だが天使は逆に自壊して、その魔力を粒子ビームと化して叩きつける。
即ち【輝雨の誘導】。
施術能力こそは相応だが戦闘は不得手な夜空の、それは切り札でもあった。
氷の壁で閉ざされた牢の中で雷撃と粒子ビームの猛打を浴びた完全体はひび割れる。
そして砕けた。
銀色の破片は粉砕されて塵と化し、空気に溶けて、消えた。
下劣な悪党の最後は、拍子抜けするほど呆気なかった。
そして氷の壁が水に戻って溶け落ちた跡。
そこは電線と水道管がぐちゃぐちゃに引きちぎられた、ただの天井の大穴だった。
朱音は廊下に視線を戻す。
そこでは、今しがた共に怪異と戦った頼もしい仲間たちが笑っていた。
「なんとか勝てましたね」
「……造作もないさ」
お前がいればな、と続けようとして気恥ずかしくなってやめる。
そんな自分の言葉を虚勢と受け取っただろうか?
余裕と受け取っただろうか?
フランシーヌの屈託のない笑顔から、それをまだ読み取ることはできない。
2人が舞奈と明日香のような無二のパートナーになるにはもう少し時間が必要だ。
だが、今はそれで良いと思える。
どちらでも、それが彼女の気持ちならば。だから、
「協力に感謝する」
側の女子中学生を労う。
年若く、夢見がちな雰囲気をしたショートカットの少女。
彼女を救えたことが素直に嬉しいと思う。
その上さらに、彼女は勇気を振り絞って朱音たちに協力してくれた。
術者だったらしい。まあ状況的に当然といえば当然だが。
それにしても、ここらでは見かけないはずの首都圏の私立中学校の制服だ。
そんな彼女が何故ここに?
先ほど祓魔術を使っていたし、【教会】からの協力者だろうか?
そんなことを考えながら、大人の自分よりは少し背の低い彼女を見やる。
彼女は無言のまま目を潤ませ、頬を赤らめ、両手を添えて朱音を見つめていた。
……え?
訳がわからず側のフランシーヌを見やる。
だが彼女は普段と同じようにニコニコと笑っていた。
この状況を、どう解釈すれば良いのだろうか?
朱音は2人を交互に見やり、思わず天を仰ぐ。
だが天井の大穴もまた、何も答えてくれなかった。




