最後の悪
週末に委員長とKASCの歌対決を控えた、とある日の放課後。
3人の天女と『太賢飯店』の店名が描かれた看板の下。
赤いペンキが剥げかけた中華料理屋のドアの奥で、
「思ったより、早く復帰できて何よりだ」
「打撲と擦り傷だけだったアルからね」
カウンターのいつもの席で、いつものように舞奈は張の料理を待つ。
それができることに、口元を緩める。
小5の平均的な背丈のせいで床につかない足が、無意識にぶらぶら揺れる。
そんな舞奈を背にしていつものように料理を準備しながら、張も笑う。
担々麺を茹でる匂い。
その側で餃子を焼く匂いとジュジュウいう音が周囲に満ちる。
……まあ、いつものように店には舞奈以外に客はいないが。
連休初日に死塚不幸三が引き起こした自動車暴走事件。
その際、張はあずさをかばって負傷した。
舞奈は翌日に見舞いに行った。
だが張は数日で退院して、今は普通に店を開けている。
その事実が素直に嬉しかった。
KASCとその関係者どもとの対決の前に、幸先がいいと思った。
「にしても、あんたも意外に腕は鈍ってなかったんだな」
言って舞奈はニヤリと笑う。
カウンターの下で、いつも以上に足がぶらぶら揺れる。
元気な彼を再び見られた喜びを、必要以上に顔に出さぬよう何食わぬ表情を装う。
今では肥え太って禿げてはいるが、張はこれでも元執行人だ。
元ファイブカードである『Joker』のオーナーが10年を経て見事な演奏を披露したように、彼もまた大事な人を守るためにかつての技術を発揮したのだろう。
そう納得する舞奈だが、
「そのことアルが……」
張はぽつりとこぼした。
餃子を焼く音が店内に響く。
舞奈は無言で先を促す。
張は逡巡しながらも、
「……あのとき、何者かに防護された気がするアルよ」
「防護だと?」
オウム返しに問う舞奈に、張は餃子を皿に盛りつつ言葉を選ぶ。
「あのときにワタシが使った道術は【金行・硬衣】」
「【装甲硬化】と似たような術だっけか」
「そうアル。本来なら吹き飛んだ衝撃まで打ち消す術じゃないアルよ。だから骨の何本かは覚悟していたアルが……」
「どさくさに他の術がかけられてたってことか……?」
張の言葉に、舞奈はふむと考える。
防御の異能【装甲硬化】については張の言葉通り。
舞奈もこの異能の使い手を幾度となく倒し、おかげで性能も限界も熟知している。
身に着けた武具や衣服を無敵にするこの異能力、ないし類似の防御魔法は自動車との追突による外傷は防げるが、突き飛ばされた衝撃までは無理だ。
なるほど、たしかに軽い打撲で済むのは不自然だ。
「【虎気功】か【狼気功】を、無意識に使ったんじゃないのか?」
気功による身体強化の名を挙げてみる。
なにせ同じ現場で奈良坂は、同種の付与魔法を二段重ねで使用して防御魔法なしで同じ事故の被害を無傷に抑えた。
それは極端にしても、衝突ダメージの軽減くらいはできそうな気がする。それでも、
「10年前なら、そう思えたかもしれないアルが……」
張は納得のいかない様子だ。
「なんとか【虎気功】もと思いはしたアルが、あのタイミングで完全に行使できたとは思えないアルよ」
「謙遜じゃなくてか?」
軽口を返しながらも舞奈は考える。
それが、あのとき何者かから防護されたと主張する理由か。
昔取った杵柄のうち衰え難いのは、経験とそこからくる判断だと舞奈は思う。
だから張の言葉は真実だろうと納得はした。
だが、そうなると、張とあずさを守ったのは誰なのか?
あの状況で張を防護できるとしたら、何者かの術をおいて他に手段はない。
それも遠距離から、慎重に行使された。
でなければ目撃者がいたはずだ。
まあ実際、舞奈は術で通りすがりを救った人物を他に知っている。
ロッカーで医学生でハゲの悪魔術師、萩山光だ。
奇しくも彼も、救った相手はライブ中の双葉あずさだ。
「というより、かけようとした術をサポートされた感じアルかね」
「そんなことができるのか?」
「技術としては相当に高度アルよ。しかも同じ系統の術者アル」
「てことは、防護したのは道士……妖術師……か……?」
言った途中で矛盾に気づく。
道士は妖術師の流派のひとつだ。
妖術師の魔力は、自身の身体に蓄える。
故に術者から離れると大幅に減衰する。
だから妖術師は基本的に遠距離へ術を行使できない。
だが、その事実は先ほどの舞奈の推論と真っ向から相反する。
そう考えて、そして再び気づく。
萩山光の悪魔術が脳裏をよぎり……
「……たとえば妖術師と呪術師を兼任した大魔道士がいたとしたら?」
「それはまあ、呪術は周囲の魔力を操る魔法体系アルから、そこに妖術の魔力を乗せて遠距離に伝達することは可能アルけど……」
答えはしながらも、張は納得はしていなさそうな様子だ。
だが舞奈には見当がついた。
その状況で張とあずさを防護することが可能な者。
それは、いつか話に聞いた大魔道士をおいて他にいない。
即ち新開発区で小夜子たちが遭遇した、悪魔術師にして道士。
奴なら上のすべての条件を満たすし、そんな規格外が界隈に2人も3人もいたら何というか……別の騒ぎになっているはずだ。
だが、そうだとすると、さらに別の矛盾が発生する。
舞奈は奴を、暴走事件の元凶である死塚不幸三の仲間だと思っていた。
それは舞奈の勘違いだったのだろうか?
それとも何の気まぐれだろうか?
あるいは、悪党同士も一枚板ではないのだろうか?
考えてもわからない。
だから、
「……なあ張」
今度は舞奈が言いよどんでから、
「この街に、たぶん例のタイプの泥人間の道士が5匹いる」
ボソリと言った。
一見して唐突な話題転換に思える。
だが、こちらについても知りたかったのは事実だ。
かつて蘇った滓田妖一とその一味にチャビーが誘拐された際、脂虫が成り果てた三尸と完全体について語り、【組合】からの討伐依頼を伝えたのは張だ。
そんな彼は――あるいは【組合】は連日の不自然な事件の裏に何を見ているか?
舞奈と同じように、それを新たな災厄の前兆と見なしているだろうか?
無論【組合】は齢を経た魔道士の組織だ。大魔道士すら擁しているだろう。
舞奈が気づく程度のことなど、とうの昔に対策していると考えるのが普通だ。
だが先日、占術士の中川ソォナムは自動車暴走事件を預言し損ねた。
ビル放火未遂事件を隠れ蓑にされて。
それと同じミスを【組合】の預言者たちが絶対に冒していないと無邪気に信じられない程度には、舞奈も多くの悲劇を見てきた。
識者の意見を聞き入れないのと同じくらい、盲信することも危険だ。だから、
「……舞奈ちゃんも気づいてたアルか」
張のその言葉に、思わず口元に笑みを浮かべた。
「今回の相手は、それぞれが滓田妖一以上に権力を持った危険な相手アルよ。けど舞奈ちゃんには直接の関係はないアル」
「そういう訳でもないさ。たぶん面子の過半数とは顔見知りだ」
「……舞奈ちゃんの周りは厄介ごとに事欠かさないアルなあ」
「言っとくが、あたしから喧嘩売ったことは一度もないからな!」
張の軽口に口をへの字に曲げてから、
「死塚不幸三、屑田灰介、疣豚潤子、それに……長屋博吐か?」
「その通りアル」
舞奈が並べた名前に、張はうなずく。
それらは人間の皮をかぶって人の世に仇成した怪異の名だ。
舞奈は奴らと対面し、うち何匹かは倒し、その結果、諸悪の根源だと推論した。
同じ結論に、老練の魔道士たちが集う【組合】も達していた。
この調子なら情報の裏付けも済んでいるのだろう。
そんな自身の推論を確かめるべく、
「だが、残りのひとりがわからん」
口に出す。
「そこまで知ってるなら、彼のことも知ってるはずアルよ」
張の答えに首を傾げ、
「……KASC須黒支部長、蔓見雷人アル」
いや流石にそいつと直接の面識はないのだが。
そう言いかけた舞奈に、だが張は言葉を続ける。
「奴は悪魔術と道術を修めた、規格外の大魔道士アル」
「そっか、あんたも悪魔術のこと知ってたのか……」
その話を萩山光を探しているときに聞けたら後のトラブルをいくつか回避できたのだが、まあ終わったことを今さら言っても仕方がない。
それより重要なのは、蔓見雷人とやらが大魔道士だということだ。
以前に小夜子と戦ったという、悪魔術と木行の道術を操るロッカー。
たぶん界隈で唯一の、悪魔術師兼道士。
奴がKASCの重役だというのなら、いろいろと辻褄が合う。
「おそらく近日中に、【機関】経由で討伐任務への協力が依頼されるアルよ」
「だろうな」
張の言葉に、何食わぬ顔で答える。
前回の滓田妖一による凶行に対し、舞奈たちは後手に回らざるを得なかった。
術者としても腕の立つキムが占術の裏をかき続けたからだろう。
だから前触れもなくチャビーをさらわれ、舞奈も【機関】も【組合】も急場の対応を余儀なくされた。
だが今回は幸いにも、事前に準備を整える時間がある。
今回の悪党どもが権力と近すぎ、滓田どもほど要領よく動けないからかもしれない。
あるいは奴らにキムのようなアドバイザーがいないからかもしれない。
蔓見氏は小夜子たちを苦戦させた大魔道士だが、魔法戦力として非凡であることは儀式や占術の達人であることと同義ではない。
何より奴は道士としては木行しか使えないらしい。
道術の儀式は専門外なのだろう。
そう納得したうえで、
「あんたはそれで良いのか?」
問いかける。
最初の話題に逆戻りだ。
悪魔術――呪術と道術を併せ持つ何者かに、張とあずさは救われた。
話の流れで張もそれには気づいたはずだ。
奴の他に、あのとき張とあずさを救えるものなどいなかったと。
そいつは十中八九、その蔓見雷人氏だ。
そんな規格外が町内に2人も3人もいたらたまらない。
奴が何故そんなことをしたのかは知らない。
かつて同じ悪魔術師の萩山光も別の事件であずさを救った。
ロックンロールを魔力の源とする悪魔術師はアーティストを救わずにいられないのかもしれないし、単にあずさの個人的なカリスマ性のおかげなのかもしれない。
だが、どちらにせよ、今回の事件の黒幕の排除は張とあずさの恩人の排除と同義だ。
萩山光のときは戦闘の目的そのものが彼を救うことだったが、今回は違う。
その事実を正しく認識しているかを知りたかった。
彼の心情を汲むというだけではない。
急場で情に流されて妙な指示を出されたらたまらんという意味合いも少しある。
それでも張は、
「……どちらにせよ彼はもう手遅れアル」
ひとりごちるように言った。
一瞬だけ、張の饅頭のような顔が疲労と諦観に歪んだように見えた。
蔓見雷人は【機関】との戦闘で核攻撃の餌食となった。
そのことは張も【組合】も既知なのだろう。
ならば、むしろ【組合】が手をまわし、【機関】にSランクによる核攻撃を容認させたと考えたほうが自然だ。
どちらにせよ、その結果、完全体になった彼は消滅した。
そしてニュースにならぬ場所で復活していた。
つまり、奴はもう三尸にされている。
最後に会った滓田妖一の様に虫の身体に封じられ、壺の中で解放者を待っている。
殺してくれ、と嘆願した奴の表情が脳裏をよぎる。
今もこの街のどこかで生きているであろう彼は、もう蔓見雷人じゃない。
三尸にされた蔓見雷人から顔と記憶を奪った泥人間の道士だ。
気まぐれな善行も、奪った記憶が引き起こしたエラーに過ぎないと言えなくはない。
それは喫煙によって人間であることを辞めた者のひとつの末路だ。
そうなった後にどれほどの善を成そうが、もう取り返しはつかない。
ただ、ひとつだけ幸いなのは、張もその事実を認識していたことだ。
怪異どもが道術で引き起こすおぞましい悪行への対処。
ひょっとしたら、それは人間の道士に課せられた十字架なのかもしれない。
だからという訳でもないのだろうが、
「はい舞奈ちゃん、担々麺と餃子アル」
「待ってました!」
張は何食わぬ顔でいつもの料理を振る舞う。
だから舞奈も、いつものように小皿にタレとラー油を注ぐ。
そして熱々の担々麺と餃子に取り掛かる。
来るべきその時に、いつものように、人に仇成す怪異どもを討ち滅ぼすために。
そんなことがあった日の翌日。
ホームルーム前の教室で、
「……なになに、『拝啓、KASC須黒支部長』」
舞奈はタブレットを覗きこみながら、画面に表示された文面を読みあげる。
その側で、持ち主のテックも無表情に頷く。
どうやら昨晩、KASC宛にウィアードテールの予告状が届いたらしい。
「『来週の金曜日、貴方のいちばん大事なものをいただきます』だと?」
「そう書いてあるわね」
側で苦笑する明日香と、無言で見つめるテック。
どうでも良いが、以前に見た予告状とデザインが違う。
真似されたから変えたのだろうか?
なのにウィアードテールの予告状なのは一目瞭然なあたり、名のあるアーティストが関わっているのだろうかとも思う。
まあ、それはさておき、
この文面は以前に舞奈たちがでっちあげた偽予告状と同じだ。
意匠返しのつもりだろうか?
正直なところ、週末に委員長とKASCの歌対決を控えた大事な時期に、勝手にイベントを増やさないでくれと思うのは一般的な心情だと自分では思う。
だが、この日時にKASCに宣戦布告する目的なんてひとつしかない。
奴もまた奴なりに、KASCのやり方に憤っていたのだろう。
……否。魔法を使う怪盗でありながら女児誌のアイドルとしての顔を持つ彼女。
そんな彼女には、舞奈たち以上に奴らに対抗する理由があるのかもしれない。
だから、
「あの野郎、祭だと思ってやがるな」
呆れたような口調で言いつつ、舞奈は口元に笑みを浮かべた。