マァトの天秤
少し時間を遡る。
委員長が父親と夕食をとるしばし前。
舞奈がピアノ教室で疣豚潤子と相対する少し前。
『姉さん?』
「あら紅葉ちゃん。件の兄弟はやはり……?」
『ああ、ビンゴだ。弟は【偏光隠蔽】だった』
「やはり、そうでしたか……」
携帯電話を片手に、楓の端正な顔が憤怒に歪む。
だがすぐに、普段の優雅な表情を取り戻す。
……口元の不穏な笑みを除いて。
先日の自動車暴走事故で犠牲になった幼い兄弟。
楓は、その死に疑問を抱いていた。
占術など使えぬ楓だが、予感があった。
彼らの死が、瑞葉の――一年前に脂虫どもの贄にされた弟のそれに似ていると。
だから妹の紅葉に、彼らについて調査を依頼していた。
その結果は楓の予想を裏付けた。
「まあ、むしろ好都合でしょう。これで心置きなく『マァトの天秤』のテストを決行できるというものです」
携帯を仕舞う。
そして口元の笑みを、鮫のように深く剣呑に歪める。
今日の楓は普段のように髪を編んでいない。
眼鏡も外し、ウェーブがかかった長い髪をのばしている。
そうすると鼻の高い整った顔立ちが強調される。
それは昔、脂虫連続殺害犯【メメント・モリ】として活動していた頃のいでたちだ。
楓が訪れたのは商店街の一角、先日は双葉あずさのサイン会場があった場所。
そこに献花台が設えてあった。
供えられた数多くの花束。
故人が好きだったらしい菓子の山。
その中央で、先日の暴走事故で無くなった兄弟を悼む額縁が鎮座している。
そんな場所に、楓は慰問客のひとりのように訪れていた。
休日の昼間にもかかわらず、付近には不自然なほど人気がない。
だからか、近くの店から漏れ聞こえる軽快なポップスが耳につく。
献花台の前では、警官隊を引き連れた死塚不幸三が何やらしている。
くわえ煙草の死塚は杖を差し棒のように振り回し、警官と何やら話している。
おそらく実況見分だろう。
こちらも事前の情報通り。
老人の横柄な振る舞いは、罪を悔いているようには見えない。
それどころか額縁の写真を一瞥する表情は……侮蔑、あるいは歓喜。
弱者をいたぶり殺すことを楽しむ脂虫が、そこにいた。
やがて見分も終わったのだろう、死塚は警官隊を引き連れて献花台を後にした。
付き従う警官たちの死塚に対する態度は、罪人に対するそれではない。
まるで下僕だ。
何人かの警官は、死塚に倣うように煙草に火をつける。
そんな集団と、楓は何食わぬ顔ですれ違った。
楓は献花台に向かって。
死塚とその取り巻きは献花台を背にして。
楓は慇懃に一礼する。その口元には笑みが浮かぶ。
死塚は無遠慮に一瞥する。
そして両者はすれ違う。
一見、何事もなかったかのように。だが、
「……あの箱、欲しいな」
死塚はふと立ち止まり、女子高生の後姿を見やって言った。
楓の手には、黄金色に輝く小さなオブジェ。
長辺30センチほどの、精緻にカットされた棺のような小箱だ。
要所には幾何学模様の装飾が施され、如何な技術によってか美しいエジプシャンブルーに輝いている。
「献花台に供えるつもりでしょうかね」
「このあたりの学生が、千羽鶴の代わりに作ったのでしょうな」
警官たちも死塚にあわせて立ち止まり、煙草をふかしながらニヤニヤ笑う。
その中にひとり混ざっていた女性警官が、ヤニの臭いに軽くむせる。
死塚は女性を嘲るように見やり、
「あれは子供の工作ではないよ。おそらくは海外の由緒ある美術品だろう」
再び楓の背中に目を戻し、笑う。
「あれを……あれを手にした私を、芸術家きどりの灰介あたりに見せてやりたい」
「かしこまりました。すぐに接収いたしましょう」
子供の我儘のような老人の言葉に、警官は慇懃にうなずく。
「!? ですが、それは……」
「構わん。相手は子供だ。窃盗の疑いがあるとでも言っておけばいいだろう」
女性警官の真っ当な反論を、だが煙草を手にした別の警官が嘲笑う。
こちらは元官僚の上級市民と、国家権力を後ろ盾にした屈強な警官たち。
対して相手は一市民の女学生ただひとり。
抵抗することも、不服を述べることすら許されない。
近くの店から、場違いなポップスが漏れ聞こえる。
そもそも休日の商店街に、不自然なほど人気がない。
この一帯で通行規制が行われているからだ。
死塚不幸三を煩わせないという、ただそれだけの理由のために。
だから目撃者の口封じも容易だ。
警官は言外にこう言ったのだ。
いわば彼女は、狼の群に襲われる羊だと。
そんな手下の言葉に気を良くしたか、
「そもそも、あの女が箱を見せつけてきたのだ。私にはわかる」
言って死塚は嗜虐的に笑う。
彼は奪うことが好きだった。
他人の命を奪うのが好きだった。
他人の財産を奪うのが好きだった。
他人の幸せを根こそぎに奪うのが好きだった。
だから官僚時代には意図的に下策を続け、数多の市民の幸福を奪った。
現役を退いた後も、元官僚の権力を駆使して奪って、奪って、奪い続けた。
いくら奪っても奪い足りることはなかった。
高貴な自分にはその権利があり、下級市民は奪われるためにいるのだと思っていた。
彼は死塚不幸三。
人を死に追いやり、不幸にするために産まれてきた男だ。
そんな老人の――
――モード・エグゼキューション
肩に何かが照射された。
青緑色のレーザーポインタのような謎の光。
次の瞬間、死塚の肩から上腕が、まるで水風船を膨らませるようにぶくぶくと不気味に膨張しはじめる。そして……
「……!?」
爆ぜた。
ヤニ色をした臭い体液と肉片が周囲一面にぶちまけられ、警官どもの制服を汚す。
アスファルトに散った汚物がジュッと音を立ててはじける。
「ガァアアァァァァ!!」
「死塚様!?」
老人は千切れた腕の根元を逆の手で押さえて身もだえる。
警官の何人かが老人に駆け寄り、残りは周囲を警戒する。
そんな様子を、少し離れた献花台の側で楓が見ていた。
口元には先ほどの死塚自身に似た――否、それより遥かに酷薄な笑み。
左手には黄金色のオブジェ。
だが先ほどは小さな箱だったそれは、今や楓の掌の上で浮かんでいた。
しかもワニの咢のように開いていた。
幾重もの鋭い牙を再現したように精緻かつ複雑に展開し、要所に施されたエジプシャンブルーの装飾が眩く怪しく輝いている。
咢の最奥にはめこまれた大ぶりな瑠璃。
その周囲には濃厚な魔力の残滓が立ちこめている。
楓は慌てふためく警官のひとりを次の標的に選ぶ。
オブジェの瑠璃を向ける。
――執行対象を確認。慎重に照準を定めてトリガーを引いてください
脳内に声が響く。
オブジェには2か所に引鉄がついている。
ワニの頭の後頭部と、顎の先だ。
楓はそのうち後頭部の引鉄を右手で引く。
瑠璃が怪しく輝く。
そして再び青緑色の光線が放たれ、警官の胴を穿つ。
警官の全身が熱しすぎた餅のようにぶくぶくと無秩序に膨らむ。
そして電子レンジで加熱した卵のように爆ぜた。
いきなり攻撃され、仲間を屠られた死塚の一団はパニックに陥る。
楓は笑う。
この展開する小箱は、楓が創造した魔道具の試作品だ。
その名も『マァトの天秤』。
古代エジプトにおいて死後の裁きを司るマァト神の名を頂いた、破邪の箱。
完成品は銃のピカティニーレールに設置する予定だ。
紅葉にも同じものを持たせるつもりなので、音声ガイダンスもつけてみた。
今日、ここに訪れた目的のひとつは、そんな魔道具の試射だ。
だから楓はマァトの天秤をさらに別の警官に向け、引鉄を引く。
2人目の警官も爆ぜる。
楓が魔道具にこめた魔術は【沸騰する悪血】。
以前に紅葉が牽制に投げた脂虫を爆発させた【煮える悪血】の上位版だ。
どちらも【断罪発破】同様に脂虫を爆発させる。
有害で罪深い怪異に、その罪に相応しい末路を与えるのだ。
だがウアブによる罪人への審判は、体内に蓄積したニコチンを媒体に全身の血液を沸騰させ、水蒸気爆発を引き起こして爆砕する。
肺を爆破する通常の【断罪発破】との違いは、術を持続させられることだ。
術者が念じ続ける限り執行対象の血液は沸騰し続け、死ぬまで苦痛と損傷を与える。
だから対象が屍虫に進行しても、ある程度の効果がある。
そんな破邪の術の対象となる喫煙者は脂虫と呼ばれ、怪異として蔑まれ憎まれる。
故に【機関】も魔術結社も、脂虫への攻撃を制限しない。
悪臭と犯罪をまき散らす害虫どもは死んでも【機関】が片づけて終わる。
市民への魔法の行使を戒める【組合】すら、それが脂虫の殺害ならば黙認する。
そもそも脂虫――喫煙者は人じゃないからだ。
そして、その【機関】は国家そのものと深く癒着した超法規組織だ。
魔術結社はそもそも人の世の理すら無視した超越者の集団だ。
つまり国家権力に守られているはずの害虫どもを、楓は法と物理法則の外側から好きなように狩り殺せる。
先ほど死塚は、腰ぎんちゃくの警官のひとりは、自分たちを羊を狙う狼だと思った。
だが実際は逆だった。
楓は害獣の群に襲いかかるハンターだった。
しかも魔法で檻を作れる。
そう。いつの間にか周囲には砂嵐が吹き荒れていた。
血のように不吉な赤い色の嵐が、死塚の一団と楓を外界から遮断していた。
よって、狩りの現場は人の目にも防犯カメラにも映らない。
もちろん、そんな自然現象が国内で普通に起きるわけはない。
楓が行使した【創鉄の言葉】――隕鉄を創造する魔術の応用だ。
死と砂嵐を統べるセト神を奉ずるウアブ魔術。
それにより無数の鉄砂を生み出し、突風とともに吹き荒れさせているのだ。
獲物を檻の外に出さないために。
そんな楓は気分のまま、2か所の引鉄の引き心地をチェックする。
マァトの天秤から光線が放たれ、あわてふためく警官たちを屠っていく。
そうしながら楓は笑う。
テストの結果は上々。
魔道具は式神や魔神と同様に、魔力を循環し再生成することで本体を維持し、こめられた魔術を発動させるための魔力を創造する。
その仕組みを処女作で再現できたのは、弛まぬ鍛錬の成果だと自負している。
メジェド神を普段使いすることにより召喚魔法の腕前が鍛えられていたと。
そんな楓に、生き残った警官たちが向き直る。
ようやく攻撃者が誰なのかに気づいたのだろう。
もう少し早く察してもいいものだと楓は思う。
砂嵐のベールの中には楓と彼らしかいないのだから。
それは権威をかさに着て横暴と搾取を繰り返した下種どもの怠慢だ。
だから楓も攻撃の――否、虐殺の手を止めない。
魔道具を敵に向け、引鉄を引くだけで屑の命がまたたいて消える。
毒草を口にすることで人の尊厳を投げ捨てた害虫どもが爆発して散る。
そんな有害な老人によって、あの日、2人の少年が死んだ。
サイクリング中の幼い兄弟の片方は異能力者だった。
心優しい【偏光隠蔽】。
1年前に、同じように身勝手な脂虫に殺され、異能を奪われた弟と同じ。
楓にとって、理由はそれだけで十分った。
かの惨劇が故意なのか、事故なのかは関係ない。
官憲が彼を裁こうが、許そうが関係ない。
かつて脂虫連続殺害犯【メメント・モリ】がそうだったように。
同じように兄を殺されたチャビーと同様に、楓も一見してそぐわない場面で笑う。
だが自身を鼓舞し周囲を楽しませようとする幼女の笑みとは違う。
楓の笑みは復讐者の笑みだ。
殺戮者の笑みだ。
楓は弟の死に報いるために脂虫を殺害し続けた。
それが【機関】に問題視され、楓と紅葉は舞奈たちと争い、敗れた。
結果、2人は【機関】の仕事人になった。
だが脂虫への無限の報復を欲する楓が真の意味で満たされることはない。
人が水を欲するように、楓は復讐をエンジョイする機会を常に欲している。
薄汚い喫煙者の苦痛と死に、常に飢えている。
だから実際、あえて楓は死塚たちとすれ違った。
そして彼らにマァトの天秤を見せつけた。
奴らを殺す前に、奴らに自分を見て欲しかった。
これから自身たち惨たらしく殺す凶器に注視し、その目に焼きつけて欲しかった。
そうすれば楓の復讐はアートへと昇華する。
断末魔の悲鳴と怒号が嵐の音を、漏れ聞こえるポップスをかき消す。
死塚は初撃で片腕を吹き飛ばされ、手下をひとりずつ惨殺され、その恐怖と絶望は頂点に達している。今が刈り取り時だ。
楓は死塚にマァトの天秤を向ける。だが、
――3、2、1。執行に必要なリソースが枯渇。トリガーを収納します
「……あ」
脳内に響く声とともに、引こうとした引鉄が引っこんだ。
ワニの咢が閉じて箱に戻り、掌の上に落ちる。
魔力が切れたらしい。
恒久的に効果を発揮する魔道具は、魔力を循環させ、未使用時に自動回復させる。
だが当然ながら、回復している最中に使うことはできない。
こちらの異変を察したか、死塚は笑う。
九死に一生を得たと思ったのかもしれない。
女子高生の恐ろしい謎の武器は使えなくなったと。
だが楓はやれやれと苦笑するのみ。
その仕草は少し舞奈の影響を受けていた。
手持無沙汰になった右手を広げ、芝居がかった動作で天に掲げる。
そして呪文を唱える。
奉ずる神はマァト。魔道具の名の元になった、死後の裁きを司るイメージ。
すると宙にかざした手の指先に、それぞれ青緑色の光がともる。
魔道具にこめられるほど鍛錬を重ね、習熟した【沸騰する悪血】。
それを同時に5発分。
その光を目の当たりにして死塚は、女性警官は驚愕と恐怖に目を見開く。
他の警官はもういない。
たいていの魔法は術者から離れた場所にかけようとすると、精度や強度が低下する。
だが脂虫を対象とした【断罪発破】やその亜種は、そんな制約に当てはまらない。
もちろん【沸騰する悪血】も【煮える悪血】も同じだ。
身体にためこまれたニコチンが、自身を対象とした害意ある魔法を引き寄せるから。
にもかかわらず、楓は【沸騰する悪血】を手元に生み出して放つ。
対象に恐怖を与えるためだ。
そもそも魔道具にこめられるのは術者が習熟した術だけだ。
通常の武器や銃と異なり、魔道具を創れる職人は作品そのものより強力で危険だ。
「おい貴様! 私を守れ!!」
「ひっ!?」
死塚が女性警官の背にしがみつく。
他の警官たちがひとり残らず――否、1匹残らず汚物になって飛び散ったからだ。
同僚の末路に腰を抜かした女性警官は動けない。
楓は気にせず、魔弾と化した魔法を放つ。
5条の青緑色の光線が、盾にされた女性警官に突き刺さる。
「キャアアァァァァァァァァァァァァ!!」
女性警官が断末魔のような悲鳴をあげて――
「――なぜ!? ワ……タ……シ……ガ……!!」
その背後に隠れた下種の身体が膨らむ。
卑しく醜い上級市民を内側から嬲るように、その身体は3倍ほどの大きさに広がり、
「キャアアァァ! キャアアァァァァ! キャアアァァァァァァァァァァ……えっ?」
戸惑う女性警官の背後で爆ぜた。
その側に、ごろりと何かが転がる。
頭だ。
苦痛と恐怖と驚愕に目を見開いた、死塚不幸三の首だ。
盾にされた女性警官は汚物まみれのまま、へたりこむ。
だが怪我ひとつない。
そんな彼女の頭上から、
「ふふっ、貴女は煙草をお吸いにならないのですね」
いつの間にか歩み寄っていた楓がにこやかに語りかける。
なぜなら【沸騰する悪血】は体内に蓄積したニコチンに反応して発動する。
喫煙などしない普通の人間は、どれほど撃ちこまれても影響はない。
あまつさえ、そこには何もないかのように通過する。だから、
「お勤めご苦労様です」
楓は笑顔で女性警官に会釈する。
そして側に転がる死塚不幸三の頭を踏みつぶす。
程よく茹であがった脂虫の老人の頭は、楓の力でも容易に踏み砕けた。
次いで楓は献花台の額縁に向き直り、うやうやしく一礼する。
我が舞台で少しでも溜飲を下げていだけたかと問うように。
その様子は、明日香の執事である夜壁が作品を披露する様に似ていた。
そして楓は晴れ晴れとした笑顔のまま、砂嵐の中へと消えた。
ヤニ色の汚物溜りに、どこからともなく無数の虫がたかり始めた。
楓が置き残した清掃用の魔神だ。
本来はアーマーンと呼ばれるワニの形をした攻撃用の魔神。
だが余人に被害を与えぬよう超小型に大量に創ったら虫のような外見になった。
それでもコントロールができていれば、野菜くずや生ごみを分解することができる。
いつの間にか砂嵐は消えていた。
楓はいなかった。
後には清掃途中の汚物溜りの中にへたりこむ女性警官だけが遺された。
悲鳴と嵐の音が止んだ大通りには、軽快なポップスだけが流れ続けていた。




