幸せな世界の裏側で
――見なれた通学路も、ファンタジーへの通り道♪
――そっと手をのばしてみたら、貴女の隣に、仲間はいるよ♪
閉店間際の『太賢飯店』。
人気のない店内には、珍しくBGMが流れている。
曲目は、双葉あずさの『HAPPY HAPPY FAIRY DAY』。
少し早い閉店の準備をしようとしていた矢先に、ドアがガラリと開いた。
「そろそろ店じまいをしようとしていたアルが……」
そう言った張の口元には、だが笑顔。
――ステッキ持った貴女の隣、玩具のピストル握りしめ、一緒に歩きだすよ♪
――手ごわい敵も、難解なナゾも、いっぱいあるけれど♪
――貴女がそばに、いてくれたなら、何だってできるはず♪
カウンターの隅の席に、フィクサーが慣れた様子で座る。
その後ろには筋骨隆々としたグルゴーガン。
側には無数の螺子で局部だけを隠した半裸のプロートニクが浮かぶ。
化粧と愛嬌でいろいろ隠した、小柄で巨乳なミストレスが笑う。
さらに隣に、黒ストッキング一丁のチャムエルが立つ。
昼間は守る者と守られる者が共に語らった、この場所。
そこで今は、かつての猛者たちがリーダーの元に集っていた。
「チャムエルまでそういう格好をし始めたアルね……」
そう言って張は苦笑する。
フィクサーも冷静を装ってはいるものの困惑気味だ。
ここに集った者たちに認識阻害は効かない。
魔道士たちはもとより、魔法や怪異に慣れ過ぎたフィクサーにも効果がない。
だが当のチャムエルは「何かおかしいですか?」みたいな顔で張を見やる。
一同は笑う。
揃って笑うことそのものを、側にいることそのものを楽しむ心からの笑顔。
かつて彼女らが、共に戦った仲間である証。
――勇者様なんていなくったって平気♪
――仲間と手をつないでほら、魔法の呪文を唱えたなら♪
――どんな願いだって、叶うから♪
「本当にありがとうアル。梓のこと、それから千佳ちゃんのことも……」
しんみりと言った張に、
「よせいやい」
「当然のことをしたまでデース」
ゴーガンは照れたように笑って見せる。
プロートニクも螺子を揺らせて笑ってみせる。
「むしろ、礼を言わねばならないのは我々の方だ」
かつてと同じように真面目くさった口調で言ったのはフィクサーだ。
「君は将来有望な若者を数多く育てあげてくれた。梓君もそうだ」
「そして志門舞奈」
チャムエルが言葉を継ぐ。
恰好こそこんなだが、チャムエルは当時から物事の本質を見極める目を持っていた。
「共に戦ってみてわかりました。彼女は人間本来の力と技を極限まで鍛えながら、それでいて魔法の使い手と高い親和性を持つ」
その言葉に一同は――かつて少女だった女性たちは一様にうなずく。
それは即ち、反魔法・反人間の性質を持つ怪異の、真逆の資質を持つということだ。
だから怪異から、怪異が化けた人間から、怪異に操られた人間から、無辜の人々を救ってきた。
「たまたま良い子と巡り合えただけアルよ」
張は言いつつ遠くを見やる。
それから自分を見つめるかつての仲間たちを見やる。
そして最後にフィクサーを見やり、
「けど、いつか君が言った通りかもしれないアルね」
そう言って、笑う。
「これからは、あの子たちに――若い世代に大事なことをたくさん任せていかなければならないアルよ」
その言葉に一同はうなずく。
最強のSランク。
過去に大事なものを失って、だから二度と失うものかと奮起する少女。
幼い彼女にすべてを背負わせるのは大人の責任を放棄することにならないか?
だが、彼女より強く目端の利く大人はいない。
だから大人にできることは、ひとつだ。
それは彼女の――彼女と彼女の仲間を信じ、サポートすること。
己が成すべきことを見つけた大人たちは、誰ともなく笑った。
――おそろしいトラップだって、愉快なアイテムに早変わり♪
――木の実のスイーツ♪
――お花のドレスに♪
――魔法のほうきで夜空を飛ぶよ♪
――未知の世界を、貴女と歩きたい♪
同じ頃、【機関】支部の執務室。
打ちっぱなしコンクリートが物々しい室内のあちこちに猫だるまが鎮座している。
その一角の、立てつけの悪い鉄のドアが呪術によってひとりでに開くと、
「ふふ、猫さんたちは満足されていますか?」
ソォナムがにこやかにあらわれた。
手には以前と同じイワシの大皿。
「ご苦労様なのだ。前回の契約の履行が終わらぬうちに、新たな契約なのだからなあ」
隣にはやや盛りの少ない皿を手にしたニュット。
ソファの端から跳び出たおさげが、2人に答えるように軽く揺れる。
すると部屋のいたるところから小皿が飛来し、大皿のイワシが取り分けられる。
小皿は再び部屋に散る。
すると猫は我先にイワシに群がる。
ソファに腰かける少女の膝からも、1匹のペルシャ猫が跳び下りる。
そして猫が食事をする間、ひと時の休息を得た少女は、
「あの、でも……2人が考えてるより楽だよ」
囁くような小さな声で言った。
「何か裏技でも思いついたのかね?」
いつも小賢しい裏技を考えてばかりのニュットが共犯者を見る目を向ける。だが、
「ううん……その……エリコが手伝ってくれてるから……」
「む? エリコちんが?」
「猫たちが術者以外のグルーミングを受け入れるなんて、珍しいですね」
少女の答えにソォナムは笑顔のまま、ニュットは糸目のまま顔を見合わせた。
そして伊或町の一角にあるアパートの一室。
「えり子のおかげで、今夜はご馳走ね」
「うん」
古びたテーブルに料理を並べ、えり子と母親は向かい合わせに笑う。
昼食会の後、張はこっそり料理を包んで伊或町の面子に持たせたのだ。
「ママも今日は帰ってこられてよかった」
普段は表情の乏しいえり子だが、今日ばかりは満面の笑みを浮かべてみせる。
えり子の母親は、母ひとり子ひとりの家計を女手ひとりで支えている。
そんな彼女の職業は、IT関係の派遣社員だ。
休出も当たり前で、会社に泊まり込むことも少なくない。
それが今日は幸運にも、夕食の時間に間に合うように帰宅することができた。
「えり子もアルバイトお疲れさま」
「えへへ、ありがとう」
ねぎらいの言葉にえり子は照れる。
「辛いことがあったらいつでも言ってね」
「うん」
とは答えたものの、えり子の仕事には守秘義務がある。
そのことは母も本人も知っていた。だが、
「……あ、ママにも言える仕事があった」
「なあに?」
「今日は猫をなでてた」
「猫を? 前にえり子が言っていたルージュちゃんのこと?」
母は思わず首をかしげる。
えり子のアルバイト先は保健所だと聞いている。
母はふと、えり子に父親がいた頃のことを思い出す。
否、働きもせずに酒と煙草に溺れていたあの男を、今は夫だったと思いたくない。
――あの日、あの男は身勝手な理由で激高し、娘を手にかけようとした。
母は思わずえり子をかばった。
もし天に神がいるなら娘だけでもお守りくださいと、祈った。
通常ならそれは、叶えられることのない願いだ。
だが次の瞬間、男は目鼻から火を噴いて倒れた。
男は病院に搬送され、そして二度と戻ってこなかった。
代わりに後日、保健所から見舞金の名目で相当額が支払われた。
そして福沢を名乗る女性の勧めで、えり子は保健所の業務を手伝うことになった。
えり子を守ったのは、運命という名の神なのかも知れない。
だが母を守ったのは神ではない。
母はえり子が、危機に際して正しい答えを選んだことに気づいていない。
アトラスのように手遅れになる前に、えり子は造物魔王の声を聞くことができた。
張のように臆することなく、憎むべき脂虫に致死の呪術を行使することができた。
悪臭と犯罪をまき散らす喫煙者――脂虫が生きる価値のない虫ケラだと、幼いえり子は瞬時に理解した。それまでずっと、父親の皮をかぶった脂虫を見てきたから。
脂虫を1匹殺す度に、大事なものがひとつ守られる。
それが世の道理である。
その結果、得られた生活は裕福なものではなかった。
なにせ女手ひとつで母娘2人の家計を支えているのだ。
だがヤニ臭い下種男と3人で暮らしていたあの頃に比べれば、毎日が平穏だ。
元より彼はギャンブルで浪費するばかりで生活費を稼いでくることはなかったし、今は保健所からえり子へ給金が支払われている。そして……
「ううん、いっぱいの猫。白い子や黒い子や、三毛猫も。……あ、でも今度、ルージュもなでてあげないと。焼きもちを焼いてるかも」
えり子は楽しそうに、物思いにふける母親に語りかける。
保健所のアルバイトを始めてから、えり子は笑うことが多くなった。
母はふと我に返る。
そして娘があまりに楽しそうだったから、釣られるように笑った。
同じ頃、新開発区の一角に建つボロアパート『コーポ LIMBO』。
その半分ほど倒壊した3階の、実質的な屋上で、
「志ぃ門! こんな夜中に、そんな所で寝っ転がってると怪異が来るぞ!」
「怪異がいるなら、あたしが率先して相手しなきゃならんだろう」
瓦礫の上に寝転がっていた舞奈は、管理人の大声に軽口を返す。
口元に笑みが浮かんだのは、その台詞を3年前によく言われていたからだ。
3年前の舞奈はピクシオンに変身していなければ、ただの低学年の子供だった。
だから怪異が出ると聞いて、あわてて部屋に戻ったものだ。
「星を見てたのか!?」
言いつつ管理人は側に座る。
「ああ」
舞奈は答える。
かつて雨の後にかかる虹の向うに、死んでいった仲間たちがいるのだと聞いた。
その言葉が嘘ではないと思えるくらい、いつか見た七色の虹は美しかった。
ならば夜空に輝く星の向うには何があるのだろうか?
そこに何があったなら、自分は納得できるのだろうか?
別に舞奈は詩人じゃないが、そんなことを考えるのは嫌いじゃなかった。
特にそれが、歌を聞いた後の夜ならば。
「なあ志門!」
隣にいるのに大声で、彼は舞奈に問いかける。
「寂しくないか!? こんなところにひとりで住んで!」
その問いに、視界の端に映る彼の膝を無視して星空を眺めたまま口ごもる。
そのまましばし、沈黙が流れる。
ひとり暮らしといったって、少し歩けば旧市街地がある。
それ以前に朝晩には通りに怪異があらわれる。
舞奈のまわりには厄介事がいっぱいで、寂しがる暇なんてない。
それにアパートにはハンチング帽を目深にかぶった彼がいる。
美佳と一樹がいた頃から、三者面談では親の代理として彼が学校に来ていた。
今は舞奈ひとりしかいないあの部屋で、どうにか暮らしてこれたのは彼のおかげだ。
そう思ったのが照れくさくて、
「……星が綺麗なんだ」
ただ、そう言った。
「そりゃ、家も車もないからな!」
管理人は豪快に笑う。
そして、しばらくそのまま2人で星空を見上げながら、
「――百貨店跡の方にフンババが居付いた! 今度いっしょに狩りに行くか!?」
「おっ! 肉か! いいね!」
怒鳴るような彼の言葉に同じテンションで返す。
「【機関】の暇そうな奴らを連れてっていいか? どうせ狩った肉を精査してもらわにゃならんだろう」
「糸目のヤツ意外ならな!」
「何かあったのか?」
「あの女! 狩りの得物にいきなり火の玉をぶつけやがった! 挙句にこう言いやがったんだ!! どうせ食う前に加熱するから一緒なのだ……ってな!!」
「……そっか、あいつも料理しない側の人間か」
怒っているのか単なる大声なのか判断し辛い口調に、舞奈はやれやれと苦笑した。
そんな様々な出来事のあった翌日。
初等部の、6年生のとあるクラスで、
「アニキ! アニキのロボットと戦う敵ロボットを描いてきたっす!」
「おっ! 見せてみろ!」
授業が終わって早々、取り巻きたちがリーダーの席に集まってくる。
そのうちのひとりが開いて見せつけたそれを見やり、
「な……!?」
「こ、これは……」
リーダーを含む少年たちは度肝を抜かれた。
「なんて……なんて奇抜なデザインなんだ……!?」
「これはロボットなのか……?」
恐れおののく取り巻きたちを抑えるように、
「この……機体? ……こいつはなんで、こんなに丸みを帯びているんだ!?」
リーダーは険しい口調で詰問する。
「避弾経始っす! 絶妙な角度で砲弾を弾くっす!」
作品を品評された少年は、やや興奮した面持ちで答える。
「そうか……それは強敵だな……。そ、それなら、この2つの膨らみは何だ!」
「プロペラントタンクっす! 燃料が入ってるっす!」
「じゃあ、この先っぽについてる……その……ぽちっとしたのは何だ!」
「注入口っす! そこから燃料を入れるっす!」
「そうか……入れるのか……」
言いつつリーダーはノートを凝視する。
取り巻きたちもノートを見やる。
ゴクリ、と誰かがつばを飲む。
「タンクがついてるなら……ロボットだな」
「燃料を入れるなら……ロボットですよね」
「避弾経始なら……納得できますよね」
口々に評価しながら、少年たちは食い入るようにノートを見つめる。
そこに描かれていたのは、絶妙な曲線のラインも艶めかしい女性型ロボットだった。
胸部の豊満なプロペラントタンクには、絶妙な位置と大きさの注入口。
すっきりしたフォルムの頭部にマウントされた、眼鏡を模したパーツ。
機体色は白いが足だけは黒い。まるでストッキングを履いているように。
それはあまりにも、高等魔術師チャムエルに似ていた。
彼女は【大天使の虐殺戦闘機械】の魔術を行使する際、あの日、少年が描いていたタイヤ型ロボットから発想を得た。
だが少年も、チャムエルの半裸からインスピレーションを得ていた。
深淵を見つめる者は深淵に見られているという。
同様に、アートを参考にしたチャムエルも、アートの参考にされていたのだ。
「お、今日も励んでおるな!」
リーダーの後から、いつもと同じように鷹乃が覗きこんできた。
だが彼らは鷹乃を見やり「きゃー!!」とも「ひゃー!!」とも聞こえる悲鳴をあげた。
それが女子には絶対に見られてはいけないもののような気がしたからだ。
それでも鷹乃はノートを覗きこみ、その反応の意味を理解した途端、
「こーら鷹乃っち!」
「鷹乃ちゃんってば、また固いものに夢中になってる!」
梓と美帆がやってきた。
今度は鷹乃が「きゃー!!」とも「ひゃー!!」とも聞こえる悲鳴をあげた。
……そうやって皆が日常を謳歌する平和な日々の中、とある土曜の午後。
支部の地下にある実験室で、
「……不覚。思ったほど面白おかしくないのだよ」
「まあこんなものですか、という感じですね」
「本来の目的は新素材のテストでしょ? おまけに過剰な期待はしてなかったわ」
ニュットに楓、小夜子が退屈そうに感想を述べる。
彼女らの前には、人がすっぽり入れるほどの透明なケース。
その中で、くわえ煙草の脂虫がもだえ苦しんでいた。
首が見えないほど醜く肥えた、老人の脂虫だ。
脂虫の額には傷があるが、回術士の【熱い血】で適当に焼き塞がれている。
無論、雑な治療でも活動できる耐久力のアピールではない。
脂虫――臭くて邪悪な喫煙者を長期間生存させるつもりがないからだ。
脂虫の側には、ルーンが刻まれ燃え上がる金属片が据え置かれている。
ニュットが【火球】の魔術を応用して創った魔法のたき火だ。
炎と熱に炙られた脂虫が、ケースを割って外に出ようと暴れる。
3人は、そんな脂虫をつまらなそうに眺めていた。
「この板厚で音を通さず、熱も通さずという素材の性質そのものは興味深いですね」
「叫んでるみたいなのに声も聞こえないわね」
「まあ、そちらは何よりなのだよ」
手元のパンフレットを見ながら楓が語り、ケースを見ながら小夜子がこぼす。
今日は新素材の耐久テストをしているのだ。
ケースにして中に脂虫を入れたのは、単なるニュットの思いつきだ。
先日、ヤニ狩りに行った異能力者たちが、脂虫を手足がついたまま持ってきた。
なので脂虫を炎上するルーンと一緒のケースに入れ、耐熱性能と、凶暴な脂虫が熱せられて暴れることに対する耐衝撃性能を確かめることにしたのだ。
もちろん相手が人間なら、如何な理由があっても許されない残虐行為だ。
だが煙草の悪臭と犯罪を振りまく脂虫は殺されるために存在する害虫だ。
それが死に際に人の役に立てるのだから、むしろ慈悲と言えるだろう。
楓と小夜子は、万が一に脂虫が逃げた場合に備えた護衛の名目でここにいる。
だが実際は、脂虫が苦しみながら死んでいく様を見物しているだけだ。
脂虫に恋人を殺された小夜子。
弟を殺された楓。
2人は脂虫への憎悪を忘れてはいない。
忘れられるはずもない。
もちろん今では憎しみのまま無差別に脂虫を殺しまくるようなことは控えている。
だが、脂虫の死と苦痛が彼女らにとって最高のエンターテインメントである事実は変わらない。
だがニュットはそうした痛みを知らないくせに、楽しそうなところばかりを真似しようとする。だから彼女の酔狂は、いまいち誰も楽しめない。
ニュットは魔術語を唱え、炎の大きさを少し強める。
脂虫の老人は炎から少しでも遠ざかろうとケースの端にへばりつく。
炎の源であるルーンをどうにかしようとは考えもしない。
脂虫は短絡的で、目先の苦痛から逃れることしか考えられないからだ。
もっとも、ルーンを素手で壊すことなどできないし、触っても炎上するだけだが。
気づくと小夜子はケースに向かって何やら話しかけていた。
もちろん、犬畜生以下の知性しか持たない脂虫とコミュニケーションをとろうとしていたわけではない。ガラスに映った煙立つ鏡と対話しているのだ。
暇つぶしの相手がいて羨ましいとニュットは思った。
「そういえば小夜子ちん、例の父子への尋問は順調かね?」
脂虫を見るのに飽きたニュットは小夜子に尋ねる。
彼女にしか見えない別の相手と歓談中だった小夜子だが、
「豚の方は、こちらが把握している以上のことは知らないみたい」
「ふむ」
特に気を悪くする風でもなく答える。
先日の双葉あずさ襲撃の犯人は【機関】が引き取った。
楓の手でひとり生きたまま捕獲された豚男は、【親亜音楽著作権協会】の情報を得るべく諜報部で尋問を受けていた。
「猿の方は、今ちょうど尋問している真っ最中じゃないかしら」
「そかー」
どうでも良さそうに語る小夜子に、ニュットも適当な相槌を打つ。
消滅する間際の肉人壺は、最後の力をふりしぼって父親の猿男を復活させていた。
だが彼は臭くて不潔な喫煙者――脂虫だ。
そして有害で邪悪な脂虫は、何度蘇っても脂虫だ。
なので彼も、尋問によって悪の秘密を探りだし、その後に殺す以外の使い道はない。
だが諜報部の尋問役である小夜子は、息子の豚男を斬り刻むので手いっぱいだ。
だから父親役である猿男の尋問は、明日香の執事である夜壁に委託した。
おそらく数週間かけて解体しながら情報を聞き出すのだろう。
そうやって皆でだらだらしている最中、
「技術担当官、この脂虫をケースの中で切断してみるというのは如何でしょう?」
唐突に楓が言い出した。
「いきなりなのだなあ」
ニュットはしばし考えて、
「……いいのだよ」
あっさり首を縦に振る。
暴れるだけの脂虫を見るのに飽きていたのだ。
「だが中に何か創るならケースの半分くらいまでにしてほしいのだ。魔術で創造する元素は中の空気を押しのけて出てくるから、あんまり大きいとケースが割れるのだ」
「ああ、なるほど。かしこまりました」
言いつつ楓は集中し、コプト語の呪文を唱える。
途端、薄汚い脂虫の胴のまわりに、澄んだ水のロープが出現する。
脂虫は水に締めあげられてもがく。
真水を創造する【創水の言葉】の魔術。ウアブ魔術における水術の源だ。だが、
「切断するのではなかったのだか?」
「え、ええ、そのつもりなんですが……」
楓は困る。
ケースの中の脂虫は締めあげられる苦痛にのたうち回る。
いちおう楓はロープを細く鋭く変化させて切断しようとしてはいるらしい。
「……楓さん、イメージできるうちで一番鋭い刃物って何?」
ふと小夜子が問いかける。
「ナイフですか? ステーキを切る」
答えた楓を見やり、小夜子とニュットはそろって肩をすくめる。
「楓ちんや、魔術の刃の鋭さは術者のイメージに比例するのだよ」
ニュットがあきれた声でそう言って、
「そうだ。創った水を操作させてもらっていい? 妹さんがしてるみたいに」
小夜子が申し出た。
様子から煙立つ鏡に何らかの示唆をされたのだろうとニュットは思った。
「……? いいですよ?」
楓はどういう意味かと首を傾げる。
その目前で、次の瞬間ケースの中の脂虫が上下に分割された。一瞬である。
水を操り切り刻む【裁断する水】の呪術。
媒体である水が常に供給されるとは限らない上に【切断する風】で代用可能なため、小夜子はあまり使っていなかった。
だが、これからはより多くの術を会得し、状況に合わせて使いこなす必要がある。
先日の戦闘で、小夜子はそれを痛感した。
水の刃は空気より強く、爆発より持続性がある。
加えて水道が完備された街中や建物内では、贄により大魔法化することによって場所そのものに致命的な効果を及ぼすことすら可能だ。そして、
「なるほど、この感触ですか」
楓もまた何かに気づいていた。
自身の魔術を通じて小夜子の呪術に触れ、鋭い刃のイメージだけでなく、対象を切断し破壊しようという強い意志を感じ取ったのだ。
妹の紅葉は、あくまで他者を傷つけぬよう戦うスポーツマンである。
だが小夜子は敵を痛めつけ、しかる後に抹殺する残虐行為のプロフェッショナルだ。
そんな彼女らが見やる先で、生きたまま切断された脂虫が苦痛と恐怖に目を見開く。
だが彼女らは脂虫の――生きる価値のない喫煙者の死に心動かされることはない。
楓が水の魔術を解除すると、臭い脂虫を切断した聖水は消える。
そして次の瞬間、脂虫の切断面が焼き潰された。
「水が消えた瞬間に周囲の空気を火に変えて傷口を焼いたのだな。流石なのだよ」
「使い終わった脂虫を、たしか裏の花壇の肥しにしてるはずよね? ハットリさんあたりに頼んで上半身に下半身の解体を命じられないかと思って」
「おお、それは面白そうなのだよ」
小夜子の案に、ニュットは糸目を細めて笑う。
「……花が臭くなりそうですね」
顔をしかめる楓に、
「楓ちんや、普通の花の肥料が何でできてるのか知っとるかね?」
言ってニュットは苦笑する。そして、
「あそこに咲いてるのは新開発区から拝借した魔法の百合なのだよ。他所では土が合わんのだが、怪異の死骸を埋めると育つのだ。おそらく魔力を吸収するのだろうなあ」
そう言って、珍しく裏のない笑みを浮かべてみせる。
小夜子も満更でもない様子で微笑む。
そんな2人を見やって、楓も笑う。
悪臭と犯罪をまき散らす喫煙者――脂虫はいわば人間の粗悪品、糞のような存在だ。
だが、そんな糞を肥やしにして美しく咲く花もある。
その橋渡しとして自分たちのような殺戮者が必要だと思うのは、悪い気分ではない。
そんな風に3人が花を想っていると、
「――デスメーカー。ここにいたのか」
地上の施設同様に立てつけの悪い鉄のドアが開き、フィクサーがあらわれた。
「どうしたんですか?」
「少しばかり厄介な状況が発生した」
訝しむ小夜子に、フィクサーはサングラスで表情の見えない顔を向ける。
そして無言で先をうながす小夜子に、
「実は、君の業務が【組合】で問題視されているのだ」
普段通りの冷たい声色で、言った。