誘拐
そして放課後。
着替えを詰めたバッグを提げた舞奈が小奇麗な讃原町を歩いていると、
「よっ、遅いじゃないか」
明日香の背中を見つけた。
「今日はちょっと、いろいろ準備してたから」
言いつつ眼鏡は、手にしたトートバックに目を向ける。
つられて見やると、金属製の骸骨が付けられた黒いものが入っていた。
泥人間との一件でも着ていた戦闘クロークである。
「相手はただのストーカーだぞ。ミンチにする気か?」
「必要とあらば、ね」
明日香は不穏な笑みを浮かべる。
「とんでもない奴だな」
肩をすくめて呆れる。
「あの角を曲がった隣だっけな」
そのうちに、ガラス張りの植物園が見えてきた。
その時、絹を裂くような悲鳴が鳴り響いた。
「なんだ!?」
舞奈は走り出す。
明日香も続く。
植物園の横を走るうちに、悪い予感が脳裏をよぎる。
角を曲がる。
「チャビー!?」
白いレンガの家の開け放たれたドアの前に小柄な少女が倒れていた。
その向こうに、走り去る人影が2つ。
昨日の薄汚い紺色の背広。
その前を走る妙な形の学ランの男。
彼の腕にぐったりと抱えられているのは、
「真神さん!?」
「チャビーを頼む!」
驚く明日香に背で言い捨て、舞奈は走る。
「この野郎! 待ちやがれ!」
2人の男は追いすがる舞奈を見やり、足を速める。
舞奈は脚力にも自信がある。
とはいえ、男たちとの間にはかなりの距離がある。
バッグの中の拳銃に意識を向ける。
だがすぐに、ここが住宅街であることを思い出す。
その時、曲がり角から黒いセダンが飛び出した。
「……野郎!!」
舌打ちする。
逃走用に車を用意していたらしい。
後部座席のドアが開く。
学ランの男は園香の身体を座席に押しこみ、自身も乗りこむ。
背広の男も続こうとする。
その背中に、舞奈の頬をかすめた光線が当たった。
驚く背広の全身を氷の蔓が縛め、地面に縫い止める。
対象の動きを封じる【氷棺・弐式】の魔術。
明日香にしては意外な思いきりだ。
怪現象に、背広はパニックに陥る。
後部座席の学ランが目を見開く。
セダンの運転席に乗った金髪の女が、軽く驚く。
舞奈は女を訝しむ。
驚いてはいるが、未知を目にした表情ではない。
「あ、待ちやがれ!」
セダンは背広の男を見捨てて走り出した。
舞奈は追いすがろうとするが、車にかなうわけがない。
代わりに見捨てられた男に向き直り、胸ぐらを掴む。
「園香を何処へやった!?」
だが、走り去る車を見届けた下卑た男は、舞奈にヤニ臭い息を吐きかけながら、
「な、なんのことだ?」
「おまえの仲間がさらった女の子を、何処に連れてったかって聞いてるんだ!」
「さ、さらってなどいない……」
「なんだと!?」
「ど、どこにそんな証拠があるというのだね?」
捕まった場合に備え、あらかじめ言い逃れの文句を決めていたのだろう。
男はいやらしい笑みを浮かべる。
次の瞬間、男はブロック塀に叩きつけられた。
「ぼ、暴力は止めたまえ! 警察を呼ぶぞ!」
「いい面の皮だな、おっさん」
舞奈は静かな怒りを湛えて男を見やる。
数刻前に園香が見せた笑みが、脳裏をよぎる。
大人しげな友人の微笑が、美佳の優しげな面持ちへと変わる。
そして、ひび割れたオレンジ色のブレスレット。
ずっと側にいた少女がいなくなる。
ずっと隣にあった暖かいものが失われる。
舞奈はそれを、最も恐れていた。
萌木美佳。
果心一樹。
ずっと一緒にいようと仲間とした約束を、舞奈は果たせなかった。
その頃はまだ舞奈は最強じゃなかったからだ。
だから美佳と一樹と暮らしたアパートの一室で、舞奈は身体と技を鍛え続けた。
側の少女を、二度と失わないように。
なのに指の隙間からこぼれ落ちるように、園香はいなくなった。
まるで、あの日の喪失を再現するかのように。
「――呼べよ。拷問と――殺しの現行犯でな」
感情の消えた冷淡な口調で言い放つ。
手始めとばかりにピンとのばした指先を下衆の眼球めがけて振り下ろす。
その刹那、後ろから腕をつかまれた。
「今、頭に血が上ってるっていう自覚はある?」
鈴の音のような冷ややかな声。
明日香だ。
「こっちは代わるわ。日比野さんをお願い」
「……すまない」
明日香は小声で真言を唱え、斥力場の魔術で男を路地裏に引きずって行く。
「マイ! マイ!!」
舞奈が真神邸の前に戻ると、小柄な少女が駆け寄り、しがみついた。
「晩御飯に使う卵が足りなくて、スーパーが閉まっちゃうから早く買いに行かなきゃって、そうしたら……」
「大丈夫だ、チャビー」
泣きじゃくるチャビーの頭に、やさしく手をやる。
「ゾマの家が開いてるだろ? 電話借りて警察に連絡しろ」
かつての仲間を真似るように、落ち着いた静かな口調で指示を出す。
チャビーを安心させるように。
自分を安心させるように。
「う、うん!」
チャビーが白いレンガの家に駆けこむのを見届ける。
そして携帯を取り出してコールする。
『どうしたのよ?』
ネットでも見て暇を潰していたか、1コールで電話に出てくれた。
「すまないテック。車を探して欲しい」
『またトラブル? どんな車?』
「白のセダンだ。ちょっと前に讃原の、ゾマの家の近くにいた」
『親御さん? 出かけてるって聞いたけど』
「そうじゃない。……あいつが誘拐された」
『……1分待って』
素早く、と言うより焦りを感じる速さのタイピング音を聞きながら、舞奈は落ち着かなげに車の去った方向を見やる。
テックがすぐに動いてくれたのは幸いだ。
それでも、スーパーハッカーが目標を見つけ出す僅かな時間が無限の牢獄のように感じられる。
100年の如き60秒の後。
『特定した。新開発区に向かってるみたい。道筋をそっちの携帯に転送したわ』
「さんきゅ。追跡できるか?」
『ゾマ、携帯持ってる?』
「置き忘れてなきゃな」
『了解。できる限りやってみるけど、新開発区に入ってからは期待しないで』
テックの抑揚のない声が告げる。
舞奈は小さく舌打ちする。
GPSの位置情報を調べるつもりらしいが、新開発区に生きてる基地局はない。
それどころか壊れて毒電波でも放っているのか、あの呪われた廃墟の街では無線すら役に立たない。
その時、中年男の甲高い悲鳴が響き渡った。
聞きこみ調査は順調にいっているらしい。
明日香は刃物の扱いもちょっとしたものだ。
カミソリのような薄いナイフを巧みに操り犠牲者に望む歌を歌わせる『尋問』の手管は舞奈も息を飲むほどだ。
「……明日香の奴、街中で殺るつもりじゃないだろうな?」
口元に笑みを浮かべる。
そうするだけの心の余裕を取り戻していた。
男の絶叫は長く、短く、何かのメロディーのように何度も響く。
やがて、長く長くのびる断末魔を最後に声は途切れた。
「彼の上役は、彼がおしゃべりだって知ってみたいね」
路地裏から明日香があらわれた。
何食わぬ顔で、レース飾りのついた絹のハンカチで細く薄い何かを拭き取る。
「仲間の居場所について彼が知ってたのは、出巣黒須市の事務所ビル跡にアジトがあるってことと、アジトを見分ける目印のことだけよ」
「テックが逃げた車を追跡してる。近くまでなら行けるはずだ」
舞奈はセダンが去った路地を睨みつける。
「急ぐぞ。まだパーティーには間に合いそうだ」
口元に、鮫のような笑みを浮かべた。