コンサート前夜
朝の伊或町の、とある通りで、
「……!?」
登校途中に漂ってきた悪臭に、えり子は何気なく見やって驚愕した。
道路をはさんだ向かいに建つ、造りは新しいのに薄汚れた小さな家。
玄関先に駐められた、不格好な乗用車。
その陰で、禿げあがった猿のような脂虫が煙草をふかしていた。
こちらに気づいた脂虫が睨んできたので、あわてて目をそらす。
邪悪で凶暴な脂虫に、襲われでもしたら大変だからだ。
だが、この家の脂虫は先日にデスメーカーと一緒に狩ったはず。
なのに何故?
えり子が困惑していると、
「具合でも悪いのですか?」
声をかけられた。
見やると、三つ編み眼鏡でおでこの広い5年生がいた。
「ううん、そういうわけじゃ……」
「ならいいのです」
おずおずとえり子が答えると、上級生はひとまず安心する。
えり子たちが通う蔵乃巣学園には、心優しい先輩がたくさんいる。
例えば、ルージュといつでも会えるようになった遠因であるチャビーのように。
そして彼女だけが例外ではない。
皆、当然のように他者をいたわれる善良な人物だ。
そんなことを考えて、微笑む。
だが上級生は、
「でも、それならこんなところにいつまでもいるのは良くないです」
そう言って、件の家を指さした。
えり子は思わず首をかしげ、家ではなく眼鏡を見やる。
2つ年上の先輩は、自分よりちょっと背が高い。
「あの家は悪魔の家なのです」
「悪魔の家?」
「そうなのです。友達のお姉さんから聞いたのですが、ずっと昔から、この家には悪魔が住んでいたらしいのです」
「昔……?」
「建て替わる前から住んでいたのです」
上級生の説明に、どうにか納得してうなずく。
「ここに住んでいた悪魔は、犬や猫を捕まえて食べてしまうのだそうです。子供もさらって食べてしまうのだそうです」
「うん……」
その言葉にも納得する。
この家には、たしかに悪魔が住んでいる。
悪臭と犯罪をまき散らし、人に似て人ではない怪異。
すなわち脂虫。
美しいものや正しいものを嫌う、醜く汚れた存在。
えり子の善良な隣人たちとは真逆の、敵意と他虐性に満ちた悪しき存在。
か弱く守られるべき彼女たちとは真逆の存在。
そして先日に狩り滅ぼしたはずなのに、再び姿をあらわした悪逆の徒。
誰からも憎まれ死を望まれているにも関わらず、蘇る怪異。
えり子が初めてルージュに会った日、幼い子猫を捕え手にかけようとしていた敵。
それが可能なものの責務として、何としても奴を葬り去らねばならない。永久に。
ルージュを、えり子の愛する人たちを、善良な人たちを守るために。
改めてそう決意した。
「委員長! おはよーなの!」
騒がしい上級生がやって来た。
友人だろうか?
「こんなところでゆっくりしてると、悪魔のおじさんに食べられちゃうのー」
「そうなのです、早く学校に行くのです」
「でも大丈夫! 桜の歌で悪魔をやっつけちゃうのー!」
「歌で何かをやっつけることはできないのですよ?」
「そんなことないの! だって桜はアイドルだもん!」
「意味がわからないです」
そんな歓談をしながら、えり子と上級生たちは急いで登校した。
そんな彼女らを、猿男は煙草をふかしながら値踏みするように睨んでいた。
えり子はその下種な視線に気づいていた。
そして悪魔の家の噂と、脂虫の復活にについて然るべき相手に報告しようと思った。
その後は何事もなく学校に着いた。
えり子も5年生の先輩たちも普通に授業を受けたり、よそ事をしたりした。
そして昼の休憩時間、
「マイちゃん、明日香ちゃん」
舞奈たちが席でだらだらしていると、園香が笑顔でやってきた。
側にはチャビー。
「嬉しそうに、どうしたよ?」
「チャビーちゃんのパパがね、コンサートのチケットを貰ってきてくれたの。4枚あるんだけど、今度の日曜日、一緒にどうかな?」
「双葉あずさの誕生日ライブのチケットなんだよ!」
言われた舞奈は返事に困る。
園香もチャビーも満面の笑みを浮かべている。
だが今度の日曜日の誕生日ライブで、舞奈たちにはあずさを守る仕事がある。
だから2人とライブを見ることはできない。
そういった事情を語らず、さりとて落胆させずに伝えるにはどうすれば……?
舞奈が平静を装って困っていると、
「ごめんなさい。わたしたち、そのチケットはもう持ってるの」
何食わぬ顔で明日香が言った。
「事情があって、会場の警備の視察をしなきゃいけないことになったの。だから一緒には行けないわ。けど会場の別の場所で同じものを見てるから心配しないで」
「……ああ、そういうことだ。なんで代わりにテックでも誘ってやってくれ」
舞奈も尻馬に乗る。
明日香がそういう相手の心情を思いやった言い訳をするなんて、意外だった。
そんな明日香の心意気を汲んだ訳ではないのだろうが、
「明日香ちゃん、お家のお手伝い大変だね」
「でもコンサートの視察なんて、スゴイ!」
園香は気づかわしげに、チャビーは尊敬の眼差しで明日香を見やる。
そういえば以前、夜の学校を訪れる際に警備の視察という方言を使った。
だから今度は本当に視察なのだと思ってくれたようだ。
そんな素直な彼女らも、魔力を使わぬ魔法のようなあずさの歌を楽しみにしている。
舞奈の中で、双葉あずさを守らなければならない理由が、またひとつ増えた。
そして放課後。
舞奈は魔道士たちと共に、九杖邸に集っていた。
週末に行われる誕生日ライブでの、双葉あずさの護衛計画を立てるためだ。
豚男の目的は、双葉あずさを歌えなくすること。
そして敵は何度でも蘇る。
対する舞奈たちの目的は2つ。
ひとつは奴の目論見をくじき、双葉あずさを守ってコンサートを成功させること。
もうひとつは、奴が二度と蘇らないように完全に滅ぼすこと。
今回の事件には【機関】は関与していない。
だから参加してくれるのは、舞奈のために、双葉あずさのために、あるいは自身の想いのために集ってくれた友人たちだ。そんな中、
「支倉さんの警護にはクレアとベティを派遣できるわ。『Joker』から会社のほうに、正式に依頼があったのよ」
言ったのは明日香だ。
双葉あずさは2人いる。
ステージに立つ張梓と、作曲を担当する支倉美穂。
どちらが欠けても、双葉あずさは歌えない。
幸いにもライブハウス『Joker』の女主人は、そのことを理解していた。
だから会場の警備の強化と同様に、支倉美穂の護衛も依頼してきた。
つまり警備を受け持つ【安倍総合警備保障】が仕事すれば美穂の安全は保障される。
「わらわも同行しよう」
「よろしくお願いします」
申し出に、明日香がうなずく。
鷹乃は梓と美帆の友人だ。
舞奈が友人たちを死守したいと願ったように、彼女がそう思うのは当然だ。
「ならば、我等はライブ会場を守る舞奈さんたちのサポートに回りましょう」
不敵な笑みを浮かべて言ったのは楓だ。
その側で紅葉がうなずく。
「ああ、頼む」
舞奈は2人に笑みを返す。
紅葉はチャビーを守るための戦闘で負傷した。
現在は楓の【治癒の言葉】により、式神の代用器官で治療中だ。
だから2人とも【機関】や【組合】のルールに則って戦闘には参加しない。
楓に万一の事態があると代用器官が消え、紅葉の治療にまで支障がでるからだ。
だが楓は低位の魔神であるメジェド神を召喚できる。
空を飛び、レーザー光線で攻撃するメジェドによってサポートを行うことは可能だ。
今回はライブハウスという人の多い場所での襲撃に備えなければならない。
人手は多ければ多いほどいい。
また、どうやら楓は修練の末、結界創造の魔術を会得したらしい。
そういった点でも、彼女たちの協力は願ってもない。そして、
「……その間に、わたしとサチで肉人壺を破壊する」
力強く言ったのは小夜子だ。
側でサチも頷く。
「【機関】から特例として重火器の使用許可を貰ったわ。今度こそ、カタをつける」
小夜子は凄みのある笑顔を浮かべる。
彼女は以前にえり子と共に、例の家の脂虫を狩っている。
その経験を活かし、今度は屋内にあるはずの肉人壺を捜索し、破壊するのだ。
それは敵の本性を見抜けなかった小夜子のリターンマッチでもある。
「結界はわたしが張ることになりました」
奈良坂がエヘヘと笑う。
「治療中の所スマン。よろしく頼む」
「はぁい」
舞奈の言葉に、奈良坂は気をよくしてにへらと笑う。
奈良坂もまた、チャビーを取り戻すための戦いで負傷した。
今はハニエル山崎の【治癒の言葉】による治療中だ。
にもかかわらず、せめて結界くらいはと今回の護衛に参加してくれたのだ。
彼女らは、皆、あずさを怪異どもの魔の手から守るために志願してくれた。
そんな彼女たちの想いに答えるためにも、双葉あずさを守り抜かなければならない。
舞奈は改めて、心に決めた。
同じ頃、公園のベンチで、
「……アニキの戦車ロボに戦いを挑む敵ロボのデザインが完成した」
6年生の少年が、満足げにひとりごちる。
手にしたノートに描かれているのは、巨大なタイヤの形をしたロボットだ。
双葉あずさを巡る騒動に無縁な小6の彼は、まったくもって呑気であった。
サッカーは面子が集まらないとできないが、ロボットの絵はひとりでも描ける。
だから彼は放課後、たまにこうして空想の鋼鉄の獣を公園でノートに描き出す。
その生みの苦しみを成し終えた今、彼は達成感に打ち震えていた。そんなとき、
「――奇抜なデザインですね。それはどうやって敵と戦うのですか?」
妙齢の女性の声。
ベンチの隣に誰かが座った。
ほのかに甘い香水が香る。
女性に慣れぬ小6の彼は、どぎまぎしながらノートを凝視しつつ、
「こっ、このタイヤの内側には、鋭い槍がびっしり生えるんだ」
自慢のロボットの性能を披露する。
「そんで、空を飛んで、まん中にアニキのロボットを捉えて槍で串刺しにするんだ」
「ほう」
「でさ! 槍に電撃を流して苦しめるんだ!」
「それは中々に恐ろしい攻撃ですね」
「だろ!」
少年は生き生きと語り、
「……でも、戦車ロボットの硬い装甲には歯が立たなくて、負けちゃうんだ」
ちょっと寂しそうに締める。
リーダーを立てて散り際まで考えるのは、取り巻きの鏡と言うべきか。
「なるほど。貴方は自身の勝利に囚われず、エンターテインメントの何たるかを表現しようというのですね。素晴らしい」
女は楽しげに笑う。
「……ですが、その攻撃は装甲に守られていない敵に対して無類の強さを誇りますね」
「うん!」
女の言葉に力強くうなずき、彼は意を決して側を見やる。
母親以外の大人の女を、正面から見るのは照れくさかった。
それが普通なのだ。
小5の女子のくせに女と見れば乳尻を触りまくる志門舞奈が特殊なのだ。
けど、彼の想像を理解してくれた彼女と、正面から向き合わないのは失礼と思った。
そう思って女を見やる。だが――
「――!?」
声色から受けた印象通りに知的な顔立ちの彼女は眼鏡をかけている。
一方、美しいラインを描く白い足は黒いストッキングに覆われていて、その上は――
高等魔術師チャムエルはささやかなアートの気配を感じ、アーティストの卵をを鼓舞し、必要とあらば技術的な指南をしようと公園を徘徊していたのだ。
そして彼と出会い、彼のデザインを目の当たりにした。
――そして純粋な小6の彼は、高等魔術師チャムエルの認識阻害を見破っていた。
そして翌日。
舞奈は『画廊・ケリー』を訪れていた。
ネオンの看板は、相変わらず『ケ』の横線が点滅して消えかけている。
「あ~ら、志門ちゃん」
「しもんだ!」
「ようスミス! リコも元気か?」
ハゲマッチョの店主と、バードテールの幼女に声をかける。
「はだかんぼうは、きょうはいないのか?」
「……いつもいつも来られてたまるか」
店の外に期待しつつも警戒するリコに、舞奈はやれやれと苦笑する。
「それより、予備の改造が終わったわよ」
「いつもスマン」
スミスの言葉に笑みを浮かべる。
ハゲマッチョは店の奥から持ってきた一丁の拳銃を、舞奈に手渡す。
「前のよりちょっとだけ重いな」
「あら、良く気づいたわね」
何気に言った舞奈のセリフに、巨漢のスミスは相好を崩し、
「撃針とリコイルスプリングを、強装弾対応の特注品と交換したの」
満面の笑みで説明する。
舞奈は銃の握り具合を確かめながら、無言で先をうながす。
「これで大口径強化弾を撃てるし、この前みたいな――」
「――ああ、銃弾に付与魔法をかけた」
「なるほど。弾頭に魔力を付与すると、発射薬が活性化されて威力が上がるわ。普通ならそれは良いことなんだけど、威力が強すぎて薬室が耐えられなくなる欠点もあるの」
「なるほど、それでか」
舞奈は納得する。
「けど、こっちの銃なら大丈夫よ。試しに大口径強化弾を撃ってみる?」
「ああ、そうさせてもらうよ」
スミスの申し出にそう答え、リコを連れて店の裏に移動した。
そして、銃声。
「おー!」
「こいつはすごい」
硝煙漂う改造拳銃を手にして舞奈は笑う。
その後ろでスミスと、スミスの脚の横から顔を出したリコも笑う。
1発撃つと、ドラム缶には拳銃というよりライフルで撃ったような大穴が開いた。
数発でドラム缶の上側が吹き飛んだ。
「へへっ、こいつがあれば百人力だ」
「けど気をつけてね。それはあくまで改造品だし、強装弾が薬室に負荷をかけることには変わりないわ。正規品ほど耐久性はないってことを忘れないでね」
「わかってるって」
スミスの警告に、それでも笑う。
そんなことは百も承知だ。
舞奈の得物は、変わらず使い慣れた今の拳銃だ。
それでもスミスが設えてくれた新たな力、銃を撃つことしかできない舞奈が明日香の魔法を借りられる手段は、舞奈の新たな切り札になるだろう。
そう思いながら、鉄色に輝く改造拳銃を見やった。
その夜、舞奈は自室で踊っていた。
ステージは天井と壁と床しかない殺風景な自室。
引き締まった肢体を飾るはキュロットにブラウス、その上に掛けられたショルダーホルスター。そして両手にそれぞれ拳銃と、改造拳銃。
銃を握った両腕を両翼の如く左右にピンと伸ばす。
次の瞬間、両腕を交差させる。
両手の銃を前に向けて構える。
研ぎ澄まされた動作は銃の撃鉄の様に鋭い。
ポーズは鋳抜かれた鉄のように正確で力強い。
少女の肌には玉の汗が浮かんでいる。
だが口元にあいまいな笑みすら浮かべた童顔には息の上がった様子はない。
静寂の中に、四肢が風を切る音と筋肉が軋む音、少女がたまに発する「はっ」という鋭い声だけが響き渡る。
そんな舞奈を、タンスの上から額縁が見守る。
収められた写真に写っているのは、舞奈とかつての仲間。
幼い舞奈が守れなかった、2人の仲間。
舞奈は守れなかった者たちを忘れない。
その後悔を、今、守るべき者を、守り抜く力にするために。