日常1
うららかな平日の朝。
だが伊或町の一角に、造りは新しいのに何故か薄汚れた小さな家が建っていた。
周囲には焦げた糞尿のような悪臭が漂う。
玄関先には、これまた薄汚い色の乗用車が歩道にはみ出るように駐められている。
そんな迷惑駐車の窓ガラスが、不意にひび割れた。
投げられた石が当たったのだ。
その途端、
「おっ、俺の車に何しやがる!?」
狂ったような怒声とともに、車の陰からくわえ煙草の脂虫が跳び出した。
先ほどから周囲を汚す悪臭の元凶。
それは木乃伊のようにやせ細った禿頭の団塊男だった。
頭には青筋が浮かび、双眸はヤニ色に濁って血走しり、ヤニのせいか怒りのせいか歪んだ顔は、とても人のそれとは思えない。むしろ発狂した猿のように見える。
否、ある意味でそれは比喩ではない。
悪臭と犯罪をまき散らす喫煙者を【機関】は人ではなく怪異であると定義する。
彼らは身勝手な欲望に負け、人に仇成す脂虫へと自ら成り果てたのだ。
そして過去に他の怪異に利用され、数多の悪を成してきた。
だから今では【機関】は彼らの駆除を奨励している。
執行人が街を巡回し発見した脂虫を片づける業務は、俗にヤニ狩りと呼ばれる。
諜報部にはヤニ狩りのノルマがある。
執行部には業務外での治安維持貢献という名目でボーナスが出る。
死んだ脂虫の人間としての身分は諜報部・法務部が抹消し、行方不明や事故死として穏便に処理される。それが法の網を抜けるように人権を持ってしまった害畜の末路だ。
そして攻撃者は、その事実を知っていた。
セミロングの髪に、不機嫌そうな色白の顔。
如月小夜子。あるいは執行人デスメーカー。脂虫の天敵である。
「ガキ!? 女!? テメェ、どこの学校の生徒だ!?」
猿男は威圧するように怒鳴りつける。
小夜子が小柄な少女だからだ。
自分より弱そうな相手にとことん強気に振舞うのは、卑劣で邪悪な脂虫の特性だ。
だが小夜子は襲い来る怪異を見やって不敵に笑う。
その周囲の空気がゆらぎ、いくつかの小石が浮かび上がる。
周囲の空気を操る呪術【蠢く風】。
「お、女のクセに! ガキのクセに俺の! 俺の車に何したかわかってるのか!?」
人型の怪異は狂ったように叫ぶ。
「おいテメェ、聞いてるのか!? 二度と学校に行けなくしてやるぞ!! 俺はなぁ――」
「――貫き砕け、山の心臓」
小夜子は神々に呼びかける。
「ぐぁ!?」
猿男は地を転がる。
小石のひとつが亜音速で飛び、太ももを撃ち抜いたのだ。
大地の一部を小さな弾丸にして放つナワリ呪術【砕く石】。
桂木紅葉が多用する初歩のウアブ呪術【地の矢】と同等の効果を持つ。
だが元スポーツマンで戦闘経験も浅い紅葉とは違い、小夜子は生粋の魔法戦士だ。
邪悪な脂虫を狩る業務を天命と心得、無常の喜びとしている。
しかも日常的に拳銃を使う。
だから小夜子の小石は、撃ち出される直前に弾頭のように小さく削れる。
そして弾丸のような勢いで飛ぶ。
手に慣れた銃のイメージが、術に力とスピードを付与するのだ。
とは言うものの、その威力は小口径弾程度。
自前の銃を撃った方が強いし速い。
そもそも【砕く石】は小石の限界を超えるほどの術ではない。
それでも銃の使用許可の下りない業務外の慈善活動として、屍虫に変異する前の脂虫や、その薄汚い愛車を穿つには十分だ。
小夜子が神に呼びかけるたび、猿男の悲鳴があがる。
邪悪な怪異の四肢に、彼の愛車に穴が開く。
猿男は体液をまき散らしながら、不自由になった四肢を使って逃れようとする。
まるで自分はまだ人間だとでもいうように命乞いをし、泣き叫ぶ。
だが小夜子は薄笑いを浮かべながら魔法的な投石を続ける。
彼はずっと前から人間じゃないのだ。
煙草の悪臭で周囲を汚し、人々を害する邪悪な怪異だ。
そんな脂虫に、小夜子は1年前、幼馴染を殺された。
その喪失から立ち直った今、脂虫を狩るのは小夜子の喜びだ。
「デスメーカー。そろそろ学校に間に合わなくなるから……」
小夜子の側で、幼女がおずおずと声をかける。
その側にはブタのマスコットを象った2体の天使。
こちらは執行人エリコである。
なんでもエリコの母親の誕生日が近いらしい。
だからプレゼントを買うためにボーナスが欲しいというのだ。
人に偽装し人に仇成す怪異を狩れば街は安全に清潔になる。
それによって得た金で、母親にプレゼントするのなら二重の孝行ということになる。
なので小夜子はエリコのヤニ狩りを手伝っているのだ。
山の手苦暮らしのせいでこのあたりの勝手がわからないから、エリコが案内人だ。
この脂虫も彼女が見つけたらしい。
それは良いのだが、小夜子は少しばかり狩りに夢中になってしまったようだ。
「そうね」
言葉少なく同意しつつ、脂虫の側の場所をエリコに譲る。
「それじゃあ加工して袋詰めをお願い。動けないはずだから安心して」
「うん」
エリコはうなずき、やや拙いながらも聖句を唱える。
祓魔師の彼女は、これから粒子ビームの呪術【光の矢】で脂虫の四肢を千切りながら止血し、頭のついた胴体と手足をコンパクトにまとめて袋に詰めるのだ。
そうやって加工された脂虫は脂袋と呼ばれ、生贄として様々な業務に用いられる。
使うのも主に小夜子だが。
そんな作業にとりかかろうと聖句を唱え始める幼女を微笑ましく眺めながら――
『――避ケロ! 奇襲ダ!』
呪術の警告に促されるままエリコを抱いて路地を転がる。
その残像に、大きな何かが覆いかぶさった。
こちらも脂虫だ。
だが1匹目より少し若い。
そしてファンタジー系のゲームで見かけるオークのように、醜く肥え太っている。
「2匹いた!? そんな……」
小夜子に抱かれて立ち上がりながら、エリコが驚愕する。
「ぐへへっ! おまエ、蔵乃巣学園の生徒だナ?」
豚男は顔を上げながら、見た目通りに愚鈍そうな声色で言った。
小夜子も立ち上がろうとして、バランスを崩す。
男に足首をつかまれていたのだ。
身体強化の呪術を使っていない小夜子の身体能力は、普通の女子高生のそれだ。
しかも、
「この握力……例の水素水!?」
それは桂木紅葉や楓と最初に出会った事件の中で使われていた違法薬物。
摂取した者の身体を強化し、まるで屍虫に進行したような状態にする。
そんな麻薬の密売人は一連の事件の際に小夜子が屠り、水素水も密売所も消滅した。
だが一部が【機関】の目を逃れて彼らの手に渡っていたのだろう。
そういえば園芸用品店を模した密売所は、この家と同じ通りにあった気がする。
小夜子は己の迂闊さを呪う。
常時は防御魔法を得手とするサチが一緒なせいか、防御を疎かにしていた。だが、
「逃がさねえゼ。おまエはこれから俺様ガ……ぶぉ!?」
豚男は吹き飛んだ。
側に転がっていた猿男がいきなり豚男にしがみつき、自爆したのだ。
脂虫の身体をガン細胞に変化させて操る【屍鬼の支配】。
そして反応爆発させる【屍鬼の処刑】。
後者は脂袋の活用方法のひとつであるが、もちろん脂虫に使うこともできる。
加えて、エリコが使える中では最も強力な攻撃魔法でもある。
拘束を逃れた小夜子は素早く立ち上がり、
「我が手に宿れ! 左のハチドリ!」
掌を天にかざして叫ぶ。
途端、掌からレーザーの刃がのびる。
豚男は爆発のショックで立ち上がれない。
小夜子は笑う。
陽光の如くレーザーが、ぶくぶくと醜く肥えた豚男の四肢を撫で斬る。
その切れ味は、まるで熱したナイフでバターを切るが如し。
即ち【光の鉤爪】。
新手を片づけた小夜子は薄汚い家を見やる。
豚男が出てきたらしい玄関は開けっ放しだが、そこから新手が出てくる様子はない。
声の警告もない。
だから周囲を見渡しつつも、警戒を緩める。
「……ごめんなさい。2匹いるなんて知らなくて……それに、ヤニ狩りに来たのに脂虫を使っちゃった」
しょげかえるエリコの頭を、小夜子はそっとなでる。
幾度も肩を並べた最強の仕事人が、守るべき相手にそうするように。
「1匹は持って帰れるわ」
四肢を切り落とされてうめく豚男に冷ややかな視線を向けながら、
「それに貴女がいなかったら、ここに脂虫がいること自体がわからなかったもの」
やさしく語る。
小夜子はチャビーと家が近いので、年下との会話には慣れているつもりだ。
だが無邪気ゆえに精神的にタフなチャビーと違い、本当の意味でか弱く守られるべき相手とこうして話す機会はあまりなかった。
けど、そんな相手を、今では普通に労うことができるようになっていた。
「ここの前の道、みんなが学校に行くときに通るから」
エリコははにかむように笑う。
「それに、こいつ、この前、子猫をいじめてた」
言いつつ、団塊男だった消し炭を睨んだ。
小夜子はふと、家の端にある犬小屋に目を止める。
歪で小さく薄汚れていて、忌まわしい不吉な染みがいくつもついている。
しかも車を動かすたびに排気ガスをまともに浴びる位置にある。
そして、犬はいない。
脂虫は訳もなく人間を傷つけようとするのと同じように、苦しめ痛めつけるためだけに動物を飼うことがある。
多くの場合、その犠牲になるのは人間(型のもの)に忠実な犬だ。
目の前の悲惨な犬小屋に繋がれていた哀れな犬が辿った運命は、想像に難くない。
もちろん、それをエリコに話すことなんてできない。
だから小夜子は、いじめられていた猫がどうなったのかをあえて聞かなかった。
そのことが後に初等部でちょっとした事件へと繋がるのだが、それは高等部の小夜子には関係のない話である。
なので、小夜子とエリコも豚男を素早く脂袋に加工し、支部に届けて登校した。
そして昼休み。
初等部5年の、とあるクラスで、
「音楽室におばけがでるんだって」
「わっ、おばけだ」
元気なチャビーの言葉に、園香は口に手を当てて可愛らしく驚いた。
そんな2人を見やって舞奈は笑う。
滓田妖一の件がすべて片付いた後、舞奈たちは平穏な日常を取り戻していた。
チャビーは学校帰りに会っていた男の子のことなんかすっかり忘れ、今度は何処からか与太話を仕入れてきたらしい。
「チャビーちゃん、それはどんなおばけなの?」
「夕方に楽器を返しに行った子が、鳴き声を聞いたんだって。あと、床に給食のパンのかけらが落ちてたんだって」
胡散臭い噂話を嬉々と語るチャビーに、園香は「わわっ」と律義に驚いてみせる。
チャビーと園香は家も近く、だからかいつも仲がいい。
世話好きな園香と子供なチャビーだからという理由もある。
「……おばけが夜な夜な鳴きながら、音楽室で給食のパン食うのか?」
舞奈は面倒くさそうにツッコミをいれる。
机に頬杖をついたまま、だらだらと2人の会話を聞いていたのだ。
正直なところ、大仰に反応する体力が惜しい。
滓田の一件で、舞奈は現金収入を得ていない。
何故なら戦いの対価として【組合】に要求したのは、ただ目前の少女の無事だ。
今回、【機関】はその対価を確実なものにすべく要請により動いただけだから、当然ながら【機関】から【掃除屋】への報酬なんてものはない。
なので舞奈の最近の夕食は、連日モヤシ炒めだ。
ヘマをしてそれすらお釈迦になってないだけマシかもしれない。
そんなしょぼくれた舞奈を尻目に、
「何かの見まちがえじゃないの?」
側にいた明日香が、生真面目な表情で問いかける。
「泥棒だったりしてな」
舞奈はニヤニヤと笑う。
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ」
明日香はキッと睨んでみせる。
彼女の実家は民間警備会社【安倍総合警備保障】。
豊富な実戦経験を持つスタッフによる堅牢な警備がモットーだ。
この学校の警備も任されていて、腕利きの傭兵が警備員として警備にあたっている。
そこに泥棒風情が侵入したとあっては沽券にかかわるとでも思ったのだろう。
そんな明日香の内心を知ってか知らずか、
「それじゃあ、今夜、学校に来て、音楽室のおばけをさがしてみようよ!」
チャビーは無邪気に言ってくれた。
「……子供は夜は、寝る時間だぞ」
舞奈は面倒くさそうに答える。
視界の端、チャビーの背後を、みゃー子が意味もなく転がっていく。
そんな様子をジト目で見やる。
別に舞奈は夜中に学校に忍びこむのがものすごく好きなわけじゃない。
「わたしも別にそこまでは……」
明日香もだ。
名案を一蹴されてチャビーは凹む。
そんな彼女を、舞奈も明日香も放っておけない。
彼女の無邪気さが寂しさの裏返しだと知っているからだ。
今はネコポチがいるとはいえ、兄を失った過去を無にできるわけがない。
少なくとも舞奈自身はそうだ。だから、
「わっ。それならお夜食を作って来るね」
「お! 園香のお菓子が食べれるんなら、つき合うか」
言った園香の尻馬に乗って、わざとらしく声をあげた。
「しょうがないわね」
明日香もやれやれと同意する。
気のせいか、彼女は以前と比べて付き合いが良くなった気がする。
そんな訳で突然の深夜の学校訪問が決まったわけだが、チャビーは唐突に席を立ち、
「テック――」
自席で静かにスマホを見ていたテックのところにとてとて歩いて行って、
「今夜、音楽室でおばけをさがすの。テックも行こうよ」
怪訝そうに顔を上げたテックに、いきなりそんなことを言った。
「……ごめんね、チャビー。今夜はネットゲームの友達と遊ぶ約束をしてるの」
まあ、それが普通の反応だろう。
明日香とは別ベクトルで理性的な彼女は、気分で動かず予定で動く。
「そっかー、残念」
チャビーも断られればあっさり引く。
楽しくしたいのであって、無理強いしたい訳じゃない。
そんなこんなで、舞奈たち4人は夜の学校を訪問することになった。
やれやれ、まあ決まったものは仕方がないか。
舞奈がうーんとのびをすると、
「それじゃあ日比野さん。おばけ探しの準備をするわよ」
チャビーの奇行にあわせたつもりか、明日香までそんなことを言い始めた。
「おばけをさがすのに、準備がいるの?」
「ええ。おばけの噂を、もっとちゃんと聞くのよ。どんなおばけがいるのか予想をたてて、捕まえる準備をするの」
生真面目に語る。
そして眼鏡の位置をくいっと直す。
チャビーの部屋で妙な漫画でも読んだのだろうか?
やれやれあそこにはろくなものがない。
だが、そんな仕草を見やってチャビーは笑う。
純粋にチャビー受けを狙ってパフォーマンスなんて、明日香にしては珍しい。
「そこまでキチンとするこたぁないだろ?」
舞奈は露骨に嫌そうな顔をして見せる。
面倒は夜だけで十分だ。だが、
「いいかげんにやったって時間のムダじゃないの。ほら、わたしたちは6年生に話を聞くわよ。日比野さんと真神さんは下級生をお願い」
「うわっ、ちょっと待て」
明日香に耳を引っぱられて、外に引きずり出されてしまった。
「……わたしも行ってくる。明日香だけじゃ大変だろうし」
テックも仕方なくといった様子で席を立ち、舞奈たちの横に並ぶ。
その足元を、
「ごろごろにゃんご~♪ ごろにゃんご~♪」
みゃー子が転がる。
文言からして猫のつもりだろうか?
まあ、トマトの物まねと区別がつかないのだが。
「……一緒に行くか?」
「にゃんにゃん♪ ごろごろ♪ ごろにゃんご~♪」
転がって行った。
みゃー子はいつだって意味不明だ。
それとは真逆な明日香は転がるみゃー子を「ちょっと、小室さん」と呼び止める。
みゃー子が転がって来た。
明日香と同じく生真面目な委員長が尊敬の眼差しで明日香を見やり、
「ごろにゃん『こ』」
「ごろにゃんこ~♪」
みゃー子は転がって行った。
今度は明日香は満足げに見送る。
委員長は自分の席へ去っていった。
「……それが問題なのかよ」
舞奈もやれやれと肩をすくめ、
「あたしたちの分担は6年生つったっけ。……ま、丁度いいか」
言って廊下を歩きだした。