日常1
天気のいい日曜日の朝。
チャビーの部屋で、
「この部屋にテレビ置いたのは失敗じゃないのか……?」
言って舞奈は苦笑した。
チャビーは部屋の片隅に置かれた小さなテレビに、食い入るように見入っている。
目前のテーブルには算数の教科書と計算ドリルが並んでいが、そちらは放置だ。
対面に座った明日香が肩をすくめる。
舞奈の前に座った園香も苦笑する。
今日はチャビーのための勉強会のはずだった。
けど皆で早起きして日比野邸に集まったにもかかわらず、当人はこのざまだ。
日曜朝には見たいテレビがあるらしい。
仕方なく舞奈もテレビを見やる。
映っているのは子供向けの戦闘ヒロインアニメだ。
派手なドレスの女の子たちが、必殺技で幹部を吹っ飛ばしていた。
その姿がピクシオンに少し似ていたから、舞奈は意識して興味ない風を装う。
するとテレビの中の場面は変わり、おどろおどろしい首領の部屋。
幹部が焦った口調で失態を言い繕う。
ピクシオンに敗れたファイゼルたちエンペラー幹部もこうしていたのだろうか?
そう思うと、ちょっとだけ感慨深い。
子供向けアニメだからからユーモラスな幹部の仕草を見ていると、ひょっとしてファイゼルたちを倒す以外に方法があったかもしれないとも思えてくる。
そしたら今頃は、奴らを含めた皆で笑っていられただろうか? 一樹と美佳と。
そんな無意味な感傷をよそに、テレビの中の首領は玉座にふんぞり返ったまま幹部の話を退屈そうに聞いている。
紫色に輝くビロードのローブの膝で寝ているペットとおぼしき黒猫をなでる。
悪い報告をぞんざいに聞いてていいのか?
他人事ながら舞奈は思う。
仕事人として言わせてもらうなら、この首領は指導者にあまり向いていない。
ひょっとしてエンペラーもこんなだったのだろうか?
だが明日香は猫を見やってニコニコしていた。
何というか最近の明日香は、わかりやすい性格になった気がする。
それとも今まで気がついてなかっただけなのだろうか?
それはともかく画面の向こうの首領は、幹部の釈明が気に入らない様子だ。
膝上の猫が不快げに鳴く。
首領は冷徹な表情で合図する。
画面からにじみ出る不穏な空気に、チャビーと園香が息をのむ。
次の瞬間、幹部の足元の床がパカッと開いた。
幹部は落ちた。
不覚にも舞奈は吹いた。
そう。これは舞奈の過去じゃない。ただのテレビのお芝居だ。
観客はそれを見やって笑えばいい。
「わー落ちちゃったー。あの人どうなるんだろうー?」
園香の隣に移動して、甘えた声でしなだれかかる。
最近は園香との仲も良好で、支部の受付嬢にしてるみたいなことも普通にできる。
「ふふ、マイちゃんったら。大丈夫だよ、テレビだもん」
微笑む園香の豊かな胸に埋まって笑う。
明日香がやれやれと肩をすくめる。
そうこうしているうちにエンディングテーマが流れて番組は終わり、
「さあ、勉強を始めるわよ」
チャビーが名残惜しそうに見ていたテレビを、明日香がリモコンで容赦なく消す。
そしてドリルを手にしてチャビーに迫る。
「ううっ、安倍さんが怖い。……さっきの魔王みたい」
魔王というのは作中での首領の呼び名だ。
「ちょっと日比野さん、わたしは勉強できないからって粛正してないじゃない? こうやって勉強会にもにつき合ってるじゃない」
涙目のチャビーに、明日香は凹んだ顔で抗議する。
「しゅくせい……?」
「……小学生でもわかる言葉を使ってくれ。国語の勉強会じゃないんだ」
首をかしげる園香の隣で、舞奈は言って苦笑する。
「じゃあ算数の勉強をしましょうか」
明日香は嫌がるチャビーの前に無理やりドリルを広げ、
「『4/5-7/15=?』ですって。あら、見た瞬間に答えがわかる問題ね」
「わからないよぉ……」
「……それじゃさっきの魔王と変わらんだろう」
舞奈は肩をすくめる。
知性によって魔力を生み出す魔術師である明日香の学力は高等部レベルだ。
そんな魔王に迫られてチャビーが涙目になっていると、
「みゃー」
部屋の隅のベッドで寝ていたネコポチが、ひと鳴きしながらテーブルに跳び乗った。
「みゃぁ~~」
ドリルの上に前足を乗せる。
一見して勉強の邪魔をしているようだが、
「……さんぶんのいち?」
チャビーは肉球の下の文字を読み上げる。
「まあ正解だけど」
「……猫の気分で回答するなよ」
「えーだってー、あのね、ネコポチは算数が得意なんだよ! 答えがわかるの!」
それは傍から見ると妄言だ。
横で園香が困惑する。だが、
「申し訳ないけど、日比野さん自身のためにならないから」
明日香は子猫に向かって真面目な顔でそう言った。
ネコポチがすまし顔でお座りすると、明日香が持ち上げてテーブルの横にどかす。
「え~ひどい~!」
チャビーは明日香に抗議して、
「……あ! そうだ! おやつを持ってくるね!」
「日比野さん、まだ午前中よ……」
逃げるように出て行ってしまった。
「わたしも行ってくるね」
園香も一緒に出て行った。
チャビーだけじゃお茶を入れられるか不安だからだ。
「ったく、あいつはいつ勉強するんだ?」
言いつつ舞奈は苦笑する。
見やると明日香は首領を真似て、ネコポチを膝に乗せようとしていた。
あんなに嫌がっていたのに、そこは真似をしたいらしい。
だがネコポチは明日香の手を逃れて絨毯の上に降り立つ。
明日香は凹む。だが、
「なぁー」
子猫が持ち上げた前足の先に、黒い光がまたたいた。
かつてマンティコアだったネコポチが会得した、大能力による重力場だ。
「まあ、そっちならそれで」
明日香は笑う。
「あいつら、すぐ戻って来るぞ」
舞奈はちらりと部屋のドアを見やる。
「こっちもすぐに終わるわ」
明日香は普段とは逆に慎重な舞奈に笑みを返す。
そして小声で不動明王の咒を紡いで「情報」と締める。
すると明日香の指先にも黒い光があらわれ、闇色の糸となって猫に向かってのびる。
猫が作った光も同様にのびる。
高等魔術において【壊力波】と呼ばれる重力の魔術に相当する大能力。
手から志向性を持った重力場をのばし、遠くのものを掴んだり引き裂いたりできる。
戦闘魔術における同等の術は【力鎖】と呼ぶらしい。
そんな2本の黒糸は、先端で絡まり合って1本になる。
2つの術が組み合わさってできた糸を使って、ひとりと1匹は互いに引いて遊ぶ。
「にゃぁ~」
猫が身を引くと、重力の糸に引かれて明日香の手が動く。
「ふふっ」
明日香が指をそらすと猫が動く。
重力綱引きである。
「……楽しそうだな」
やれやれと苦笑しながら舞奈は見やる。
豪勢な魔法を使って、呑気なものだ。
魔術師は施術のたびに魔力を創りだす。
その都合、瞬間的な火力は凄まじいが、持続する術を不得手とする。
だが細くて弱い重力波による綱引きは、その特性に真っ向から反する行為だ。
明日香は自身の弱点を、遊びを通じて克服しようとしているのかもしれない。
そう思えば綱引きを眺めるのも悪くない。
対して子猫がどういうつもりで綱引きしているかなど、舞奈は知らない。
あの日から使えるようになったままの大能力が面白いのかもしれない。
まあ、猫が何を意図してるかなんて、思い悩むだけ無駄だ、
そんなことを考えながら観戦しているうちに、チャビーと園香が戻ってきた。
「お、こりゃ豪勢だ」
園香が手にした皿にはクラッカーが並んでいる。
クラッカーにはジャムやチーズが乗っていて、見た目にも鮮やかだ。
「お菓子がなかったから、お台所を借りて簡単なものを作ってきたの」
言いつつ園香は机に皿を置き、ココアの注がれたコップを並べる。
流石は園香。手慣れたものだ。
その間に、チャビーも手慣れた調子でテレビをつける。
もう勉強する気はないらしい。
「ま、あたしは別にいいんだが……」
舞奈も苦笑しながらテレビを見やる。
アニメの時間は終わったらしく、ニュースの特番をやっていた。
どこかの企業グループ内で、利権を巡るいざこざが起きているらしい。
テレビは紛糾する会議の様子を映し出す。
舞奈は【機関】の作戦会議に似ていると思った。
だが映っているのは、制服のような暗い色の背広を着た中年男たちだ。
園香は興味なさそうに、チャビーはがっかりした様子でテレビを見ている。
明日香は何かに気づいたように、ねずみ色の中年男でいっぱいの画面を凝視する。
チャビーがチャンネルを変えると、同じ会議の場面が映った。
同じ特番をしていたらしい。
チャビーは目を丸くして驚いた後、しょんぼりする。
明日香はこちらでも何かを見つけたようだ。
「(知り合いでもいたのか?)」
「(……人違いだと思うわ。それ以外に考えられない)」
その張りつめた様子に、舞奈もテレビを凝視する。
わけのわからない用語であふれかえったテロップの中に『滓田グループ』という文字を見つけ、思わず睨みつける。
1年前のあの事件の引き金となった滓田妖一はもういない。
舞奈たちが、小夜子たちが、息子たちともども滅ぼしたから。
だが奴が束ねていたグループは健在だ。
それが奴が表向きの顔で遺した資産や利権を継ごうとしている。
その事実が気に入らなかった。
奴の忌まわしい苗字を見るのは不快だった。
舞奈は明日香が見ている何者かの姿を探して画面を凝視して――
「――あ」
画面が消えた。
「テレビつまんない。ねえ、安倍さん、お勉強しよう?」
チャビーがリモコンを手にしたまま、憮然とした表情で言った。
「……やる気が出たみたいで何よりだ」
舞奈は明日香と顔を見合わせた。
そして気を散らすものがなくなったせいか、チャビーの勉強もそれなりに進んだ。
昼食をご馳走になってから、勉強会はお開きになった。
舞奈も帰路についた。
守衛に挨拶して、新開発区の廃墟の通りをだらだらと歩く。
そして不意に立ち止まる。
廃墟の通りのど真ん中で、立ち止まるような用事など舞奈にはない。
こんなことが以前にもあった気がしたが、いつだったか忘れた。代わりに、
「出て来いよ。尾行てたんだろ?」
静かに問いかける。
その言葉に答えるように、廃ビルの陰から何かが姿をあらわした。
無論、新開発区で暮らす舞奈にとって、人型怪異の襲撃なんて日常茶飯事だ。
なので今さら驚く理由もない。だが、
「ははは、見つかってしまったよ」
崩れたビル陰から出てきた何者かを見やり、舞奈は思わず目を細めた。
片眼鏡をかけた妙齢の女だ。
男物のトレンチコートを着こんでいる。
舞奈は相手に悟られぬよう、わずかな動きで身構える。
ここは怪異が跋扈する新開発区だ。
普通の女が気楽に出歩ける場所ではない。
「魔神の認識阻害を見破ったと聞いていたけど、その上さらに隠れてても普通に見つかるなあ。流石は志門舞奈だ」
女はにこやかに笑いながら語る。
舞奈の名前を知っていた。認識阻害を見破ったというのは、【機関】支部の射撃場で楓のメジェドを見破った時のことだろうか。
彼女はこちらの事情に詳しいようだ。
だが、こちらは相手のことを何も知らない。
少なくとも【機関】巣黒支部の魔道士ではない。
彼女は相当の使い手だ。
いれば気づかないわけがない。
他県の支部からやってきたのかもしれない。
あるいは民間警備会社【安倍総合警備保障】のお抱えなのかもしれない。
だが舞奈は、彼女が【組合】の関係者だと思った。
この魔道士のための組織のメンバーは魔道士以外の者の前に姿をあらわさぬと聞く。
それでも彼女の浮世離れた雰囲気が、術者と俗世の境界ではなく、完全にあちら側に属する人間のそれのように思えた。
だが、この際そんなことはどうでもよかった。
それ以上に、彼女には重大な……なんというか、ツッコミどころがあった。
「……なんだその恰好は」
動揺を悟られぬよう問いかける。
油断なく……というかジト目で女の足元を見やる。
コートの下から白い素足がのびている。
空気の流れが、コートの下に他の布地がないと告げた。
「コートの下が気になるかい?」
「別に」
舞奈の言葉も聞かず、女はコートの前をガバッと開いた。
全裸だった。
まるでグラビアのような申し分ない裸体である。だが、
「……服を着ろ」
舞奈はジト目で女を見やる。
この状況で裸だけ見せられても、別に嬉しくもなんともない。
この手のものは情緒が大事だ。
彼女にはそれがない。
「君は気に入ってくれると思ったんだが」
女は形だけは残念そうに凹んでみせる。
「あたしのウケをとるために、わざわざンな寒そうな格好をしてきたのか?」
「いや、普段からこうだよ」
にこやかな返事が返ってきた。
なんだか、どっと疲れた。
「……何がしたいんだあんたは」
舞奈は女をぬめつける。
「だいたい、普段からンな恥ずかしい恰好で出歩いてるのか?」
「それなら大丈夫。【消失の衣】の認識阻害によって、意思と洞察力に優れた者以外はわたしのコートの下を認識できないんだ」
女はあくまでにこやかに答える。
「女裸を見て欲情する程度の人間は、望むものが目の前にあってもそれを見ることができない。いや、見てていても気づかないのさ」
「そうかい」
舞奈は自分より背の高い大人の女の顔を見上げ、
「で、あんたの目的は何だ?」
「君と話をしに来たのだから、目的は達成できたよ。ありがとう。楽しかった」
女は舞奈に背を向ける。
「……って、帰るのかよ」
ツッコみながら、ふと舞奈は思いつき、
「この前はありがとう」
その背に向かって呼びかける。
対して女は『何が?』とでも言いたげに振り返る。
だが振り向くまでに、ちょうど表情を取り繕うくらいの間があった。
「ほら、マンティコアと戦う前に、楓さんの術を手伝ってくれたろ?」
「それが我々の仕業だと、どうして思うんだい?」
「あんたたち以外の誰があんなことできるよ?」
その言葉に女は「それもそうだね」と笑う。
そして繕ったものではない満足げな笑みを浮かべ、何も言わずに歩いて行った。
本当に舞奈と少し話しに来ただけらしい。
浮世離れた彼女だが、よく見ると足も少しだけ地面から浮いていた。
瓦礫まみれの新開発区の路地を素足で徘徊できる理由だ。
彼女という人物を構成する何もかもが浮いている気がした。
その背を舞奈は何となく見送る。
彼女は舞奈が初めて会った【組合】の魔道士だった。
「……ったく、何しに来やがったんだ?」
肩をすくめ、再び廃墟の通りを歩き出す。
舞奈は今まで【組合】を、謎めいた存在だと思っていた。
だが構成員に会ってみたら、なおわけがわからなかった……。