靴下の在処
量子と言葉は似ているように思う。
音声は波だ。一音ずつの母音子音の連なり。
文字は粒子だ。一文字ずつのひらがなの組み合わせ。
人間が観測――認識して、それは単語となり、意味となり、やがて文章として成立する。
◇2-B教室にて行われた特別講義
ん、んー。こほん。
ちょっと喉の調子が……ん、はい、では講義を始めます。ほらほら、席について。
……はい、授業開始のお時間ですよ。
えー、量子テレポーテーション、と呼ばれる理論があります。C. H. ベネットらによって提案された量子情報を転送するためのプロトコルである、と説明されてもよく分からないかもしれません。
僕にもよく分かりませんが、とにかくベネットという人物が言い出した不思議な通信手段の一種である、と考えればよいのでしょう。
ん、ベネット?
……こいよベネット! 銃なんか捨ててかかってこい!
おっと、失礼。ベネットと聞くとついこの台詞が思い浮かんでしまうのは僕の悪い癖……。ええ、最後にもう一つだけ、と続けると杉下右京になってしまうわけで、ええと、何の話でしたっけね。
ああ、そう。漁師テレポーテーションですね。
漁師がテレポートする。
……何か違うな。
ああ、漁師ではなく猟師。海のものとも山のものともつかぬ……、と言いかけてまたもや間違いに気づいてしまいました。いやはや、うちのカミさんがね、こういう話が大好きなんですよ。って、今度は刑事コロンボになってしまいましたね。
えー、と、軽く一呼吸置けば古畑任三郎ですね。
おや、どうしました。はあ、ふむ、古畑もコロンボも両方知らない?
なるほど、最近は再放送もあまりしていないですからね。あれは、倒叙型のミステリって呼ばれるパターンなんですね。まず犯人が何かしら行動したことを、画面の前の皆さんは先取りで見る。その後、名探偵が犯人の残した痕跡や失敗を探しながらだんだんと追い詰めていく……最近流行の相棒シリーズでも何度かありましたね。
杉下右京のやり口、ああして細かい部分に注目して、犯人の言行を観察していくタイプが、倒叙における名探偵の黄金パターンです。
名探偵と言えば、こんな言葉があります。不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる。有名だと思いますが……そう、シャーロック・ホームズですね。多くのミステリ作品においては犯人の隠蔽工作や、何らかの特殊な状況によって真相が隠されたり、手の届かない場所にあることがままあります。
知る者が少ないか、隠されるからこその秘密なのだから当然ですね。そしてその秘密は直接調べることが出来ないようにされている。
ミステリにおける秘密で一番多いのは、いわゆる証拠というものです。誰かを殺した凶器などが例としては最適でしょうが、まあ色々です。
一般的見地からも、犯行を隠すのならば真っ先に証拠を隠滅するのが普通でしょう。
指紋であるとか、凶器以外の物品であるとか、時間帯であるとか、目撃者であるとか、証拠というのは品物に限りません。動機が隠されている場合もあるでしょうし、被害者や事件そのものが隠されていることもあるでしょう。
アリバイを崩したり、犯行現場を特定したり、隠蔽のためのトリックを見破ったり、そういった秘密に繋がる間接的な証拠を全部消しきるのは、普通の犯人には困難を極めます。所詮は人間ですからね。しかも犯罪に手を染めた場合、それまで通りに平静を保つのは難しいでしょう。さらに、隠す側と暴く側では扱える手立ての量に相応の差があります。
そもそも完璧な犯行はそもそも発覚すらしません。事件として把握された時点で、その犯人はすでに失敗していると言っても過言ではありません。だからこそミステリ作品において名探偵が勝利する結末には一定の説得力が存在するのです。答えのある問いである以上、ヒントが残っている限りやがてゴールへと辿り着けるわけですからね。
まあ、現実には時間制限やしがらみ、いろいろな障害があるからそうそう上手くはいきませんが……。
というわけで、ミステリ作品においては通常、消去法が用いられます。直接発覚するような証拠品が残っているのなら、その段階で話は終わってしまいますから……当然ですね。
さ、そろそろ話を戻しましょう。
漁師でも猟師でもなく量子ですね。量子。あ、うちのカミさんの名前じゃありませんよ。りょうこ、ではなくてりょうし、ですね。分かってた? ああ、そりゃそうですね。りょうし、を変換しないとそんな間違いは出てきませんからね。いや、参ったな。ははは。
僕は門外漢なもので、この量子というものを説明するのも難しいんですよ。波のようなものだとか、状態を表しているとか言われても、ちんぷんかんぷんってやつですね。まあ、とにかく小さなものがそこにあると思ってくれればいいんじゃないですかね。原子とか電子とか光子とか素粒子とか。そういうやたら小さいもんを引っくるめて誰かが量子と呼ぶことに決めた、と。で、これがよく分からんものなわけですね。きちんと見てどういうものかを確認するまでは、いまいちちゃんと固まってない。電子だの原子だのには何かしらの特徴があるわけで、たとえば数とか状態とか性質とか、その種類によって色々な名前で呼ばれるわけです。
ま、この説明が正しいとは僕もあんまり思っていません。とにかく小さくて、物質というより状態であって、不思議な性質を持っている、と大まかに理解しておくのが一番でしょう。
で、こんな話をわざわざしたのは、そいつを使った量子テレポーテーションって技術が結構人口に膾炙しているからなんですね。
ただ、ここにも結構誤解があって、人類のロマンであるテレポーテーション――普通のひとがイメージするそれじゃないわけです。テレポート、と聞くと瞬間移動が思い浮かんでしまうのは仕方のないことでしょうが、量子テレポーテーションというのは実際には瞬間移動ではない。では何か、というのが今回の話の趣旨なわけです。
おっと、少々疲れましたか。でしょうね。少しきゅうけいにしましょう。あ、きゅうけいといっても球ではありませんよ。休む方です。黒板に書いておきましょうか。球形。休憩。
はい、そろそろいいですか。いいですね。じゃあ続きを話しましょう。
量子テレポーテーションについての説明は皆さん面倒臭く感じるでしょうが、概要だけであればまったく難しくありません。いや、もちろん細かい理論について言及すればいくらでも難解になりますが、それは本日の講義の趣旨ではありませんからご安心ください。そもそも僕もちゃんと理解してませんからね。でも、たとえば電子レンジの機械がどんな中身になっているかを知らなくても、お弁当を温めることは誰にでも出来ますね。
そこから一歩進んで、電子レンジの仕組み、つまりどうやって中身を温めているかも、ざっくりとでも知っているひと……はい、きみ。
ええ、その通り。
マイクロ波、と呼ばれる一種の電磁波……おっと、電磁波が分からないひと、います? ああ、いますか。ですよね。電磁波というのはその名の通り、電気や磁気で出来た波です。さすがに電気と磁気と波が分からないひとはいませんね? ああ、よかった。さすがに煩雑ですからね。安心安心。
つまり、海であれば海水が波になっているように、電気や磁気が波となっているわけです。実は光なんかもこの一種であるそうですが、とにかく通常の電子レンジでは、マイクロ波、というものが使われています。このマイクロ波を放射することで、波があたった食品の水分子が振動して温まります。外部からの働きかけで、食品内に熱、すなわちエネルギーが発生するわけですね。まあ本旨ではないのでこの辺で切り上げますが、この理屈を知っているかどうかが、電子レンジが使えるかどうかとはそれほど繋がるわけではありません。
しかし、知らないよりは知っている方が良い。たとえば温めるときにムラが出来るのは、マイクロ波を当てる場所が悪いからです。ターンテーブルを使うのはその回転させることで全方向にマイクロ波を放射することが出来るためであり、この知識を踏まえて配置を変えれば一カ所だけ冷たいまま、のような失敗は減るでしょう。
金属を入れてはいけない理由も推察できるでしょう。水分子を振動させて温めるための機械ですから、金属を入れることは想定していません。
大抵の金属は、そのマイクロ波を反射してしまうんですね。火花が散ったりして、故障の原因になったりもしますから気をつけてください。
余談はこれくらいにして、続きにしましょう。
量子テレポーテーションというのは、特別な関係にある二つの素粒子――量子もつれの関係にある、などと言われても皆さん首をかしげておられますが……まあ、とにかく二つでワンセットなので、双子とでも考えておいてください――を使うわけです。
この双子が……そうですね、性別以外は完璧に同じ容姿であるとしましょう。どう見ても美少女ではあるのですが、片方だけは男。そういう存在ですね。……はい、なんですか。シュレーディンガーの猫? ああ、いつの間にか有名になってたあの話ですか。ええ、他の方も? はい、じゃあその理屈について言葉を聞いたことはある方、挙手を。
おや、皆さん知ってらっしゃる。
となるとこの説明は要らない気もしますが、まあいいでしょう。どこまで話しましたっけ。ああ、あるところに美少女と美少女に見える少年、皆さんは、そんな双子がいると考えましたね。
この二人をまったく別の場所に配置します。一人ずつ、デートに行ったことにでもしましょうか。
双子間の距離はどれほど遠くても構いません。九州と北海道でも、南極と北極でも、地球と月でも、とにかくどれだけ距離を離したとしても、まったく問題ありません。とにかく同時にデートをして、同時にホテルに入ったとしましょう。
片方は少年で、もう片方は少女。
そういう性質を持った双子であることは、皆さんはすでに認識しています。
しかし、実際には外見からでは判断できない。そう、シュレーディンガーの猫と呼ばれる思考実験が指し示すように――まあ、あれはシュレーディンガー教授なりの皮肉でしたが――どういう状態であるのか、観測する必要があります。この場合はホテルの一室で服を剥ぐ、とでも言い換えましょうか。
彼、あるいは彼女の状態を、デートの相手、すなわち観測者が自身で観測しなければ話になりませんからね。
美少女であろうその人物は、実際にはまだどちらとも言えない存在です。見た目がすべてで、男女どちらでも良いと言い切れる者はわずかでしょう。
……おっと、話が逸れました。
ええと、服をはぎ取るまでは、美少女である状態と美少女を装った少年である状態とが重なりあって存在したのです。というのは、箱の中の猫を持ち出すまでもなく、かなり違和感のある表現ですが……服、特に下着ですね。それを奪い去った瞬間に、推定美少女の性別は観測され、半々で存在していた可能性は収束されます。
観測者の前にいたのが美少女であったと確定した瞬間、どれほど遠方にいたとしても、双子の一方は美少女を装った男であることが判別されるのです。驚くべきことに、いかなる距離があっても、です。もう一方の下着を脱がせるよりも早く確認が取れてしまうのです。
地球と月どころか、銀河系と宇宙の果てであってもこれは変わりません。ということは、これは一切の距離を無視して、情報が瞬間的に移動したことを意味します。
物質ではなく情報のテレポーテーションと同じことが起きたわけです。
しかし、テレポーテーションと呼ぶのは、実は大きな語弊があります。
当たりと外れが一枚ずつ入った二枚のクジがあり、片方の結果が判明した瞬間にもう一方が分かること。実際には移動などしていない以上、これをテレポートしたと表現するのは、あまりにも無理があります。ただ、結果的には同じだからこそ、そうした名称で呼ばれているに過ぎないのです。
他にも問題があります。
情報そのものがテレポートしたわけではないため、別の手段を用いて他方へと観測結果を伝えなければ、人間が利用することは出来ないのです。この場合は……電話したことにでもしましょうか。この電話が通じるまでのタイムラグを考えると、即時とも瞬間的とも言い難い。
電話が繋がるより早く、美少女だと信じて彼の下着を剥いでしまったデートの相手がいかなる状況に追い込まれるのか、は今回の本題ではありませんから深く追求しません。
結果はすでに出ているわけですが、ね。
いささか分かりやすさに偏りましたので、流れを戻しましょうか。ここまで説明してきたように、量子テレポーテーションとは、量子の性質を用いて情報を疑似的に伝達し、見かけ上瞬間移動させる手法と読み替えられます。これが一番有用に使える分野としては……暗号でしょう。軍事利用が先であり、一般人の生活においてはこうした技術を優先的に使う理由はそれほど無いと思われます。なにしろ多大な手間と資金と研究が必要ですからね。
では、なぜ今回、あまり皆さんと接点が出来そうにない量子テレポーテーションについて講義させていただいたか。
それは、とある少女の靴下を探していただきたいからです。実のところ、この講義と片方だけの靴下がどう繋がるのか、詳しいことはお教えできません。
私情混じりで申し訳ありませんが、僕は……ここにいる皆さんに協力を仰ぎたいのです。
ええ、この靴下です。
今は片方だけしかないこの靴下の、もう片方を見つけていただきたいのです。
先ほどの例に沿って言明するならば、ひとつの靴下の状態が分かった瞬間、もう片方の状態が判明することになるでしょう。
僕にとって、この靴下はそうした性質を持っているものです。
おそらく……というか、確実にこの大学内に存在しているはずです。
なので、発見された方は、もう片方の靴下が、どの場所で、どのような状態で、どういう形で見つかったのかを詳しく教えていただきたい。
靴下を探すだけではありますが、発見者には出来る限りの報酬を用意させてもらいます。さすがに無条件で単位を寄越せと言われると難しいですが……僕の権限の及ぶ範囲であれば、なんとか努力しましょう。
こうして講義の形を取った以上、これを授業の一環として処理できる条件を揃えましたから。
また、この教室に来る前に学長及び学科の教授陣や職員の方々にこの件に対するご協力をお願いしてありますので、探すにあたっての諸問題は無いものと考えてください。
では、皆さん。
終了時間までは若干ありますが、本日の講義はここまでにしたいと思います。
ご協力のほど、よろしくお願いします。……以上。
◇解答
その数時間後、一人の男が警察に連行されていった。かけつけた別の覆面パトカーには、別の男と少女が乗っていた。
少女は素足だったため、手早く売店でサンダルを買い与えられた。
車の中で、男に寄り添われた少女は、泣き笑いの顔をして、肩を小刻みに震わせていた。
◇補講
先の講義でいくつか喋り忘れたことがあったので、みなさんのために簡単に補足しておきましょう。あの一方が判明した瞬間、もう一方もまた同時に判明するという話にはひとつ、外してはならない大きな条件があります。
それは途中で他の観測が行われていない限り、という前提です。
観測した瞬間に、確率が収束し、状態が確定する。つまり観測という行為そのものが、観測対象である量子に多大な影響を与えることになります。量子とは状態そのものでもありますから、観測により変質させたと言い換えることも可能なのです。だから、あの講義における双子の性別云々という説明は、実はあまり例としては相応しくありません。
すでに語った例に合わせて、より正確を期した表現を試みるならば、まず双子は二人とも美少女であることにしましょう。さらに外見上は処女と非処女が重なり合った状態にあり、観測する、つまり手を出した瞬間にその状態が確定します。
男と美少女が二人きりでホテルに行って手を出さないというのは通常考えにくいですから、処女かどうかを確かめたと表現してしまっても構わないと思います。
しかし、すでに他の男によって観測されてしまっていた場合、一方が処女であり、もう一方が非処女であるという二択の消去法は通じなくなります。この場合、量子テレポーテーションが成立する条件は最初から満たされていなかったことになります。
前提によって、得られる結果には随分と大きな差異が生まれるわけですね。
これを踏まえて解説しますが、講義中に触れたように量子テレポーテーションは主に通信、そして暗号に用いられる技術です。
暗号とは秘密のやり取りであり、それに他者が介在することは難しいのですが……決して不可能ではありません。暗号解読の世界には様々な手段がありますが、中身を知りたくとも秘密そのものに触れず、あえて持ち主自身に暗号を解読させる、というのはよくある手です。
秘密そのものがどれだけ厳重でも、それを扱う人間はそこまで緻密ではない。これは、ミステリにおける犯人と名探偵の関係性として言及しました。
非常にスマートな例をご紹介しましょう。非常に頑丈で、他人が開けるためには困難極まりない金庫があるとします。この金庫の持ち主から、中身を奪うためにはどうすれば良いか。
中身が盗まれたと誤認させて、持ち主は確かめるため自ら金庫を開けます。そこで、まんまと本物を掠め取る。
目的を果たすためには、実のところ金庫を開ける技術など必要ないわけです。
さて、最後にひとつ。
あの靴下はダミーでした。
では、講義はこれにて終了します。ご清聴、並びにご協力ありがとうございました。