第一話 ~桶狭間・前編~
※注意※
オリジナル要素として、桶狭間に前田利家(前田利華)が参戦しています。
時は流れ、永禄三年。
家督を争った妹が世を去り、織田家内も安定を見せた後。信芽が統一した尾張の国を狙う者があった。駿河の国の今川義乃だ。総大将である彼女は、公家出身で気位が高く、戦に明るくないと噂する者もいた。しかし、織田陣中には不穏な空気が流れている。
「…この戦、勝てるのですか?」
口を開いたのは、前田家の前田利華。槍の名手として名を知られるが、今日ばかりは顔に不安を浮かべている。
「勝つしかないだろう。勝たねば、織田は終わりだ」
「勝美姉様…」
同じく武勇に優れた将として有名な柴田勝美だが、やはり苦い顔をしていた。圧倒的な兵力差。駿河の大大名と尾張の成り上がりとの、明らかな差異だけがそこに存在している。誰もがそれを理解し、しかしながら理解を拒んでいた。
「…ああもう!今更じゃ!勝つも負けるも生きるも死ぬも今更!ここまで来た以上勝つしかないのが分からんか!!」
信芽の一喝に、利華は不安気な表情を残しながら唇を噛み、勝美は覚悟を秘めて瞠目した。信芽とて、不安はあったのだ。敵は強大な今川。砦を取られ、軍内にも嫌な空気が流れ。しかし、吹っ切れた。膝を折るなんて選択肢はそもそもないのだ。
「敦盛は舞った!戦勝祈願もした!あとは戦うだけじゃ!」
吹っ切れた信芽は、いつまでも鬱々と沈み続ける将らに苛立っていた。いつも快活で若さ溢れる利華は暗い顔をしているし、寡黙ながら威厳に満ちた勝美はいつも以上に表情がない。上に立つ者が沈んでいれば、下にいる者も沈む。勝てると思わなければ勝てる戦も勝てないが、勝てない戦はもっと勝てない。今の織田軍は士気の低下著しく、少しでも持ち直しておかなければ今川相手に戦えそうになかった。だから、信芽は自ら動く。
「予が出る。利華、勝美、ついて参れ」
「…はっ」
「…御意」
「行け!尾張の精鋭達よ!今川に打ち勝ち、我らの明日を掴み取るのだ!」
馬上からの叫びに織田軍が気勢を上げる。凛として美しい総大将の檄は末端の者々にまで響き渡り、押されていた戦況を少しずつ内側から変えていく。しかし―――
「報告!佐々政次様、千秋四郎様ら、討ち取られた模様!」
「佐々と千秋が討ち取られた!?何をしておるのじゃあやつらは!!」
「それが…総大将ご出陣に意気上がり、今川の前衛に突撃なされたと…」
戦況は刻一刻と変わるというが、今回は全くと言っていいほど変わらない。延々と織田軍劣勢のまま今川に蹂躙されるばかりで、信芽の出陣で上がっていた士気も少しずつ下がっているように思われた。ちっ、と信芽が馬上で一つ舌を打つ。何もかも今更と開き直ってはいるものの、やはりこの状況はいただけない。
「信芽様…」
「利華か」
槍を振るいながら主を呼ぶ美女に、馬上で刀を振るう主が応える。
「今川は勝利を重ね士気を上げています。それにこの兵力差…」
「見込みは薄い、か。これは、天の奇跡でも起こらん限り織田は滅亡かのう?」
「信芽様!」
主の発言を叱責するかのように名を呼んだのは勝美の方だ。
「…すまぬ。今更だと言ったのは予であったな」
「ええ、今更に御座います。今更故に、引く道などありませぬ。この柴田勝美、身命を賭して殿の道を開く所存」
「ははっ、頼もしい!皆!勝美の武に続け!」
勝美の刃が空を切り裂いた。真っ赤な鮮血の雨が大地を濡らす。信芽の横では、利華も紅い花を無数に咲かせていた。
「織田が将、柴田勝美!推して参る!!」
「同じく前田利華!覚悟あらば我が前に立て!!」
二人の名乗りに雑兵達が怯むが、敵将がその瓦解を許さない。敵の士気の高さと巨大な兵力は、大きな問題だった。斬っても斬っても兵は次々にやってくる。消耗し、刃に油が回り、時が経てば経つほど状況は織田に厳しくなっていく。
「織田は…このような場所では終わらぬ…!」
信芽の魂は、天を貫いた。
信芽の出陣から一刻程経った頃だ。
「…雨?」
突然戦場に舞い降りた水滴は、ぽつりぽつりと数を増やし、気付けば轟音を立てて降り注ぐ豪雨となっていた。視界を妨げる程の雨が血を洗い、兵達の体を冷やしていく。互いの軍すら視認できず、自然にぶつかり合っていた兵同士は離れていった。
「天の…奇跡じゃ…」
信芽がにやりと口元に笑みを描いた。
「今が好機!この雨に紛れ、今川本陣へ奇襲をかける!皆、予に続け!」