副官Aはひとりでぼやく
「やっと……落ち着いた……」
心の底からのため息を、ユイシールはひとり執務室でついた。
つい数時間前のこと、先日来魔界に居座り彼女の周りをうろちょろしていた人間の男が、なぜか急に大人しく「帰る」と言い出したのだ。ユイシールはこの機会を逃すまいと大慌てで術の準備をはじめた。
人間―マストはなぜか泣きそうな顔で「ユイシールさん。オレ、あなたのことは一生忘れませんから」などと言っていたが、いつも通りユイシールは無視した。彼がついぞ見ることがなかった晴々とした笑顔すら浮かべ「さらば!」と言い放ったほどである。
そうして彼は元の世界へと吹っ飛ばされた。
「ふむ、これでようやく元通りだ」
ユイシールは紅茶を飲む。なるほど、先ほどまでお茶を淹れてくれていた手がないのはほんの少しばかり寂しいような気もするが、そもそもユイシールは他人といることが好きではない。
静かな執務室にひとりきり。これぞ彼女の愛する日常であった。
しかし、ユイシールははたと気づいた。何か、重要なことを忘れている気がする。そう、たとえばそれはマストのことに関連しているような、していないような、そもそも根本的な問題……
「!!!」
がばっ、と椅子を蹴倒す勢いでユイシールは立ち上がった。重要なこと、に思い立ったのだ。
つまり、彼女が敬愛してやまない魔王様のことである。
マストが居座ってからというものヤツのことで頭がいっぱいだったために、すっかり忘れていた。魔王様の結婚相手のこと、魔王様の性別のこと、魔王様にまだきちんと謝罪もしていないこと、それから、あの魔王様との衝撃的なキス。
「そ、そうだ。魔王様にお会いしなくては……」
冷静な彼女には似つかわしくないほどの動揺ぶりで、彼女は支度を始める。礼服を整え、髪を結いなおした。
しかし、何を話せばいいのか。真面目で仕事熱心で魔王様を愛するユイシールは、今まで悩んだことのない悩みに襲われた。まずは謝罪だろう。確か卒倒した自分を寝室まで運んでくださったのは魔王様だった。そうだ、謝罪をしよう。それで、そのあとは?
「アタシと結婚しなさい」
あの時の魔王様の言葉が、ユイシールの脳内によみがえる。そして口内をまさぐられたあの感覚。決していやではなかった。しかし、自分が自分でなくなってしまうような、あのわけのわからない感覚はこれまで経験したことのないもので、ユイシールはそれに恐怖心すら覚えていた。
魔王様のことは愛している。これまであの人だけを見て、あの人のためだけに働いてきた。だから、これからこの先も魔王様と一緒にいられることは幸せ以外の何物でもない。それだけは、彼女は自信を持って言える。
問題は、魔王様の性別である。魔王様は男だ。ユイシールは、自分でもさっぱり理由がわからないが、「男性」という種類を自分の体が受け付けないことを知っている。異性に触れたいとも思わないし、触れられると体が震える。気をうしなうことすらある。しかし、恋愛にも結婚にも興味がない自分には、それでなんの支障もないとも考えていた。
だが、この世で最も愛する魔王様は男だった。それに、記憶違いでなければ、自分に結婚を申し込んでいた。
「悪夢か」
ユイシールはつぶやいた。
それからユイシールはいったん落ち着こう、と再び椅子に腰かけ、冷めきった紅茶をすすった。彼女の灰色の脳細胞を活発に動かし、考えをめぐらせる。
確かあの時、自分が魔王様の性別を誤るなどという大失態を演じ、罰はなんでも受けると申し出たから、魔王様は結婚しろなどとおっしゃった。
そう気づくと、ユイシールは少し気持ちが落ち着いた。
きっと魔王様は、お戯れで自分に結婚などと言ったに違いない。それにあの魔王様だ。キスの一つや二つ、握手する程度の挨拶がわりだと思っていらっしゃるのだ。そうだきっとそうに違いないそういうことにしておこう。
ユイシールは半ば無理やりそう結論付けた。そうでもしないと頭がパンクしそうだった。そう思い込んでしまえば、後は楽だ。いつも通りにすればいい。あの時はすみませんでしたと謝罪して、そしていつも通り魔王様の仕事を副官として補佐すればいい。
「それで、何事もなかったことにして、アンタはアタシのそばで筆頭副官として永久に暮らすわけね、ユイちゃん?」
突然、聞きなれた声で自分の考えを言い当てられた。驚いてユイシールは周囲を見渡す。そして一点で目をとめた。執務室に備えられたソファーに、優雅に横たわっている魔王様の姿があったのだ。
深緑の革張りのソファーにゆったりとその黒に包まれた長身をくつろがせ、悠然と微笑む魔王様のお姿は、これまでユイシールが見てきたどのお姿よりも美しかった。
このお話は何も考えず頭をからっぽにして読むとよろしいかと思います。細かいツッコミは自分でもいやになるくらいありますが、とりあえず魔王様の片思いを楽しんでください。
いつも閲覧やお気に入り登録、評価など、ありがとうございます。