魔王様は牽制なさる
セルロンを引き連れ魔王様が向かわれた先は厨房だった。そこには魔族の料理人たちが忙しくなく働くいつもの光景が広がっていたのだが、異質物がひとつだけ紛れ込んでいた。
鮮やかな金髪を持つ、長身の男が魔族の間を縫うように動き回っていたのだ。表情は楽しそうで、「ちょっと通してー」などと言いながら両手にサラダやパンなどを持っている。
セルロンはその光景を見ただけでふきだした。なんであの人間あんなに馴染んでるんだ。あとなんでそんなに楽しそうなんだ。しかし魔王様に渾身の肘鉄をはなたれたので、セルロンは「ぐ」とうめいた。
「人間」
魔王様が呼ぶ。人間―マストは不思議そうな顔をして、立ち止まった。
「オレですか」
「アンタ以外に誰がいるっていうのよ」
魔王様は腕を組み、マストをねめつけた。美人の不機嫌は相当な迫力がある。厨房にいた魔族たちは魔王様の雰囲気に圧倒され、その場から動けなくなっていた。
「アタシは魔王エリエラ。この魔界を統べるもの。アンタの存在を魔王として許しておくわけにはいかないの。大人しく帰ってもらうわ」
魔王としてじゃなく、私情ばりばりだろ。
セルロンのツッコミは間一髪彼の胸の内にとどめられ、口から飛び出ることはなかった。自分に空気を読む気遣いがかろうじて残っていてよかった、と彼は心底安堵した。
魔王様の周囲にブリザードが見える。たぶん氷点下34度ぐらいにはなっている。しかしなぜか魔族よりよっぽど空気を読むことに長けているはずの人間、マストはそんな極寒の厨房でにっこりと笑った。
「あ、ユイシールさんがおっしゃってた魔王様ですね!ご挨拶が遅れてすみません。マストと申します。ユイシールさんにお世話になっています」
「お世話になってるじゃないわよ。あの子はアンタを帰らせようとしてるじゃないの……それに、ユイちゃんの名前を、気安く呼ぶんじゃないわ」
一層低くなった魔王様の声。ああやっぱり私情じゃないか、とセルロンはこっそり笑う。そしてなぜかマストも笑った。
「ユイちゃんって呼んでるんですか。可愛いあだ名ですね!」
空気を読むどころか、マストは極寒の地で氷いっぱいの風呂に飛び込むようなマネをした。これにはセルロンもにやついていた頬をピシリと固まらせる。
その瞬間、厨房の空気が一変した。
ばたりばたり、と魔族たちが魔王様の冷気にあてられて厨房の床に膝をつく。彼らより力のあるセルロンでさえ、ぐらり、とふらつく足を踏ん張るのに苦労した。
ただの人間であるマストも、今度ばかりはその場に立ち尽くす。魔王様はいっそ凄みのある嫣然とした微笑みを浮かべると、マストに詰め寄り、彼の首に手をかけた。
「人間」
ぐ、とマストがうめく。魔王様の手に力が込められたらしい。まるで愛する者に口づけでも贈るように、魔王様は目の前の男を見つめ、顔を寄せる。マストの方が魔王様より若干背が高いが、今この場の二人の優劣は明らかだった。
「消えなさい」
その一言を、魔王様は愛をささやくように優しく言われた。
「ユイシールを困らせるのも、怒らせるのも、泣かせるのも、可愛がるのも、愛するのも……アタシだけに許されているの。ユイシールはアタシのものよ」
そういうと、魔王様はマストの首から手を離し、苦しげに膝をつくマストに興味をなくしたように踵を返した。先ほどまでの迫力はすでになく、セルロンの名を呼ぶと厨房を出る。
「エリエラ」
「セルロン?」
やりすぎじゃないか、と言おうと幼馴染の名を呼んだセルロンに、魔王様はにっこりと笑った。
「アンタもよ?あの子はアタシのもの。それを邪魔したら、許さないわ」
へい、とセルロンは苦笑を浮かべ、答えるしかなかった。