副官Bは遠くから眺める
「ユイシールさん!お昼の準備できましたよー!」
「なぜお前が私の昼食を準備している!さっさと帰ってくれ!」
廊下からそんな怒鳴り声が聞こえてきた。セルロンはつい先日あった出来事と、そしてその後年若い同僚に降りかかった災難を思い出す。あの人間の男が居座ってからもう数日経つが、ユイシールの機嫌は最悪のままだ。そしてあの男は一切それにめげない。いくら彼女に冷たくされようが怒鳴られようが蹴られようが無視されようが……人間にしておくにはもったいないほど、根性のある男だ。
それにしても、とセルロンは思う。
彼にとって他人の不幸や災難は甘い蜜である。他人が困っているのが面白くて仕方がない。彼女の怒鳴り声と懇願の声を聞くたびに笑いをこらえるのが大変なほどだ。
それはおそらく魔族として当然の反応であろう。魔族は基本的に誰しも性格が悪い。しかし、誰あろう魔族を統べる「彼」はそうそう面白い気分でもなさそうである。
つまり、ユイシールの機嫌が降下するのと同じぐらい下がっているのが、今セルロンの目の前で紅茶を飲んでいる麗しき魔王様の機嫌なのだった。
「あいつ、なんなの。人間がなんで魔界でフツーに暮らせるのよ?いつもだったら狂っちゃったり壊れちゃったり動けなくなったりするじゃないの」
「さあな。ユイちゃんの催眠が変な方向に影響しちゃったんじゃねえの」
セルロンは答えたが、魔王様がその答えをほぼ聞いていないことは一目瞭然だった。右手で頬杖をつき、左手の真っ赤な爪で机をとんとんと叩く。どこからどうみてもこの魔王様、いらついている。セルロンはにやにやと幼馴染を見た。
400年ほど前、ユイシールが魔王様の副官として働き始めた。その頃からセルロンはふたりを見てきた。
ユイシールの方は最初から、魔王様を盲目的に愛していた。そもそも副官になったのも「愛する魔王様のおそばにいたい」という一心である。筋金入りだ。なんでも、魔王様が地方の巡視に行った際に、まだ子供だったユイシールはそのお姿と仕事ぶりに心底惚れ込んだのだそうだ。なんともマセた子供である。
彼女が魔王様の性別を勘違いしているということにセルロンが気づいたのは、彼女が働き始めておよそ200年ほどだったころである。そして同時に、彼女は異性との接触の経験が極端に少なく、恋愛沙汰にもまったく免疫がないということを知った。異性と触れ合うと卒倒すらすることもあるのだという。
さてそんな200年前、セルロンは魔王様のご様子が常と違うことに気づいた。気づかれないようにため息をついたり、窓の外を眺めてはぼんやりしたり、廊下から聞こえてくる規則正しい足音に敏感に反応しては、扉が開き副官である「彼女」が入ってくるとにっこりと―いつもより色気を増したような微笑みを浮かべたりすることが多くなったのだ。
「ははあん。エリエラ、お前、ユイちゃんに惚れたのか」
いつだったか、直球にもほどがある聞き方でセルロンが聞くと、魔王様はごまかすように笑い、そっぽを向き、不機嫌そうに眉をしかめ……そしてややあってから「そうよ」と小声で認めた。
「今までいろんな人間も魔族もオトしてきたわ。それはひとつも恋愛ではなかったけど……今回は、どうやら本気で惚れちゃったみたいなの。真面目で、頑張り屋で、融通きかないとこも時々変なミスするとこも、たまに見せてくれるはにかむような笑顔も、実は料理上手なところも、全部愛しいの」
熱烈な魔王様の告白に、セルロンはあてられたような気がしてふうん、と呟いた。1000年以上一緒にいる、ちょっと変わったこの悪友が幸せになればいいとは思っている。そしてユイシールが相手なら、確実に彼は幸せになれるだろう、とも思う。
しかしセルロンは知っていた。
ユイシールもまた魔王様のことを愛していること。ただし性別を間違っていること。恋愛対象にすらなっていないこと。男性が苦手が故、おそらく魔王様の性別を知ったらこれまで通りいくか危ういこと。
それらのことを、心優しいと自負するセルロンが魔王様にもユイシールにも何一つとして教えなかったのは、ただただ彼自身が面白いから、である。
「セルロン」
ユイシールの怒声と人間の歓声を聞いていた魔王様が、ふいに立ち上がった。幼馴染の名を呼ぶ。久しぶりに聞く、低く冷たい声だった。
「はいよ」
「行くわよ」
セルロンはにやりと笑った。どうして世の中はこんなにも面白いのだろう。