人間がうろちょろする
「ユイシールさん。次はどうしましょう?」
「帰れ」
朗らかな笑顔を向けた男をユイシールは見ることもなく、書類に目線を落としたまま、冷たい口調であしらった。麗しき魔界の筆頭副官ユイシール女史の本日の機嫌は、ここ数百年で一、二を争うレベルで最低だった。
事の起こりは、先日である。敬愛してやまない魔王様の性別を誤認していたことが判明したあの日。いろいろと思い出してはいけないようなことが起こって、恥ずかしながらユイシールは卒倒してしまったのである。気づけば自分の寝台で横になっていた。使用人に聞くと、魔王様が畏れ多くも自ら運んできてくださったのだという。
慌てた彼女は寝台から飛び起き、魔王様のもとへ急ごうと思った。だがその矢先、困った問題に直面した。配下の魔族たちが困り顔で駆け込んできたのである。
「ユイシール様!人間どもをすぐさま送り返さないと、催眠が解けかかっています!」
そもそも魔王様に引き合わせるためだけの催眠だったので、そんなに強くかけていなかった。見目麗しいだけでなく、魔王様にふさわしいようにとそこそこ腕の立つ男たちを連れてきている。こんなところで催眠が解け、そんな彼らに数百人単位で暴動でも起こされては大事件である。ユイシールはすぐさま人間たちを閉じ込めていた部屋へ戻り、慌ててひとりひとり元の場所へ送り返す作業へと入った。
なんなく数百人の男たちを術を使って送り返していく。そしてとうとう最後の一人になったとき、さらなる問題が起きた。
「あの」
最後に残った人間がユイシールに話しかけた。催眠が完全にとけてしまったらしいが、最後の一人という気の緩みもあって、ユイシールは手元で生み出す術に集中しながらも「なんだ」と返答した。「あの」。人間はさらに言い募る。ユイシールはいらいらと「なんだ」と視線を人間に合わせた。
金髪碧眼。人間は、騎士として働いていた男だった。容姿端麗な人間を見繕った中でも抜群の容姿。まとうオーラは気品にあふれ、おそらくいい暮らしをしていたに違いないとユイシールは思う。おそらく婿候補5人のうちのひとりくらいにはなっていたのではないか。魔王様が男性でなければ、の話だが。
「なんだ。私は今お前を送り返すので忙しい。苦情なら言いたいだけ垂れ流せ。聞かないから」
非道なことを言うユイシールに、しかし男は苦情を言うそぶりはなかった。それどころかその瞳が熱っぽく彼女を見つめる。その色になんだか思い出してはいけない何かを思い出し、ユイシールはぶるりと身をすくませた。じりじりと後退し、男からそっと距離を取る。
「……あの」
「いや、やはり何も言うな。今後一切口を開くな。いいか、数秒待て、今私が迅速かつ確実にお前を元の場所にすっ飛ばしてやるから」
「いや、オレ、あなたと一緒にいたいです」
時が止まった。正確に言うと、ユイシールの周囲の時が固まった。まるでメデューサと目を合わせてしまった小動物にでもなった気分で、ユイシールは目の前の人間を見つめた。
「人間、お前、いま、なにを」
「オレの名はマストといいます。オレ、あなたほど美しい人に会ったことがない。そしてこの先も出会うことはないでしょう。一目見てあなたに恋をしました。この想いが報われなくても構わない。ただ美しいあなたのおそばにいさせてください」
じりじり後退し続けるユイシールだったが、人間の男は言うが早いか一気に距離をつめ、ユイシールの手をとるとひざまずいて彼女の手の甲に唇を寄せた。紛うことなき騎士が忠誠を誓うそれである。ひいいい、とユイシールはいつもの冷静な自分をすっかり忘れ悲鳴をあげた。
「は、離せ!近寄るな!お前バカか、人間だろうお前、早く帰れ、ほんともうお願いだから帰ってください」
しかしその日からなぜか人間―マストは魔界に居座ってしまった。あろうことかユイシールが執務をしているとその横で書類の整理だのお茶の準備だのをするのである。しかも案外気が利いて、いまここというときに必要なものが出てくるものだから、ユイシールはますますいらつくのであった。