副官たちの疑問(前)
後日談のはじまり~
「ではよろしくお願いいたします、魔王様」
「はあい、確かに預かったわー。午後に取りに来てちょーだいねー」
ある日、いつものように敬愛する魔王様に書類を届け、美しい礼をしながら執務室を出て、ぱたんとその扉を閉めた瞬間、魔王様の右腕と名高い副官は、はたと思った。
なぜうちの魔王様は女性のような話し方をなさっているのだろう。
***
ユイシールという名を持つ魔界の女副官は、非常に真面目で有能で、冷静かつ冷徹、そして美しい容姿で魔界では評判だった。しかし、今彼女はその美しいかんばせをわずかに曇らせ、己の執務室の机の前で何事かをうんうんとうなっていた。机上には午前中に片付けなければならない書類があったのだが、真面目な彼女にしては珍しく、正午を告げる鐘が鳴ってもその書類にペンが入れられることはなかった。
「おーい、ユイちゃーん。昼飯行かねえー?」
そう言いながらノックもせず入ってきた同僚、セルロンの声にユイシールは「ああ」と生返事をした。うーんこれは重症?とセルロンは小さく笑った。いつもなら「ノックぐらいしろ!そしてなぜわたしがお前と連れ立って昼食を摂らねばならん!」とくるはずである。
これは何か面白いことが起こるに違いない、と実に愉快な気分になってセルロンは部屋のソファに腰掛けた。昼食はあとで摂ろう。そういう自由が利くのが副官という役職のいいところだ。もっともそんなことをしているのは彼ひとりであって、ユイシールにバレたら烈火のごとく怒られるであろうが。
「なになに、悩み事?おにーさんに相談しちゃいなよ」
「なぜお前に相談する必要がある」
つれない返事は割といつもの彼女の調子だ。しかしその切れ長の青い瞳はいつもより少しばかりぼんやりとしていた。なんか重大事件あったかなー、と魔王様の副官にしてはのんきなことをセルロンが考えていると、ふいに目の前の澄んだ瞳がきらめいて、彼を見つめた。
「ん、なに?」
「お前、エリエラ様の幼馴染だったな」
「うん、って前もこんな会話したよね」
「そうだったか?忘れたな。それよりお前にひとつ聞きたいことがある」
どうもこの同僚は自分のことをどうでもいい存在だと思っている節がある、とセルロンはほんの少しばかり切なくなりながら、「なに?俺で答えられることなら何でも聞いてー」と軽い調子で答える。「ちなみに年は3000歳。彼女いない歴は150年、お嫁さん常時募集中だよ。好きな体位は」と続けたらかなり本気の拳で殴られた。
どうでもいい同僚のどうでもいい冗談を力技で流すと、ユイシールは真剣な表情でセルロンに尋ねた。
「今日ふと思ったのだが、魔王様はなぜ女性のような話し方をされるのだろう」
それはセルロンにとって予想外の質問だった。
しばし部屋に沈黙が訪れる。ややあってから、なぜだ?というようにユイシールが小首をかしげた。この真面目一辺倒の彼女にこんなあざとい技があったとは、とセルロンは少々ずれた感想を思い浮かべた。つまり、彼には即答できるような答えが用意できなかったのだ。
「そういわれれば……なんでだろな」
「お前にもわからないか……」
落胆して、ユイシールは小さく息を吐いた。魔王様と幼馴染であり、なぜか仲のいいこの男なら何か知ってるかもしれないと思ったのだが。
「確かにそういわれてみればそうだな。なんで疑問に思ったことなかったんだろ」
セルロンが首をひねった。
「私も魔王様に400年以上お仕えしてきたが、今日ふと疑問に思ったのだ。そしてそれを考え始めたら仕事が手につかなくなってしまった。なんと情けないことかと思うが」
ユイシールがはあ、と机の上にまっさらな紙を見てため息をついた。こんなことは初めてだった。仕事をおろそかにするなんて、と自分の至らなさを恥じ入る。ちなみにセルロンが時間内に仕事を終わらせることはめったにないので、彼がそんなユイシールに共感することはできなかった。
「しかし、気になってしまって仕方がない。セルロン、いつから魔王様があのようなお言葉を話されているか知っているか?」
「あいつと出会ったのって確か600歳ごろのことだったと思うけど、その時は普通だったと思ったぜ。確か思春期ぐらいじゃなかったか、あいつの口調が変わったの」
「そうか……その頃何かあったのだろうか」
「っていうか、ユイちゃん、アイツに聞けばいいじゃん」
ぽん、と手を打ってセルロンが軽く言った。解決解決、と口笛を吹く。ユイシールは慌てて口を開いた。
「何を!そんなプライベートなこと軽々しく魔王様にお尋ねできるか!」
「プライベートって……婚約者が何言ってんの」
呆れたような表情でセルロンに見つめられ、ユイシールは頬が紅潮するのを感じた。
つい1年前のことになるが、いろんなこと―本当にいろんなこと―を経て、筆頭副官ユイシールは畏れ多くも麗しき魔王様の婚約者になった。魔王様の方は「婚約者期間なんてすっとばして今すぐにでも蜜月に入りたいわー」などと口癖のように言っているが、恋愛経験皆無どころか異性と手を握ったことすらなかったユイシールが「心の!心の準備を!」と必死で訴えた結果、1年経った今でも未だ二人は婚約者どまりである。
「こここ婚約者と言えど……魔王様が敬愛すべき存在で絶対の主であることは変わらんだろう」
普段の冷徹さはどこへやら、頬を染め、小さな声でもじもじと言うユイシール女史の姿はこの上なく可愛らしかった。彼女の齢を考慮に入れたうえでも確かに可愛らしくはあったが、セルロンはその初心な様子に、かねてから聞いてみたかったが鉄拳制裁が怖すぎて躊躇していた質問をとうとう彼女にぶつけた。
「あのさ、ぶっちゃけ、お前らどこまでいってんの?」
「どこまで、とは?」
心底意味が分からない、といった様子で首をかしげるユイシールに、嫌な予感がする、と思いながらへらりと笑ってきわめて軽い調子でセルロンは続けた。
「だから、もうしたかって聞いてんだよ」
こしょ、と彼女の耳元で「ソレ」の名前をささやいてやると、みるみるうちにユイシールの顔がゆでだこのように真っ赤になった。そして、彼女の恥ずかしそうだったそれが憤怒の表情に変わる。写真でしか見たことがないが、魔界の中でも遠く離れた地を治めるという閻魔大王に少し似ていた。
やべ、と思った時には彼女の鉄拳がセルロンの腹部にめりこんでいた。
「結婚もしていないのにそんなことをするわけがないだろうこの阿呆!そのちゃらんぽらんした頭の中身すべて魔物に食われてしまえ!」
恋する乙女の拳はなかなかに強力である。痛む腹を押さえてうめきながら、しかし真に同情すべきはあれほど溺愛しているのにおあずけくらわされている魔王エリエラである、とセルロンは思った。