魔王様が捕獲なさる
近い。近すぎる。ゼロ距離だ。
魔王様のお姿がソファにある、と認めた瞬間、ユイシールはとっさに執務室を出ようと扉に向かった。それはこれまでの魔王様愛な彼女の振る舞いでは決してなかったのだが、なぜだかそうしないといけない気がした。本能である。美しく妖艶な魔王様の微笑に、彼女の頭の中で警告音がしたのだ。
しかしユイシールの逃亡は失敗に終わった。彼女が扉にたどり着く前に、魔王様によって捕獲されたのである。綺麗な手に腕をとられ、引き寄せられたかと思うと、気づいたらユイシールは魔王様の腕の中にいた。おしりの下の感触は、たぶんソファではない。その固さ、あたたかさ、それから体勢を総合的に鑑みるに、どう考えてもユイシールは魔王様の膝の上に座っていた。
「まままま魔王様!」
「なあに?」
甘い。甘すぎる。ユイシールは、色気しか含んでいないぞくりとするような魔王様の声に、身震いした。気のせいか腰のあたりがむずがゆいような気がする。
「ここここの体勢は倫理的によよよよくありません。そそそそそれに私は、いい以前に申し上げたと思いますが男性がににに苦手でして」
どもりすぎだと自分でも思うが、ユイシールの口はうまくまわってはくれなかった。そして魔王様はそれを一向に介した様子もなく、ユイシールの金髪をするりするりとさりげなくもてあそんでいる。「倫理、なんて魔族にはないわよ?」と楽しげに囁く魔王様。時折感じる吐息は魔王様のものに違いなくて、ユイシールは自分の体がかあっと火照るのを感じた。
「ユイちゃん」
魔王様の声が低くなった。普段、魔王様は男性にしては高めの声(そして女性にしては低い声、である)をしていらっしゃるのだが、このような声も出せるのだ、とユイシールはぼんやりと考えた。
「アタシの求婚をなかったことにしようと、してたわね、ユイシール?」
「ひ、ぁ」
耳元で囁かれる声に、言葉にならなかった。自分の口から出したことのないような声が出て、ユイシールは思わず自分の口を手で覆った。魔王様は官能的なくちびるを愉快そうにゆがませながら、その彼女の手をはずさせ、己の右手で束縛する。左手はユイシールの腰をゆるく抱き寄せていた。
「アタシと、結婚しなさい」
「……だ、ダメ、です」
再度告げられた魔王様のそのお言葉に、ユイシールは必死に拒絶の言葉を紡いだ。なんとかこの腕から抜け出そうと身をよじる。これ以上このピンク色の空気に流されてはいけない。それに、再び卒倒して情けない姿を見せるわけにもいかない。ここまで至近距離で異性に触られて、気を失っていないのが奇跡に近いのだ。
「なぜ?」
しかし、魔王様は手に力をこめてユイシールの抵抗をいとも簡単に封じ込めた。その軽々しさに、やはりこの方は男性なのだ、と実感する。そして彼はユイシールの拒絶にもかかわらずどこか楽しげに尋ねた。
「わ……私は魔王様を、あ、愛しています」
「ふふ……知ってるわ?」
「それ、はたとえ魔王様がだ、男性であっても、変わりなく……私の、一番なのです……」
なぜだか、ユイシールの目の前がぼやけた。どうやらじわりと自分の目に涙が浮かんでいるようだ。しかし両手を拘束されているのでぬぐうこともできない。ユイシールはすぐ前のぼやけた魔王様をじっとみつめながら、一生懸命に自分の気持ちを伝えようと言葉を紡ぐ。
「で、でも、私は本当に男性が、苦手で……触ることも、できなくて……だから、たとえ魔王様のことを愛していても、私にはやはり異性と接触する、など……ましてや、魔界にとって至宝であられる魔王様と結婚、なんて……私には……」
「ユイちゃん。イイコト、教えてあげるわね」
「ふ、わぁ!?」
ユイシールの言葉を静かに聞いていらっしゃったはずの魔王様は、突然そうおっしゃたかと思うと、目の前のブルーの瞳から零れ落ちる涙をぺろりと舌ですくった。驚きすぎて固まったユイシールの表情に、魔王様が「可愛すぎて困るわ」と呟く。しかしどう見てもその表情は困っていない。頬やおとがい、こめかみ……とユイシールの顔のいたるところにくちづけを落としてゆく。そして彼女の真っ赤に染まった耳にくちびるがたどり着いたとき、一層低い声で囁いた。
「ユイちゃんは、オトコが苦手なんじゃない。単にこれまでの経験がないだけ。そしてアンタがオトコに接触すると気を失っちゃうのはね、“感じすぎてる”からよ」