『ノスフェラトゥの鼓動』
・思いつきショートショートですがよろしければ。
・現在構想段階にある『リヴォニア=クールラントサーガ(仮)』の一節を短編化した作品になります。
それは、ノスフェラトゥと呼ばれていた。
絶食しようと服毒しようと、けして死ぬことはない、ヒトを超越した生き物。……いや、生きていると言っていいのかすら定かではない、人外のモノだ。
それを真に何と呼べばいいのか――その娘には分からなかった。元より籠の中で育てられたような娘だ。この世にそんな得体の知れないモノが存在すること自体、彼女は知らなかった。
……それでも、違和感は感じていた。目覚めた時から、ずっと。あの男の腕の中で目覚めた時から、ずっと。
何百年と言う長い眠りから覚めたような気分だった。まるで生まれ変わったような、そんな感覚。あの時は分からなかったけれど……それが、合図だったのだ。
脈打つことのない自らの胸に手を当てて、娘は思う。ああ、やはり、男の言葉は嘘ではない――自分は、ヒトでないモノになったのだ……と。
その娘は、北東欧はリヴォニアの、とある地方を治める小領主の娘として生を受けた。
領地と言っても、小さな集落とそれに付随する僅かばかりの農地があるだけの、小さなもの。けれど、娘は両親を初め、心優しき村民達に愛され、何不自由なく育てられた。
苦労や悲しみを知らぬが故の我が侭さはあれ、善良で美しい少女。されど、閉ざされた世界のことしか知らない籠の鳥。……それが彼女だった。
だから、領地が何者かに因って襲撃された時も、いったい何が起きたのか、何が起きているのか、彼女には分からなかった。
ふと目覚めた時、最初に彼女の眼に映ったのは、黒い甲冑と黒い外套に身を包んだ騎士の姿だった。娘の体は、その騎士の腕の中にあった。
全身に不思議な感覚を感じながら、貴方はどちらの騎士ですか、と娘は問うた。家臣の中に、このような騎士を見たことはなかったから。
私は騎士ではない、と騎士――黒衣の男は言った。聞けば彼は、西方をバルト海に面する公国、クールラントに属する傭兵で、一部隊の長でもあるのだと言う。
無骨な傭兵にしては、不思議な威厳や気品を感じさせる男だと娘は思った。尋ねようとしたが、それを咎めるように、何が起きたかを覚えているか、と男は言った。
覚えてはいなかった。何かが起きていたのは分かる。村民や家の者が、慌ただしく騒いでいたのは覚えていた。けれど、部屋からけして出ないように言われた娘は、外で何が起きていたのかなんて分からなかった。
この村は敵軍の襲撃を受けたのだ、と男は言った。たまたま近くに立ち寄っていたため、自身の隊を率いて救援に駆けつけたのだが、時既に遅かった、と。
昨今、リヴォニアが戦乱にあることは知っていた。けれど、こんな片田舎の小村などが顧みられることなどはなく、娘はずっと、不思議な平穏の中にあった。
男の言葉が俄には信じられず、娘は問い詰めようとした。……だが、まるで自らの体ではないかのように全身の自由が利かなかった。
戸惑う彼女に、少し眠るといい、と男は言って、娘の髪を優しく撫でた。
――まるで何かの術にでもかかったように、娘の意識はそこで途切れた。
「――何故わたしを……こんなカラダにしたのですか……?」
震える声で、娘は問うた。
相対するのは、黒衣の男。……あの時、自らを目覚めさせた男。
「……こんな、とはどう言うことだ」
低く、感情を覗かせない声で返す男。
「白々しいことを言わないでっ!」
娘は激高した。同時に、手にしていた短剣を抜くと、躊躇うこともなく自らの胸に深々と突き刺した。
やがて引き抜かれる刃。胸に咲く赤い薔薇。身に纏う純白のドレスが、見る間に赤く染められていく。……けれど、娘は絶命することもなく、男を憎らしげに睨め付けた。
「……何故? どうしてわたしは生きているの? 心臓を突き刺したのに、こんなにも痛いのに、こんなにもっ――血が溢れているというのにっ……!」
慟哭するように叫び、しかし、すぐに脱力するように肩を落とした。
「……分かっているわ。わたしの心臓は疾うに役を為さなくなっている。……もう二度と、脈打つこともない。……見て」
言いながら、娘は自らのドレスを引き裂いた。倒錯的な美しさを感じさせる、赤く濡れた乳房がこぼれ落ちる。そこには、たった今付けられた、刃に因る深い傷が――すでに、口を閉じかけていた。
「……もう、ほとんど傷が見えなくなってる。……痛みも……もうないわ。……これは何? このカラダは何? ……いいえ、分かってる。……わたしは、醜い『死人』になったんだわ」
諦観を覗かせる声で呟いた娘に、男は言った。
「……私には、お前が醜い死人などには見えぬ」
「貴方がどう思うかなんて関係ない!」
落ち着き払った男の声に、娘は再び激高した。
「わたしがっ……わたし自身がこんなカラダを気持ち悪いと思ってる! こんなカラダにした貴方を憎いと思ってる! 許せないって、思っているのっ……!」
籠の中で育てられた娘にとって、今の自分は到底理解できる存在ではなかった。無垢で潔癖な彼女にとって、それは何よりも耐え難い苦痛だったのだ。
娘の悲鳴を聞いて、男は思案するように瞳を閉じた。
「……死人、とはどう言ったモノだと思う」
ふいな問い。娘は言葉に窮した。
男は、静かに続けた。
「……死人とは、物言わぬ骸のことだ。何も考えぬ、何も感じぬ死者のことだ。何も為せぬ、愚者のこと。……何も生み出せぬ、虚ろなモノのことだ。――私は、お前がそう言ったモノであるとは思わない」
「……ひとつ、聞かせて」
絞り出すように、娘は言った。
「……何故、わたしをこんなカラダにしたの……?」
しばし逡巡してから、男は語った。
あの日――男が娘を発見した時。娘は、既に虫の息であった。彼女を捕らえた者が極度のサディストだったのだろう。彼女は貞操を蹂躙されたばかりか、眼球は抉り出され、歯牙は尽く引き抜かれ、四肢の骨を粉々に砕かれ、全身の皮は剥がされていた。
血だまりに投げ出され、まともに口を利くことも出来ないそんな娘を、男は捨て置くことが出来なかった。外法であるとは知りながら、それでも救わずにはいられなかった。
……忘れていた記憶が蘇る。下卑た笑みを浮かべながら、自らを蹂躙する男達。泣き叫び、やめてと何度叫んでも、骨を砕く鎚を止めなかった男達。恐怖と嫌悪と絶望が一気に溢れて、娘は膝を突いた。
「……死なせてくれれば良かった。こんな記憶と醜いカラダを持って生きるくらいなら、いっそ……」
「――お前は、死人ではない」
唐突に、男は言った。
「死人は、何も感じない。何も生み出さない――だが、お前は今日まで、本当にそんな死人であったのか」
問われて、娘の脳裏に、男と出会ってから今日までの日々が思い返された。
あの日、全てを失った娘は、黒衣の男の庇護の下、彼を含め13人から成る、彼の小さな傭兵隊と生活を共にするようになった。男ばかりの無骨な集団だったが、中には同じ年頃の娘もいて、多少の不便はあれ、嫌悪などはなかった。
隊長である男の人柄故なのか、戦場の外にいる間、隊の傭兵達にはいつも穏やかな空気があった。中には紳士的な者もいれば乱暴な者もいたが、その誰もが、何の役にも立たない箱入り娘を、煙たがることもなく受け入れてくれた。
家族を失い、故郷を失い、失意の底にあった娘にとって、それは何よりの助けになった。
だが、何よりも娘の心を勇気づけたのは、黒衣の男――つまり、眼の前のその男の温もりだった。男は口数が少なく、表情にも乏しかったが、言葉の一つ一つは不思議な重みを持っていて、そのどれもが、言葉に出来ない暖かみに溢れていた。
娘はいつも男の側近くに仕え、いつしか、自ら甲斐甲斐しく彼の身の回りの世話をするようになった。娘には分からないことばかりで、それこそ毎日が失敗の連続であったが――……それを、かけがえのない幸福だと感じるようになっていた。
「……わたし……は」
激情と絶望で忘れていた感情に、娘は虚ろな呟きを漏らす。
男は娘の前に膝を折った。
「お前は虚ろな死人などではない。何かを想い、何かを生み出すことも出来るのだ。……しかし――」
言いながら男は、短剣を握ったままでいる、娘の小さな手を取った。
「私が浅慮であるが故に、お前に、私と同じ苦しみを与えてしまった。……私は、裁かれねばならぬのだろう」
娘の握った短剣が、男の胸へと導かれた。
「え……な……にを……?」
混乱する頭では、いったい何が起きているのか分からなかった。
狼狽えたように手を引こうとする娘を、男は逃がさなかった。短剣の刃先が、黒衣に食い込んでいく。
「今のお前の中には、私と同じ血が流れている。だが、私が死ねば、お前の中の『血』も活動を停止する……お前の虚ろな生も、終えることが出来るだろう。私が憎いのならば、自らが醜いと思うのならば――私の胸を突け」
男の手に、力が籠もった。娘の意志を無視して、短剣は男の肉に食い込んでいく。
何が起きているのか分からなかった。何を言われているのか分からなかった。辛うじて娘に分かったのは――愛する者が、死のうとしていると言うことだけ。
「っ――いやあっ!」
悲鳴を上げて、娘は男の手を振り払った。振り払っただけじゃない。短剣を放り投げたそのままの勢いで、男の首元に腕を絡めた。そうして――男の言葉を咎めるように、口づけを交わした。
どれだけそうしていたか。やがて気を落ち着けると、娘は静かに言った。
「……やめて……わたしから、もう……大事なヒトを奪わないで……」
そう言って瞳を濡らす娘に、男はそっと彼女の頬を撫でて言った。
「……ヒトならざるモノに身をやつし、幾年月――私は、烏滸がましくも思うのだ。たとえこの胸が脈打つことを忘れても、誰かの鼓動を感じることは出来る。……誰かの鼓動と、共にあることは出来るのではないか――と……」
そう、まるで自身に言い聞かせるように言う男に、娘はもはや反論などしなかった。頬に触れる男の手の上に、己のそれをそっと重ねた。
「……わたしの中には、貴方の血が流れている。わたしは、貴方に生かされている――貴方の写し身……なのですね」
言うと、娘は不自然なくらいの穏やかさで、にこりと笑った。
「……ならば、わたしは貴方と共に歩みましょう――貴方と共にあることが、わたしの生の証明です」
そう言った娘に、もう迷いはなかった。
何故なら、娘はもう、ヒトの鼓動を感じていたから。その鼓動と共に歩むことが、自らの救いであると分かったから。
――願わくは、貴方の鼓動に。
男の鼓動を感じながら、娘はそう、願っていた。