30.逃げて
ダンカンが、あの恐ろしい部屋の光景を見てから、意識を失うまで、ほんの一瞬だった。
脳裏には、なお、血肉から生えた純白の花が焼きついている。その凄惨な対比に、頭皮が痺れ、全身の毛が逆立った。
だが、逃げ出す反応を取る暇はなかった。
次の一秒、視界は真っ暗になり、全身に、限界を超えた苦痛が走る。
この短く、長い一秒は、絶望的だった。
彼は、明確に感じていた。あの血糸が自分の肌に絡みつき、一寸ずつ、耳から、目から、口から、鼻から、潜り込んでくる。
表皮から、内臓へ。そして、脳へ。
ダンカンは、自分が血と肉を詰めた、肥えた皮袋になったように感じた。内側で狂ったように掻き回され、最後に定まったものは、もう彼自身ではなく、概念としての人間でもなかった。
部屋の入口で、中年の黒の魔術師は、わずかに動きを止め、それから目を据わらせて下を向く。
彼の手は、まだドアノブに載っている。手の甲に、蠢く血糸が浮かび、すぐに消えた。
「ぎち」
ダンカンは後退しながら、そっと扉を閉め直した。
階段を降りながら、彼は茫然と、途切れ途切れに呟く。
「私……私、は……私は……」
まるで、言葉を覚えたばかりのように、支離滅裂な低い呟きを、多く重ねた。
だが、階下に着くころには、語速は次第に正常になっていた。言葉の表現も、はっきりとしてくる。
「私は……払い除けねば……主を脅かすもの、すべてを……」
「主よ。あなたの僕は、ここに……」
「あなたに、忠誠を」
――
エイラは、暗い路地で待っていた。
煙草を一本吸い終え、地面に投げ、自分の影で踏み潰し、懐中時計を取り出して見る。
いくつかの雨粒が、文字盤に跳ねた。彼は眉をひそめ、親指で拭った。
時間は、すでに三十分が過ぎている。
ここから二十三番街までは、二キロもない。ダンカンの影化術の速さなら、五分で目的地に着く。調べる内容も、深いものではない。
いつものダンカンの調査任務の速さと比べれば、これは、はるかに遅い。
(どうやら、この書店は確かに簡単ではないらしい)
エイラは長く息を吐いた。
(慎重に、自分で行かなかったのは、正しかった)
だが今に至るまで、二十三番街の方角から大規模なエーテルの波動は感じない。少なくとも、戦闘は起きていない。
最もありうるのは、ダンカンの潜入が成功し、ただ相手が何かの防御措置を取ったため、成果が得られなかった、というものだ。
事態は、まだそれほど悪くない。だが、おそらくすでに相手に気づかれた。以後は、自分が実行するしかないかもしれない。
(今は、ダンカンの帰りを待って、改めて計ろう)
エイラは、ダンカンの潜入と逃走の能力を、かなり信頼している。何しろ、人間と幻獣の交雑は、非常に珍しい。
影苔虫の血を半分流すダンカンは、影化術を二百パーセントの効率で発揮する。影に溶け、気配を隠すのは、彼にとって、家に帰るように簡単だ。
「ざあざあ……」
大雨が、吸い殻の屑を、瞬時に洗い流す。溜まった水の流れに乗って、くるりと下水へ落ちていく。
エイラは懐中時計を戻し、もう一本吸おうとした。
――ふと、固まる。
(煙草は、すでに消した)
(この雨の、暗い路地で。なぜ、まだ影がある)
「くそ」
エイラの顔色が変わる。彼は即座に手のなかの煙草を握り、叫んだ。
「炎呪・強燃光術」
「どうっ」
不運にも仮の施法道具となった煙草が、瞬時に燃え上がり、眩い爆裂の炎になった。稲妻のように、路地全体を一瞬で照らす。
――影に対抗するなら、最も有効なのは、光と火だ。
だがエイラは、今の状況が自分にとって非常に不利だと知っている。雨天の湿気は、火系の術をすべて大幅に弱める。しかも、補助の施法道具が、ただの煙草だ。
これらすべてが、この強燃光術が数秒を稼ぐほか、実際には何の損害も与えられないことを意味する。
彼は続けて、即座に後退し、懐から爪の先ほどの赤い宝石を取り出した。
(折り返して反撃してきたのは、ダンカンだと確信した)
なぜ裏切ったのかは、分からない。だが今、彼は必ず死ぬ。
エイラの目は冷たい。
「炎呪・大地を焼く」
――だが、地面の影のほうが、先だった。
彼が異変に気づく一秒前、その影はすでに本来の人型になっていた。携えた数個の金属塊が、無数の鋭い矛になる。そして、エイラの体を貫いた。
「あああっ」
エイラは慣性に運ばれ、路地の壁に縫いとめられた。ばん、と壁に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
彼は激痛に目を赤くし、悲鳴を上げた。単なる穿刺傷なら、ここまで無様にはならない。矛が体を貫く瞬間、その上で変形した無数の返しが、彼を絶叫させたのだ。
同時に、暴虐な炎が咆哮して路地全体を巻き、すべてを焦土に変える。
ダンカンの、さほど逞しくない躯が、炎に引き裂かれ、ついに沈黙のうちに、焦げた炭と飛灰になる。眩い火光のなかで、砕けた剪影となった。
短い交鋒は、あっけなく終わる。
エイラは変身術で体の金属の矛を振りほどき、さらに昇温術でそれらを融かして鉄水にする。
彼は息をつめて傷口を押さえ、よろめいて二歩下がり、冷笑した。
「裏切りにかけては、私はお前より熟練している。私が警戒を欠くと思うか。実に、天衣無縫に愚かだ」
生命の波動が、炎のなかで消える。焦げた剪影が、路地の中央で彫像になり、この愚かな黒の魔術師の死を表していた。
エイラは手を伸ばし、最後に一発、爆炎術でこの戦いを終えようとした。
だが、それらの焦げた飛灰が地面に、壁に落ちると、瞬時に根を張る。無数の血糸が広がり、路地全体を、瞬きのうちに覆った。
「何だと」
エイラが異変に気づいたとき、路地は、これらの蠢く血糸に封鎖されていた。
彼は即座に術を放った。だが、これらのものの高速増殖は、胆を寒からしめる。恐ろしい速さで中央へ寄り、彼を呑み込もうとする。
エイラの笑みが、ついに顔に固まった。周囲を見て、驚惧の色を浮かべる。
「お前はダンカンではない。誰だ」
それらの血糸と肉腫が、呼吸のように膨らみ、萎み、ダンカンの声線を帯びた鋭い音を出す。
「主よ……あなたの僕が……障害を、払い除けます……」
(主?)
エイラは、鍵となる語を掴んだ。ダンカンの背景は、非常に明確だ。彼はどの教会の信徒でもなかった。
なぜ、突然「主」が現れる。しかも、ダンカンが調査に向かって、わずか半時間後に。
ならば、説明は一つしかない。
(店主。店主の警告だ)
呑み込まれる前に、エイラの最後の念が、閃いた。
――
「こつ、こつ」
ブライスは背後のノックを聞き、言った。
「入れ。どうした」
部下の、少し震える声が響く。
「エイラさんが……死にました」
ブライスの目が、鋭くなる。
「どういうことだ」
部下が言う。
「エイラさんは、ご指示どおり、二十三番街の書店へ人員を派遣しました。ですが、派遣された者が戻ったあと、突然裏切り、しかも未知の能力を得て、エイラさんを殺しました」
「こちらが、現場の写真と、法術痕跡の鑑定、現場復元の報告。それから、エイラさんが地面に、力を尽くして残した、一言……」
「何だ」
「『――逃げて』、と」




