白い結婚って言ったのに……
――――この婚姻は『白い結婚』とする。
王都のきらびやかな喧騒を離れ、その華やぎとは対照的な静寂が辺りを支配する山あいの細道。
私、エルナは、持参金も家財道具も持たず、身一つで輿入れ先へと向かっていた。
目指す地は『鉄血の辺境伯』と恐れられる アルフレッド・ベルシュタイン が治める、北の最果て。
『鉄血』などという物々しい二つ名に、一抹の不安がないわけではない。
けれど、私たちに手を差し伸べてくれた、あの方の言葉を信じたかった。
ガタゴトと揺れる馬車の窓から見える景色は、胸に灯した一筋の希望とは裏腹に、どこか重苦しい灰色に染まっていた。
伯爵家であった我が家は、父の放蕩と不運な投資が重なり、転げ落ちるように没落していった。
残されたのは、爵位を三度売り払っても到底届かないほどの膨大な負債。
婚約者のレオと共に奔走するが、膨れ上がり続ける金利と冷酷な現実は、個人の努力でどうにかできる範疇をとうに超えていた。
かつて親交の深かった家々からも冷たく背を向けられ、もはや『商品』として自分を売るしかないという絶望の淵。
その私を、『一人の人間』として掬い上げてくれたのが、他でもない――『鉄血の辺境伯』だったのだから。
提示されたのは、一年限りの契約婚。
それも、私に瑕疵がつかない形で白紙に戻すことが約束された、私たちにとってあまりに出来すぎた、白昼夢のような申し出だった。
一、ベルシュタイン辺境伯は、エルナの生家の負債を全額肩代わりする。
二、期間は一年。その間、エルナは『辺境伯夫人』として妻の役割をこなすこと。
三、この婚姻は『白い結婚』とする。
四、契約が満了した暁には、この婚姻を白紙とし、離縁を認める。
「……信じられない。こんな、奇跡のような話があるなんて」
出発の前夜、婚約者であったレオは、私の手を震える手で包み込み、瞳を潤ませて笑った。
「閣下は高潔な方だ。君をモノとしてではなく、一人の女性として迎えたいと仰られた。僕たちのために、自らの命を担保にした『絶対遵守』の魔法契約まで交わしてくれたんだ。……神様は僕たちを見捨てなかったんだね」
「エルナ、必ず一年後迎えに行く。約束だ」
その再会の約束を、胸の中で何度も反芻し、改めて決意を固める。
愛するレオが信じた人。そして、私を人間として救ってくれた恩人。
たとえ愛はなくとも、一年間、私は完璧な夫人として彼を支えよう。
それが、今の私にできる最大の務めなのだから。
馬車から降り立つと、ひんやりとした冷気が頬を撫でた。
「よく来てくれた、エルナ。長旅で疲れただろう。」
そう言って出迎えてくれた辺境伯は、『鉄血』というには似つかわしくないほど、とても穏やかな眼差しを私に向けていた。
氷のように美しい灰色の瞳には、私を値踏みするような卑しさは微塵も感じられない。
「一年間も君の時間を奪うような真似をしてすまない。だが、どうか私を支えてほしい」
「いいえ、閣下。私のような者を、一人の人間として、夫人としてお招きくださったこと、感謝の言葉もございません。……至らぬ身ではございますが、精一杯務めさせていただきます」
私が深く頭を下げると、彼はわずかに目を細め、いたわるように私の肩にそっと手を置いた。
「そう堅苦しくなくていい、形式上とはいえ夫婦になったんだ。君のような美しい令嬢が隣に立ってくれるだけで、この殺風景な領地も華やぐだろう。……君の婚約者との約束も聞いている。一年後、君を瑕疵のない身で彼のもとへ返すこと、騎士の誇りに賭けて誓おう」
その手の温もりに、目頭が熱くなる。
なんて高潔な方なのだろう。私の事情も、レオとの絆も、すべてを尊重した上で救いの手を差し伸べてくれた。
わずか一年間。慣れない北の地での生活も、不慣れな社交界での役目も、この方のためならきっと乗り越えられる。
「ありがとうございます。……アルフレッド様」
私は彼を心から信頼し、その手に導かれるままに壮麗な屋敷へと足を踏み入れた。
背後で、重厚な門がゆっくりと閉ざされた――。
・
夜、用意されていた寝室は、派手な装飾こそないものの気品のある静かな空間だった。
私はシルクの寝着に袖を通し、広い寝室に一人。
今日から始まるであろう平穏な生活を疑うこともなく、鏡の前で髪を整えていた。
控えめなノックの音が響き、扉が開く。
姿を見せた辺境伯に、私は少しの警戒も抱かず、微笑みながら振り返った。
「アルフレッド様。……わざわざ、お休み前の挨拶に来てくださったのですか?」
彼は返事の代わりに扉を閉め、カチリ、と鍵を掛けた。
「……アルフレッド様?」
その硬質な音が、静かな寝室に異様に大きく響く。
彼は何も答えず、昼間とは違う薄い笑みで私との距離を詰める。
あの穏やかな慈愛は消え、その瞳にはどろりとした、熱を帯びた執着が宿っている。
「初夜に決まっているだろう?」
「……っ!? な、アルフレッド様!」
背後に現れた彼の手が、私の肩をなぞる。私は反射的にその手を振り払おうとした。
けれど、腕が驚くほどに重い。まるで全身の血液が鉛にでもなったかのように、抗えない。
「っ!? な、んで……! 貴方は契約で、自らの命を賭けたはず……。 『白い結婚』と誓ったではありませんか!」
必死の叫び。しかし、彼はわずかに目を細め、獲物を追い詰めた猟犬のような昏い笑みを浮かべただけだった。
「確かに誓ったさ。これは『白い結婚』だと。……しかしエルナ、契約書にはこう記したはずだ。 君には『辺境伯夫人として妻の役割』を、全うしてもらうと」
「……っ、そんな! 夫人の役割とは、社交界での立ち回りや屋敷の差配のことでしょう!? そんなのっ……聞いていませんっ……!」
「私がいつ、そう限定した?」
耳元で響く低い声に、背筋が凍りつく。
「 この邸内において、夫を拒む夫人がどこにいる。……安心したまえ、純潔は守られる」
彼はそのまま、抗う私の手首を片手で軽々と押さえ込む。
その瞬間、刻まれた契約の紋章が、鼓動のように熱く脈打ち始める。
彼の手が襟元にゆっくりと掛かる。
どれだけ目を瞑り、視線を逸らしても、感覚を消すことはできない。
信じていた平穏が、音を立てて崩れ去っていく。
契約通り、決定的な一線を越えることは、ない。
けれど、その境界のすぐ側まで無慈悲に侵食されるであろう予感。
私はただ、彼の『役割』という名の暴力を全身で受け止めるしかなかった。
・
「……今日はこの程度にしておこう。あまり初日から追い詰めすぎても面白くない。……それにしても、君の肌は、かつて夜会で見かけていた時よりも、ずっと脆いな」
永遠とも思える時間の後、ふいに彼の手が離れた。
彼は乱れた私の格好を一瞥すると、満足げに、あるいはもっと深い飢餓感を瞳に宿して、私の唇を強引に奪った。
「安心しろ、エルナ。私は『白い結婚』を貫く。……その契約を守りながら、君のすべてをじっくりと、毎日愛でてやる。君が心から、私を夫として受け入れる日までね」
彼は冷たい靴音を響かせ、悠然と寝室を去っていった。
扉が閉まる音が聞こえた瞬間、全身を縛っていた重圧が解けた。
私は糸の切れた人形のように、ただその場に力なく沈み込んだ。
「はぁ、っ、はぁ……っ、う、……」
震える腕で、自分自身の身体を抱きしめる。
彼に触れられた場所が、火傷をしたように熱くて、そして耐え難いほどにおぞましい。
昼間に抱いた淡い希望も、救いへの感謝も。今や真っ黒な憎悪と恐怖に塗りつぶされ、形も残っていない。
気づいてしまった。
ここが、私を救うための場所ではない。最初から逃げ場のない檻だったのだということに。
彼は『白い結婚』を守ると言った。
けれど、それは私を大切にするという意味なんかじゃなかった。
ただ決定的な一線を踏み越えないだけで、それ以外のすべては、好きなように奪われる。
奪われてしまう。
唇も、声も、心も…………レオとの約束も。
毎日、毎日。
明日も、彼はやってくる。
私はこの地獄のように忌まわしい空間で、契約が満了するその日まで、『役割』を果たし続けなければならない。
「……っ、レオ……私……。」
深い後悔と救いの祈りに応える者は、誰もいない。
「……白い結婚って、言ったのに……っ」
窓から差し込む冷ややかな月明かりだけが、屈辱に濡れた私の姿を静かに見下ろしていた。
契約満了まで、あと――。
夜空の煌めきが増えるほどに、彼女の心は深い闇に沈んでいく。
☆←夜空に煌めきを増やしますか?
※この作品は、AIとの共同作品となります。




