脱走兵
最初に脱走したのは、前線でも精鋭と呼ばれていた部隊だった。
夜明け前。
号令もなく、争いもなく、
ただ、陣地から人が減っていた。
「敵前逃亡だ」
「臆病者だ」
司令部は、そう記録した。
そう記録しなければ、軍が保てなかった。
だが、二例目が出るまでに、時間はかからなかった。
次は補給隊。
その次は工兵。
戦闘に直接関わらないはずの兵から、消えていく。
理由は、誰もが分かっていた。
「戦ってない」
「戦争ですらない」
ある兵は、そう言い残して去った。
彼らは敗北を恐れていたのではない。
死を恐れていたのでもない。
“無意味”を恐れていた。
前線で何が起きているのか。
誰が消えて、どう消えたのか。
正確な情報は、誰にも分からない。
分かるのは、
行けば戻らない、という事実だけだった。
脱走兵を捕らえた憲兵が、報告する。
「彼らは、武器を捨てています」
「鎧もです」
「逃げるためではなく……不要だからだと」
不要。
その言葉は、司令部を静かに打ちのめした。
三日目には、
脱走は“連鎖”になった。
一人が消え、
それを見た者が消え、
確認に行った者が戻らない。
誰も叫ばない。
誰も止めない。
夜になると、陣地は異様に静かだった。
焚き火の数が減り、
見張りが減り、
それでも警報は鳴らない。
鳴らす意味がないからだ。
「ここにいても、向こうに行っても同じだ」
そう呟いた若い兵士が、
朝にはいなかった。
残された者たちは、知っていた。
逃げたのではない。
“抜けた”のだと。
戦争という枠組みから。
司令官は、必死に命令を出す。
脱走者は処罰する。
規律を守れ。
神と祖国を信じろ。
だが、声は届かない。
神がいるなら、
なぜ、あれを止めないのか。
祖国が守るなら、
なぜ、存在ごと消えるのか。
問いだけが残り、
答えは、誰も持っていなかった。
その夜、
陣地の端に、白旗が一本立っていた。
敵に向けたものではない。
誰に向けたのでもない。
ただ、
「ここには、もう戦う者はいない」
そう示すためだけの旗だった。
翌朝、
その陣地は、戦場から外された。
地図上では、
一つの拠点が消えただけだった。
だが実際には、
公国軍から、
“戦争を続ける意思”が一つ、消えていた。




