【第七話】僕らはみんな生きている(下)
朽ちた鎧や転がり、剣が突き刺さり、遺骨も僅かに炭化し風に吹かれてどこかに消えた。周囲は、ほとんどの元死体の不完死屍の体は既に燃え尽き、一息付ける頃には既に帰り道という雰囲気ではなく、中心の焚火も相まって何か古戦場じみた厳かさすら漂わせていた。
けれどよく状況を見れば、薪代わりに燃やされているのは裏腹に愚鈍に再生を繰り返す原初の―原本となった三体の三体の不完死屍で、俺が腰かけているのは椅子でもそこら石でもなく狩った岩潜亀竜である。即席とはいえ、珍妙なものだ。
フルトーさんは原本の奴等をまとめて自分の炎を移し、焚火を焚いた後はあまり動かずに片足を立たせたまま胡坐をかいた。
「座っていいの? 獲物でしょ」
問題ないとばかりに、むしろそこ意外を制限するように、応える彼の目は自分の目が届き、炎に照らされる甲羅の上の一点を見つめていた。
「横、失礼するね」
「…」
俺はもう、彼女を見れなかった。目を向ける場所を失った視覚の代わりに、次第にさっき奴に抉られた首の傷の痛みが増す。ある意味ではそれは幸いだった。…だって、逃げられる理由はあった方がいいから。臆病者より病人の方が申し訳なさが軽いから、罪悪感を手放せる理由にもなるから。
だから俺は隣に座った彼女を気にしなかった。無関係アピールで、どうにか忘れたい事があった。もう一度彼女を見てしまえば、きっとその忘れたい事を思い出す。曖昧なその感情をきちんと形容できてしまう―『何がどうして逃げたいのか』を説明できてしまうから、曖昧な申し訳なさを多少握ってこの時間を過ごそうとした。
彼女もそれを配慮してくれたのか、一度座る位置を確認したついで以上にこちらを向く事はなく、俺の座る亀の尾っぽのある左側に入らないようにして羽織っていたマントを脱ぎ、ただフルトーさんと面と向かった。
「これで今日では二度目だけど…そう言えば名乗ってなかったね、非礼を詫びるよ」
「…ァ……まぁ、いいさ。抑々お前は名乗っちゃ支障が出るだろうしよ」
炎が消え、やっと聞こえた彼の返し的にさっきは多分『あんたは何者だ』と言ったような唸り声だったんじゃないかと思う。…なんで彼女はそれが判ったんだろう。
「…」
「けど彼には知らせた方が良いね…」
彼女が顔色を窺った時の俺は、彼女の服を燃やしてしまった事への後ろめたさにしょぼんとしていただけだったのだが、どうやら不信感を持って疑っているように見えたらしい。
「わたしはリールス。言ったかもしれないけど、わたしは"雇われ"だから無暗に敵対するマネはしないよ」
「…分かりました」彼女に目を合わせながらそうも言われれば、無言でいる訳もなくなる。
強引でも彼女を―リールスに目を合わされてしまって、そしてようやく判った。
俺が持っているのは不信感じゃない、きっとそんな俺自身の中で完結するようなものじゃない…
「雇われ、ね。じゃあヨアレスとアェイラ―アイツらが雇い主か…もしそうだとしてこうして単独行動して良いのか?」
「彼は確かに雇い主だけど、貴方に蹴り飛されちゃってから五分は気絶してさ。やっと起きたと思ったら周りに当たり散らかして『役立たずが』とか一通り罵って、あとはもう一人で行っちゃったんだ」
他人事ではないのにどこか彼女の言葉は無責任というか、とても魔法でフルトーさんを…人殺しの役を背負わされたとは思えない調子だった。
「…つまりは依頼失敗じゃねぇか?」
「そうだね」
フルトーさんはそれに違和感を持たなかったのか、苦笑交じりに失敗を指摘するだけだった。
「ハハッ、冒険者組合からの評価下がるだろ、それじゃよ」
「評価が地に落ちても剝奪はされないのが組合所属のイイトコだよ、今のがダメでも次は大丈夫かもしれない。『良いご縁』ってやつだね。魔法が使えるってだけでこうしてコソコソしていく分には餓死する事はないからね」評価が下がってもどこ吹く風という風にリールスはそこら辺に落ちていた錆びた剣を拾い、火掻き棒のように燃え続ける不完死屍を突っついた。
言葉は前向きで、顔は無表情で、けれども口調はどこか悲しげで…無関心な風のくせに、どこかでなにか悲哀を感じて仕方ない。
「魔法か…珍しいもんだな、強制排出魔法を戦闘職で使う奴なんて」
「そうかな? わたしは逆になんでみんな使わないのか理解できないな、折角人は全ての血を吐き出したら死ぬのに。相手の匂いが判るくらい近づいて触れた殺せるのに―ちょっと抱きしめられたら殺せるのに、なんでしないだろうな」
「そりゃ、当然。自分に血反吐掛かるのは嫌だろ?」
「そうだよねー」
共感を示すように彼女は自身のマントに視線を移した。
見れば中々不思議なマントだ。形状や大きさという意味ではなく、単純に材質や模様などのただの布以上であると感じさせる部分で、だ。
シルクのよう滑らかでありながら繊維的ではなく、なにか動物の毛皮のような質感。若草色と言うのだろうか、淡い緑色の下地とそう大差なく構成している色の全てが緑色だろう。それでも繊細且つ鮮明に植物を描写しきり、宗教的な何かの物語を語っているかのようだった。
そうだとしたら、きっとその物語は眠り姫のような少し悲しさも混じった少女の物語なのだろう。
―そう俺を誘い、話しかけるような特別な品のように思えた。
「…」
俺、これに火をつけたんだよな…
「若草紋染めか? 珍しいな」
「あ、気付いた?― 西方のエルフに伝わるロアシュ人伝統の染め物、嗅ぐと安心感を与える匂いで、酷使した体を休める効果もある。…そして何より、魔法とかの物理的な攻撃以外に対して高い耐性を持つんだ…」誇らしげに語るような口を一度止め、呼気が俺の方に向くのが判った。「特に火に対して、ね」
「着てみる? 落ち着くよ…」
「構わないで!」
この感覚に名前はあるのだろうか…あったとして、この感情にも名前はあるのだろうか…?
名前を付けられるほどの人間には、こんな感覚に身を震わせる経験はあったのだろうか…決してない、そう断言できる。
炎越しに座ったのは存在感を忘れさせる為だったのか、そんな配慮も露知らず俺はフルトーさんを顔色を窺ってしまう。勿論、彼の顔は仮面に隠されて見える事はない…しかし、それは俯いていた。
「…ごめんなさい」
…また、罪悪感が残る。
どうせ名前はつかない、つけたところでどうにもならない…だから、少し冷静に整理してみようと思った。
情けなさと…
恥ずかしさと…
厄介さが…
やるせなさと…
醜さに…
恐ろしくて…
……あとは…?
もっとないのか、これだけ…?
これしかないのか? こんな陳腐で幼い六つの感情だけがこの不満の全てなのか?
そんな訳はない、そんな訳は認めない…
だって、そうでもしないとこれはただの…
「ワガママですから…僕の」
これ以上言葉を発したくもない。
発する事に意味を与えられない、これ以上は言葉を制御できない。
「…傷は痛むか?」
突如して削げるものは削ぎ落とし、減らせるものは減らし切り、必要最低限の矢のように鋭く早いフルトーさんの言葉が俺の生温かい曖昧な感傷を気取った我が儘をこじ開け、傷口を広げる。
「はい…」
だが、それに意味があると信じて。それでやっと傷薬を奥まで塗れるようになると信じて、自分から抑え込み痛みを紛らわしたそれから、手を離す。
「ロゥ、それはいつのだ」
「さっきのです…さっきの…」
上手く表せず…いや、思ったそのままを表してしまったら、自分で自分の傷を抉ってしまう気がして、言葉足らずの救助要請が出る。
「俺が不尽世炎で燃えた時のやつだろ? すまないな、意識を割かせすぎた」
「そうですけど…そうじゃなくて…!」
「それでいいんだよ、それより多くの原因は要らない」
感傷を維持したい、だがこのままうだうだして足を引っ張りたくない…そういう矛盾する動機がぶつかり続け、彼にこうして断言されなければ、もう、俺は満足に次に言うべき言葉を手に持つ為に心の幾重にも重なった重箱を隅を錐で抉るように探す事も出来なかった…そんな無理矢理な事すら出来なかったのだ。
「―なぁロゥ、傷は痛むか?」
「…」
「その痛みは抑えられるか?」
「…はい…あっ……」
彼は削げるものを削ぎ、減らせるものを減らし切り、そうしてただの意思一つを矢尻に込めて撃ち出したんだ。
「…はい、大丈夫です」
余計な物や言い訳は必要ない。
ただ、こっちは傷の痛みを言うだけでいい。不安も、危機感も、大丈夫、消してくれる。
「じゃあその痛みは置いていけ、拾おうとするな。今応急処置をする、そうすればいつか治る。その具合ならそれで充分だ―それ以外をする必要はなくなる」
淡々とした口調でただ機械的に、俺の傷を処理するつもりらしい。
けれど、それに一切の冷たさは感じなかった。
「解ったか」
そして、それには有無を言わせる余裕なんて存在していなかった…もっとも、俺の手札にも有無以上を言える選択肢はなかった。
…
…
…
…
…
…
…
…
………それでよかったのかもしれない。
首の抉られた傷跡は癒えない―決して、言える訳はなかった。
だって、言ってしまったら気遣われてしまう。
自分がやってもこうなってしまったと、無力さを僅かでも思ってしまうかもしれない。
なんていうか、自分の悩みの根底にあったのがこう…『自分を問題の原因にしてほしくない』感じ?
それが結果として良い方向に転んでも、悪い方向に落ちても、どうなるとしてもその問題の分岐点が自分であってほしくない…問題になったら、その責任を上手く全うできる気がしない……!
馬鹿みたいだな、他人事じゃなくて自分の傷の話なのに。それでも俺は、こんなにも中腰で引けてる…逃げたいんだよ、たとえそれが自分の不利益でも…!
…悪いかよ。
俯いた視界から見えた人影は俺がいつかに手放した松明を拾い、焚火に先端を寄せ、夏休みの達人が手持ち花火を扱うような見事な手際で火をつけた。
そして用済みになった炎を不完死屍も一緒にドスっと力強く踏み潰し、そのままの足取りで次第に影は拡大される。
「今度は、もう後ろに一人だ」
その人影は松明を右手に持ち替え、その明かりによって照らさ、人影が増える。
「さぁ、行くぞ」
いじけ続けるのも、また問題の原因になるんだろう。だから、今はもやもやは無視して、素直に。
膝に置いていた左手を彼女に任せ、首の傷を押さえていた右手を彼に預ける。
「…はい」
【 】
形は変わった。
前にフルトーさん、後ろは俺とリールスの三人で。三輪車じゃないけど、そんな様子でいくらか安定感があって、どれほどか不安は消えた。確かに遅くはなったけど、生憎最初の前輪はガタガタだったんだ。きっとそう差もない―そして何より、安心感がかなり違う。
「ねぇ…これ以上先、わたしも一緒でいいのかな?」
界門を通り過ぎ、元いたスタート地点―第十七階層へ。その扉が見えなくなる程には歩いたあたりで突然リールスは足を止めた。
「君達の私的な場所じゃないの?」
「あっ…」
力が抜けて、掴んでいた岩潜亀竜の左足を離してしまう。
―完全に考慮していなかった。そうか、一応あそこは隠れ家なのか…なら易々と他人に教えるような真似はしない方が…
「まぁ、良いだろ」目配せをするまでもなく、大した躊躇いもなくそう返した。
「じゃあ…君が言うのなら、ね」
お言葉に甘えますとばかりに彼女も大して迷う素振りもなく、姿勢を整えてまた進む準備をした。
正直、疲れすぎて俺自身そういう事にまで意識を向けられなかったのが少し悔しい。一朝一夕の関係ではあるが、それでも俺の方が彼とは過ごした時間が長いのに、そういう方面での気遣いが出来なかった。それがなんていうか、無気力に生きてんだろうなって、少し呆れもする。
…というか、本当の目的すら忘れてる気がする。
「ちょっと訊いてもいいかな?」
「大方身分や経歴に関する事以外なら。まぁ、内容によるな」
「個人的なトコに踏み込むつもりはないよ…いや、ちょっと踏み込むかな」
どっちだよ、指摘したくなると同時に、やっぱり内容は気になるから水は差すような真似はなしない。
「この岩潜亀竜、何に使うの? ただの食用にしては―それも二人分にしては大きすぎると思うけど…」
「…そうか、それになら答えられる」
彼は右手に持っていた銛を左手に持ち替えると、振り向いて後ろ歩きになると、運んでいるそれの甲羅を―正確には甲羅を覆う溶岩の層をコンコンと叩いた。
「岩潜亀竜、ひいては属する亀竜科岩掘潜属の特徴として、その体の比率がある。あくまで例え話だが、普通の生物―食用豚
の骨と可食部が1:4か1:5だとすると、コイツは2:5 ―抑々、可食部が少ない。理由は岩掘潜属は鉱物食の気質があって、溶岩に潜水する時に消化の補助とかの為に意図的に溶岩を飲み込む。一部の鳥が石を食べるようなもんだが、コイツらの場合は消化の補助に使った後に特殊な分解を行い、それを体に取り込む」
「―だから骨の比率が大きいと?」
「そう、或る意味では年輪や穢渦に近い性質だな。成熟する程、筋量を減らし、脂肪量も同様―しかし無意味に防御力と重量は増し続ける。狩ったコイツくらいになると、接触を止めてもその現象は止まらない」
…って事はつまり、わざわざ可食部の少ない個体を選んだって事?
「ただ狩って食すのが目的じゃない。条件は二つ、『お前が直接狩れる程危険ではない事』と『甲羅に充分な厚さがある事』。それを満たすとなると、やはり老衰した個体を選ぶしかなくなる」
周囲を見渡すと、なるほど、ようやく戻ってきたかという感じ。
往路の時の戦いの痕―焦げて灰になりかけのゴブリンの死体とか見ると余計に、見慣れた道だなと思える。自然と息を止める事に注力してしまうくらいには思い出深い…おかしいな、今日の出来事の筈なのに。
「痛っ…」行く時には気付けなかった部分もあったらしい。こんな位置に出っ張りがあるなんて…つむじを擦って初めて知った。
「素人質問で恐縮だけどちょっと訊くね。鍋として使うのなら軽い方が適性があると思うんだけど、どうして若いヤツにしなかったの?」初見の彼女でもそういうのも判ったらしく、少しかがんで姿勢を低くしていた。だからその声は一段と近くに感じた。
「ご存じ通り…岩潜亀竜は竜だ。膂力に優れ、腰より低い位置からの突進によって前足で押されれば―」
「押されれば?」 ぼかした彼の意図を解きたくて、追及される。
解ってるよ? この後にどんな言葉が続くとか。想像に難くないっていうか、想像するまでもなく文脈に分岐の幅もない。こんな無駄な脈は俺の人脈くらいのもんだよ、皆無に等しい。でも、この時俺は耳をふさぐような真似をしなかった。覚悟が決まっていたというか、頭を擦った反省から姿勢がきついし、単純に耳は二つで、使える手は一つだから土台無理だっただけだ。
「ロゥが突き飛ばされて、死ぬ」
振り向いてもいない筈の彼から、何故だか指で指されたような気さえした。
「そっか…ご…」
「ちょっと良いか?」
想定できたとはいえ、突然自分に矢が飛んでくるとちょっとたじろぐし、これ以上言及されていたらこの申し訳のない不甲斐なさで固めたような薄暗い表情を見られるところだったと思うと、ぞっとする。
「んー…」
「おい、ロゥ」
気持ちに整理をつけるのが下手なので、一々自然とうつむいてしまい、対応が遅くなる。
「あっ…はいっ!」
こんなんじゃ『はい、集中していませんでした』と白状するようなものだ、けど、事実取り繕えなかったし。
「一度止まる。降ろせ、リールスと同時にな」
「分かりました」
灯油を入れたジェリカンを二人で運ぶように ― 降ろす今考えると分担したとはいえ肩への負担が大きいだろう姿勢と同じようにゆっくりと下に、落とさないようにしっかりと下に着地させた。
「リールスに相談、ロゥに問題だ。岩潜亀竜は体内に溶岩を取り込む ―死んだコイツの体内にはまだ溶岩は熱いままか?」
そうだな…火山での条件なら何千年とか何万年ないと冷えないだろうし…いや、条件が違いすぎるな。でも、たとえこれが噴火後と同じようなものだとしても、一日も経たないうちに完全に固まるなんてありえないだろうし…
「まだ…熱いままなんじゃないですか?…って!」
このまま ― 体内の溶岩が熱いまま捌こうとすると…
「竜の血は薬の材料にできるにしても、そのまま解体すると溶岩で焼かれる。そこでリールスに訊くが、俺に使った排出魔法はコイツにも使えるか?」
彼女は少し、悩んだような素振りをしたものの、軽く指を動かし、確証を得られたのか短く頷いた。
「よし、こっち来い」
なにか計画が立てられたのか、彼はさっきまで三人で運んでいたそれを一人で ― それも片手で持ち上げて、再び足を進めた。
見覚えのある地点から見覚えのある道を進むと必然的に、またある程度雰囲気を知っている場所に着くのはなんの不条理も理不尽もない常識的の範疇だ。
そんな既視感を感じながらも彼の足跡に被せるように歩いていくと、気がつけばそこは昨日泡沸大蛙を狩った場所。つまりはもう拠点間近だ。
「ここにも水場があった。だが、壺口魚に棲みつかれて ―追い払えたがそれでも何匹かはいる」
「煮殺すって事?」
「茹で殺す」
俺なら抵抗がある…直接、自分の手で頭を刺し殺すとかよりはまだ気が楽なんだけど…それでも中々方法としては残酷なものだと思う。
「良いんですか?…なんていうか、源まで蒸発しちゃいません?」
「そこは割り切るしかないな。壺口魚は産卵の時に自分達には効かない少量の毒素を放つ ―量自体は特筆すべきものはないが、ここでは個体数密度が高くなりすぎた。たとえ今ある水を全て抜けたとして、地に入り込んだ毒は水に溶け、飲むと末端の神経を作用して一週間は麻痺して思うように動かせなくなる」
「治療法は?」
「一般的なポーションや復活魔法の類で解消できる。だが、環境が環境だ。迷宮内でそういったものにありつけるのは稀だ」
そりゃ…困るな。動けないとなると余計に足手まといでしかなくなる。
「…」
「まぁ、そんなに不安なら最悪わたしが介護してあげるよ?」
「…気持ちだけは受け取っておきます」
さっき思った『自分を問題の原因にしたくない』って感情より先に、その代償を考えると戦慄ものだった。
― 有償の雇用関係だとしても、無償の善意だとしても、到底俺には清算できるものではないのは確かだ。
リールスは指揮にも見える慰みのように指を動かすと、左手を岩潜亀竜の背に置き、ピンと五指を張った。
「知ってるかな、ロゥ君? 魔法って使おうと思うだけで発動するものじゃないんだよ。魔力っていう体に流れる ―命の力を動かして、術式で構成された呪文や魔法陣に流し込むの。鋳造みたいにね」
「…はぁ」
警戒して一歩引こうとした俺の手を彼女は掴み、集中した方の自分の腕を触らせる。
「ダメだよ。魔法は見るだけだと奇跡と大差ないから ―理解して初めて、人間の開いた異能の道だって解るから」
「…!」それは解っているけど、目の向けどころに困る。
「しっかり、自分の触れてるところを確認してね。学会出版の教本では『頭で考え、心臓で動かし、指で放出す』 ― そういう風に力の流れを意識する事が大切、そうじゃないと上手く流れずに出力が安定しないからね」
触れた彼女の腕には、確かに力が流れているのが判る。
脈の鼓動がテンポを速め、血管の血が素早く走り、産毛が立ち、自分の中で何かが引き込まれるようだった。
「はぁっ…!」
一瞬だが深く息を吸い込んみ、『ワクワクしない!?』と問うように目配せしながら唇をかみしめて口角が上がるのを防ごうとしていた。けれど、それでも彼女の笑みは止まらなかった。
「《無辜審》!」
その言葉が最後まで聞こえるより先に彼女の腕に見えない稲妻が流れたように、それを伝って神経を誘うような爆発感が発生した。
「リー…」
咄嗟に尋ねるように爆発感や見えないパルスの源を辿るように彼女へと視線を移す。
「向くのは…こっち!」
しかし『見どころを逃すな』と興奮した幼子が語り掛けたように右手で俺の顎を持ち、光景を共有するように強制する。
手持ち花火を逆再生させたように急に彼女の左手の周囲に現れた火花は次第に手の下に収束し、見覚えのあるプラズマを鋳造する。
無暗に集まったそれは刺激されながらも一直線に岩潜亀竜の幾重にも重なった岩だらけの堅い体に入り込み、蛙の足に電極を刺すようにその隅から隅までに行き渡って触発し、息を吹き返したのかと思わせる程活発に、それは動き出した。
フランケンシュタイン博士の視界もこんなのだったのかな、そう思わせる程度には浮世離れした光景過ぎて…自分でトドメを刺した筈のこいつの口から生前のように溶岩が吐き出され続けているこの状況はきっと頭の中で自動的に記憶で補完されて、リプレイのようなものだろうと思ってしまうレベルだった。
―まさに、魔法。
科学も道徳も、この前には所詮…
生きているのだろう…フルトーさんもちゅーたもヨアレスもリールスも、みんな生きているんだろう。皆生きた人間なんだろう。けど、俺の知っている生き方じゃない―
ファンタジーの世界観に生きているのだと自覚させるには充分なものだった。
…俺は、どうすればいいんだろう?
神秘的とも思えるそれを前に俺は手足の震えを意識して、感動も恐怖も出来ない…ただ不安でしかなかった。
「…」
勢いよく吐き出された赤熱し、粘度を持って煌煌と光るそれは水場を途端に自分色に染め上げ、立ち上げた蒸気が視界をぼやけさせた。
「これで―」
「《爪羽追虫》ッ!」
安心を求めるようフルトーさんの方に振り向こうとすると、切り替わる視界の隅を掠めるようにわずかな光を放つ何かが背後に飛んで行ったのが判った。
その飛来物に目が追いつくちょうどその瞬間に、それがなんであるかが判った。
「これが…壺口魚?」
水場ならいざ知らず、洞窟然としているここでは浮いた濃い青色をした有色透明の山椒魚が短剣に刺されて死んでいた。
朝、彼が言ったように頭が壺のようにくぼみのある形状で、九割が水分というその情報通り息が絶えた後にはその体から水をなにか膜のようなもので止めっていたのだろう ―その透明さは失われ、真の姿が露になった。
「なんていうか…」
「意外にちっちゃいね」
手に持ってみると、手のひらサイズってのも変だけど本当に然程大きくない自分の手の中に完全に収まる大きさで…「これじゃあ、ちゅーたとそう大差ないな」
「ちゅー!」
肩に乗って寝ていただろうちゅーたは自分の話をされたと思ったら急に飛び起きて、俺の手のひらに移って何か主張するようにぴんと背筋を伸ばして二本足で誇らしげに立って見せた。…ネズミに背筋なんてあるのか? 迷宮にいるくらいなんだから、俺の知ってるネズミそのままってわけじゃないと思うけど…
「ちゅちゅーっ!」
「分かった分かったって!」
駄々をこねるように手の上で地団駄を踏まれるというのは中々妙な感覚で、変に重いし、体温も違う生き物 ―壺口魚は差し詰め素っ裸、かたやちゅーたは毛皮つき。
活発に動くコイツを見るともう一方がさっきまで生きていて、今はもう死体になって…
軽すぎるな、そう思うと。
「…うん、そいつも喰うか」
「食べる気なかったんですか!?」
いつの間にかフルトーさんは吐き出させた岩潜亀竜を置いて、俺が拾った壺口魚を見ていた。
「あくまでも対策が主だったが…そのままにしてろ。ちゅーたにでも持たせとけ、短剣は抜くなよ。毒が垂れる」
じゃあこの場でその毒を抜いていこうよ…とは提案できなかった。
【 】
捌くから待ってろ、そう言われて何分経ったろう?
消した焚火を再び灯して、隠し扉を閉めて。落ち着くと汗がどっと不快に感じたので素早く作業着を脱いで、汗の染み込んだインナーも…
「あっ…構わないよ」
「ごめんなさいっ!」
そうだよなぁ、いくら異世界だとか言ったって、別の世界観価値観で生きてると言ったって、人間だし…女性だし。それを相手にそんな社交的な振る舞いができるかと言えば…現実見ろって感じだ。
「鍵要るか…」
絶え間なく手際よく狩った岩潜亀竜と壺口魚を解体するフルトーさんは手を止める事なく、こちらを向く事なくそう提案した。
「鍵…?」
どこだろう、全く心当たりがない。
ここは元々薬品倉庫らしく、それだけで置いておく棚があるくらいの恐ろしいくらいの一部屋構造。でも今はもう空になった棚と一面が汚れきった木箱くらいしか…いや待てよ、『もう空になった棚』って言ったよな? でもそれはちょっと違う気がする。
いや別に特別否定や肯定する根拠が用意できている訳ではないけど…なんかちょっと…解毒薬みたいな青い何かが入った瓶を見た気が、そのラベルを解読しようと試みた気が…
あ、そうか! この服を取りに行ったあの部屋!
確か場所は…
一旦この部屋の構造を整理してみよう。
部屋は言うなれば逆"L"字 ―」みたいな形をしている。
で、東西南北は曖昧だけど例えれば ―
南に出入りしている隠し扉と換気口があり、
東には今フルトーさんが解体している場所で、木板で閉ざされているけどそこそこの大きさの木の扉がある ―多分こっちが正規の入り口なんだろう。
んで北には取り外されてるけどまだ壊れていない棚があって包丁とか食器とか、あと油の入った壷と水の入った壺がある。その壺の蓋がなんだか笑っている人の顔のように見えて、不気味だった。更にベットとか椅子代わりにしている木箱があって、昨日はそこで寝た。
ここが"」"の字の出っ張ってる部分に相当する。
西は取り外されずに棚があって、板が突き刺さったようなテーブルのようなものがあるくらいで、リールスが地べたで座っているように特筆すべきものはない。
「…」
あの部屋の扉を除けば、だけど…
今いるのは隠し扉を背面にして焚火に向いている位置。そしてドアの位置は…と互いの位置を確認出来たらその方に目を向ける。警戒心を解いたのか隅で座っていた彼女は少しまどろんでいて、その彼女に汗で濡れた不快感に耐えられなくなった俺自身の哀れな姿を見られずに済んだのは最大の成果と言えるだろう。
さて、頭に血が回って朝よりはある程度冷静になれた今この部屋を見てみると、どこよりも倉庫らしいというか、案外整理整頓されているのというが第一印象だ。
左右の棚には空白が多いけれど並べられている薬品は効果毎にある程度整列されていて、乱雑になっているように思えた山のように置かれた剣や杖などの武器や、傷は多いが駄目にはなっていない防具も、よく見れば状態によって分けられている。刀身が欠けているものと折れた杖は近く、穂が酸かなにかで溶かされた槍は同じように溶かされた胸当ての傍に置かれている。
ただ場所を取って生活しているように思えたけれど、そうか、フルトーさんこういう生活長いもんな…そりゃこうも慣れたような生活感がある訳か…
「…さっさと着替えよ」
肩に乗っていたちゅーたを薬品棚の空いているところに座らせてから作業着を脱いで、そこらへんに置いていた彼から渡された箱に入れ替わるように、入れていたシャツと着替えた。
脱いだそれは、どうせまた着る事になるだろうからと焚火の近く ―色々ある北側の壁に使えそうな物がないか探して、干そうと考えた。
兎にも角にもと用事を終えると手間取る事なくその倉庫から出た。
「それ、そのままだと次使い辛くなっちゃうよ?」
びくんっ、と背筋を震わせるように反応してしまったその声の主は言うまでもなくリールスだった。
「そりゃ分かってますけど…洗う水もないでしょ?」
目配せするように黙々と解体しているフルトーさんの方に視線を向けるが、他の視覚的情報と合わせても、案の定という結果しか見い出せなかった。
「任せて、魔法って便利なんだよ?」
「えっ、ちょっと!」
それほど強く持っていなかったとはいえ、彼女は紙ナプキンを取るように滑らかにさっきまで着ていた作業着を自分の右腕に乗せ、俺を引き離すように走った。
狭いこの部屋の中でも動きは軽やかで、流石暗殺者をやっているだけあり、時々死角に入って目で追う事すらできない。
「そんなにですか!?」弄ばれるように彼女は姿を消し、最早居場所の手がかりすらないのでみっともなく狼狽えてしまった。ツッコミでもある、疑問から来る。
「まぁまぁ、任せてって」
狼狽えも空を切って響かなかったように静寂の中からスッと上から現れた彼女はそっと俺の肩を撫でると、どこで拾ってきたか枝をハンガーの要領で作業着をかけてみせた。
「えぇ…」正直不安だった。さっきも目の前で目撃したとはいえ、火花とか出てたし…燃えんじゃないの? たぶんそれ綿製だし。
「まぁまぁまぁ」
根拠を一切示さないまま無駄に自信にあふれた顔でそれの袖を掴み、見覚えのあるプラズマが短く流れた。あまりに気軽にされたので、AEDを連想してしまっていた俺は『きっとも体にこんな感じのが流れんだろうな』と少し戦慄した。
不安がったし、戦慄の気持ちはまだ存在感を主張していたが、それでも好奇心はあったので目を閉じる事なく直視した。褒めてほしい。
するとどうだろう、もう染み込んでしまっていた汗などがぷつぷつと表面に浮き出た。かと思えば元に戻ったり吸収される事なく、なにかの法則を無視してそれらは雨粒のように地面に落ちていった。
「触ってみれば?」
「はぁ…」
渡されたそれは紛れもなく俺の着ていた作業着だ。紛れもなく ―湿気と一緒に汚れも流され、何故だか仄かに梅雨に咲く花の匂いがした。
…マジックか何かで入れ替えられたとか、そういうのではないようだ。
「すごい…」
もう感心とか不安とか超えて、自分の中で考えるベースのようなものが ―思考の根本がいじくられる気がした。
カン、カン、カン。
まな板代わりの滑らかで平たい岩と短剣が使い主の溜息を代弁するようにそう音を立てた。
「あぁー…終わった終わった」
背伸びをして腕をピンっと張ったら、腕と肩を一つを一直線にまとめてから倒すように後ろに移動させて、肩の動く限り一周させる。
「んぁっ…」
首を右回り、左回り。はぁ、と息を吐き、邪魔だからと外していた仮面を再び被る。
誇らしげにほくそ笑む彼女と変に困惑している俺を一瞥し、
「飯の時間だ」と優し気な声をして。
新調して心なしか少し光沢の見える鍋を
焚火を上から被せるように、円に四足歩行の足が生えたような台座に設置する。手の内側についた錆だか煤だかがついてしまわないように、指を使うと意識して鍋をその台座の上に載せる。
台座との対比もあるのか、新調して新調して心なしか少し鍋に光沢があるように見える。
北側にあった油壷を持ち上げ、その鍋に注ぐ。あまり底が深いとは言い難いので八割を満たしても使われた量は少なく、熱されるのは早かった。
「何にするんです?」
「素揚げ」
こんなに油使ってるんだから揚げ物とは思ったが、素揚げか…衣、ないと寂しいかな。
「とは言っても素材そのままじゃないけどな」
そう言って彼は何か肉団子のようなものをバチバチと音のする黄色いそれの中に放り込んだ。
「岩潜亀竜は可食部が少ない。だが壺口魚は毒素を処理できれば割と可食部は多い。今回は壺口魚の内臓にそれの肉と岩潜亀竜のやつを入れて水増ししてる」
もう思うと餅巾着みたいなものだろうか?…揚げ餅巾着を想像できないから、この考えはここでおしまいだったけど。
《本日の食事》
~『ロヴァトーカとゴグウンの内臓詰め揚げ』~
感想:話によればどうやら獣人と呼ばれる種族に伝わる郷土料理らしく、『フェクロロ』と言うらしい。壺口魚の肺や心臓は薄く、揚げられるとサクサクとした良い食感をしていて、その中に詰められた肉は二種類入っているからか歯応えが違った。一方は柔らかくて溶けかけで脂身っぽく、もう一方は小さく切られているけど硬い…多分後者が岩潜亀竜なんだろう。
「そういえばですけど、何の油使って揚げたんですか?」
「足りなくなる度に適当に混ぜてるからこれといって何の油ってのはないが…最近混ぜたのだと氷鯨の一種だな。商人と物々交換だったから本物じゃない可能性も充分にある」
一応は鯨油か。だったら油が黄色かったのも分かる。…迷宮で鯨油?地下に鯨でもいるのか?
「氷鯨…近くだと第二十層の『月呼びの湖』にいる薄氷若君ってやつだろうね」
「あの小さい奴か?…ぼられたか」
湖あんの? 地下なのに? …まぁ、今日も溶岩洞とか行ったし、今更湖とかって感じではあるけど…いやねぇわ!流石に湖はないし、鯨はもっとないわ! 何この以上空間、怖くなってきたんだけど…
怪訝そうな顔をしてもしょうがないと、気を抜いてそこらに目を向けてみると、冷静に考えるとおかしな点を見つけた。
「フルトーさん、仮面外さないんですね」
「…そうか、着けたまんまだったか…」
もしかして気付いてなかったの? そんな頭すっぽり覆える骨を着けといて?
「ははっ、よくあるよくある! わたしの兄さんも入浴中なのに眼鏡着けっぱなしで『なんで外さないの』って思ってたなー…慣れちゃうよね、そういうの」
「必需品なだけに、あるのが当たり前だからな。…しかし冷静になると食べ辛いな。外すか」
あるあるネタはこの世界でも共通らしく、そこだけは安心できる。
蝋か何かを塗られているのか普通の骨よりも一層白い仮面が外され、しかし、そこから現れたのは人のものとは思えない目が眩む程の純白。その骨の鹿が生前そうであっただろうように神々しさと間違う程に別格凛々しく、整えられたそれは黄金比ともいうべき完成された美の一大傑作。史上いつを探してもそれを一部でも形容できる言葉はないだろうという確証を持てるそれを既存の分類では不足が過ぎる、勇ましくもあり美麗でもあり、強いて言えば"絶対的な美しい系"だろう。
人間という題材に於いて完成され尽くした神の耽美の粋ともいえる人外の…自分で言ってて馬鹿馬鹿しくなる程、別の生物感がするからこそ妬みも羨ましさの類も感じない。
APP19はSUNチェック対象だろ、普通。
「…流石に着けすぎたか」
「こんな地下で物々交換とかするくらいなのに、よくそんな容貌でいられますね…リールスもそう思わな―」
そうして視線を彼女の方に向けると、どこか気の抜けて ―魂を意識でギリギリ繋いでいるだけであるかのように浮世離れしたのほほんとした彼女の表情は完全に変わっていて、それに内包された感情は崇拝とでも呼ぶべきものだった。
―お前もか。あんたも充分綺麗だけどね!
「リール…」
「貴方!」
名前を呼び切る前に彼女は視界から消え、声が背後で聞こえるだけだった。
「わたしとッ! 子供作らない!」
はいっ!? 身を乗り出して何を言うかと思えば、今それ!? そんなにですか!?
ホントに美しいって罪だな…人からこんなに冷静さを奪ってしまうなんて。
「貴方の遺伝子があれば、わたし達の子孫は末代までそれだけで食べていける!」
―冷静でした。冷静におかしくなってました。
「そんな恩恵あんの…?」
「君は侮ってるね! 人間見た目の美醜が十割、そこで成功しなきゃ世の中全ての人が関わる物事に失敗するも同然よ! 世の中醜い者がほとんどよ、美しい者は美しいというだけで求められるの!」
「心が醜いからかなっ!?」
俺自身は決して容姿が優れているとは言えないから、なんとも聞くのに辛い話だ。
「そうかも…でもね、実体験がそれを否定できないんだよ…」
戯ける雰囲気も一変、彼女の語り口はどこか感傷的なものになった。
明るい日の差す小麦畑の一か所を切り取って、それを染料にして色を付けたような金髪が揺れ、一瞬翡翠色の光が俺の目にも映る。
どこを向いていたのかは判らない。
彼女の持つ皿に残った黄色い油はそれを現像してくれない。
彼女の見る炎は答えてくれない。
彼女の声しかない。
「世の中、美しくなくても充分に生きられるよ。努力とか才能とかそういう次元でなら、うん、それは確かだよ」
腰に差した短剣を引き抜き、膝の上に置くと子猫か何かを相手しているように撫でてみせた。
「わたしだって色々したんだよ? 君がどう思ったかは分からないけど、色々工夫してみたんだ…魔法陣を彫ってみたり…胸の間と腰の後ろと、あとお腹ね…我ながら三つもよくやったと思うよ」
自嘲するように口角を上げて気持ちを取り繕ったが、見えない筈の瞳は素直だった。
短剣の柄のあたりにはなにやら文字が刻まれていて、長さからして文や詩ではない。かといって単語かといえばそれは短すぎる。きっと名前だろう ―職人か、きっと送った者の名だ。
「…話がずれたね…色んな手段で実力をつける事は出来る、ただそれは"ただ強くなる"だけよ。最高になるには美しくないと ―英雄譚は謳われ、語られるに足るものでなければならない」
この言葉達は目的語を持っていない。話されて、手離されても、それでも目的地が設定されていないから、ただ放されただけだから自分のところに帰ってきてしまう。そういう類の話だ。
「美しくなくても生きられるし、強くもなれる、それは確かだよ。けど、それと同じくらい美しくないと最高になれないのも確かだよ」
正直俺にはピンとくるものではなかった。彼女の言ったそれは『いくら努力しても美しくなくては出来ない物事がある』という内容だ。なら、釈然としなくて当然だ。
第一に俺はこれといって努力と呼べる研鑽をしていない。
自分で言っててどこかが痛くなるが、それでも事実実を結ぶような努力はしてこなかったのは事実だ。
そう思うと、俺なんかが"工夫"までしたリールスと話していいのか ―俺にそんな資格があるのか判らなくなってくる。
この話はきっと、俺よりフルトーさんに刺さる話だろう。
彼、特に美麗ではあるけど実力は"才能よりも経験"の努力型だろうし。
彼女の心境とは異なり、俺の心はあまり響かずに、それでもなにかを考えようとして無理と解っていながらも無暗な悶懐が頭をノイズのようにぐちゃぐちゃな…幼稚園の時何を言われてるのかも判らずに適当に描いた曲がった線ばかりの雑な模様が生まれる。
だから、もうこの話は終わらせなきゃ。そうしないと、考えてばかりじゃどうにも出来ない ―自分がそういう人間だと知ってるから。
「…場違いかもしれないですけど、俺からしたらリールスもフルトーさんも、充分に綺麗だと思うんですが…エルフってそういうもんですか?」「ん?…まぁ、そうだな」
真剣に聞いていたのか、それとも抑々聞いていなかったのかフルトーさんの反応は咄嗟だった。
「…いや、今の答えじゃ因果が逆だな」
「逆?」
「歴史的に言えばエルフが美しいんじゃなくて、美つくしいの基準にエルフがいるって方が適切だな」
因果が逆ってそういう事ですか…歴史的に言えば、か。
まずその歴史知らないんだよな。
「どういう意味? リールス」
「…ごめん、わたしそういうの学んでないんだ。抑々学校行ってないし、本を読もうにも読み書きとか出来ないし」
耳打ちを求めてはみたものの、どうやら人選ミス。さっき涙目っぽかったし、そりゃ当然。
…まいったな、もう消去法的にちゅーたに訊くしかないじゃん ―とはならない。ネズミのちゅーたが求めている意味を知っていたとして、俺はネズミの言葉が解らないから教えられても解らない。つまりは無意味だ。だから正解は普通に分からないとフルトーさんに正直に訊くべきだ。
ネズミに縋るか、縋らざるか。ここが正気と狂気の分水嶺…は言いすぎか。
「…どういう経緯でそうなったんですか?」
そう訊かれたフルトーさんもまいったというような表情をして、目の間あたりを人差し指と中指でコンコンと叩くと「あまり上手じゃないが…」と前置きしてから話を始めた。
「宮歴や塔歴が始まるよりも前の時代、まだエルフがこのシンス・ピーリス大陸のかしこに村があったような時代に或る戦争があってな。今から考えると小規模なんだが、当時としては未曾有の規模の戦いで、森の奇妙な精霊紛いの異種族という認識エルフも参戦させられた。その戦争で彼らの居た陣営は敗北し、生き残った一部が奴隷として市場に流れる事になった。大規模な戦争で、記録からしてエルフの参戦人数も多く、直接戦闘をしなかった者を含めても三万人はいたらしい。だが抑々生命力がある種族じゃないし、終戦時に生き残った者は極めて少なかった。だから市場に流れたとは言ってもその希少性から買えたのは一部の大領主か王くらいのもので、結果的に『エルフの奴隷を所持する』するというのは上流階級の特権性を可視化する結果にもつながってだな…」
「…」
完全においてかれました、話に。
多分基礎的な知識 ―平安時代の事件を語ってるくらいなんだろうけど、生憎俺はこの世界の平安時代を知らない。宮歴とか塔歴って何? 如月とか弥生とかその感じ?専門用語が二行に四つ以上あると不適切とはよく言ったものだ…誰が言った言葉だっけ?
「まぁ、つまり『大昔に権力の象徴として特別視されてた』ってのが理由とされてる」
そういう…なるほどね、まとめられればある程度は納得できる。
言い方はあれだけどジャガイモが普及したようなもんか。マリーアントワネットに花を身に着けさせるとか、名前は出てこないけどあの王様よくやったもんだ。…この場合は彼のとは違って意図したものではないだろうけど。
不完死屍―燃やしてみて判った事だけど、名前通りに"まだ死んでない"ってだけで"死なない"訳ではないらしい。しばらく燃やしたら再生せずに少し白い灰となった。
「お開きだな…なぁリールス―」
「分かってる、口外は厳禁だよね?」
「あぁ、そうだよ。…他の依頼人とかと同じく、守秘義務で頼む。こっちも色々あってな」
帰り支度でマントを羽織って緑一色の姿となった彼女は隠し扉の前で立ち止まり、なにかを求めてこちらを振り向いた。
改めてみると、結局その悲し気な表情がどうしてなのかとか、彼の依頼人らしいヨアレスの言っていたローリルとは知り合いなのかとか、解らない事は多かったと思う。
「…ねぇロゥ君、わたしは君がどういう道を歩むのかは判らない」
感傷的な風で、そうでもない様子で、真意を悟らせない暗殺者らしい面持ちでそう云った。
「彼と一緒に過ごして、もしわたしや彼と同じような道を歩むのだとしたら ―君を仮にも同業者として尊重して、わたしなりの後輩への助言を言うのなら『《潜風猫には気をつけて』」
「はい…?」
「釈然としないよね…!」
自嘲気味な言葉ではあったが、その浮かべられた笑顔は屈託のないものだった。
少なくとも、そう思えた。
歯車が動き、隠し扉が閉まった。
朝と同じ状況だ。俺とフルトーさんとちゅーた、その三人。
「…」
一瞬だけだった。けれども、彼女の残したものは存外大きなものだったと思う。
今更になって彼女に見せられなかった首の傷がびくびくと動くような気がする。
彼女のいなくなったこの部屋が、こんなにもがらんとしているように感じるなんて―
助けられたな、と思った。
【ひとこと】
我ながら揚げ餅巾着ってあんまり想像つかなかった。
至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いいたします。