【第二十三話】呪われた罪(2)
呪枝の騎士、プラガハを撒く為に使った高出力の《不尽世炎》。その炎の余韻は一度、この仲介水槽の床を浸していた水のほとんどを蒸発させた。隕石が落下した時のような轟音を周囲に響かせ、世界を黙殺させるような強い殺意は既に薄れたようだった。次第に再び仲介水槽は水に浸される。気付かぬうちに、動けばそれを覚られてしまうようになる。鈍重な獣相手には過ぎた警戒だが、今では不足しているとも言える。いわば第二形態だ、切り替えていこう。
フルトーさんと俺の二連撃で巨大鼠の頭と、その中の生溶肉を斬る事は出来た。刃を通した瞬間、中の異物は暴れる間もなく、まるで最初からそうであったかのようにさらさらとした水のようになった。振り下ろしきるまでに最後の、意地の猛攻と言わんばかりに濁流のように突撃してきた流れもあったようだが、それも儀剣に触れた途端、清浄な異常さへと姿を移す。そうして頭部を破壊された目の前の敵は今までの単純な動きからは想像もできないほど素早く、巨大鼠の姿を騙る必要もなくなったそれは触手のように変容し、鞭のように風を切る。
―巨大鼠の姿が変容していく。
口を失い無制限となった奔流に乗せられ、喰われた人形が吐き出される。金属の鎧、上品な絹衣。罪なき少女達、罪深き老人達。容赦せず、差別せず、一つの肉塊となり、流動するピンク色の肉液として吐き出される。貴賤問わず、平等に無惨にぶちまけられる。
天井に、床に、柱に、壁に、誰もいないどこかに、飛び散る。
なんで生きたかなんて関係なく、どう生きたかなんて考慮せず、水っぽい肉の認識できない《なにか》として溶け合い、憎しみや無愛を殺されて閉じ込められる。
吐き出し終えると、その反動の名残を残しながら次に身体は震える。バグの起きたコンピュータのようにどこか無機質な異常が有機的な肉体を動かす。震え、肉が解けるなか、ふと突き刺さった武器が表層化する。過去の宿痾を無理矢理追放するように、病に蝕まれて ―今まで致命傷にすらならなかった奴の身体に突き刺さっていた勇者達の武器が押し出される。押し出され、ぶちまけられた肉塊に紛れ、沈む。
その中にふと、覚えのある剣を見つけた。
憶えがあるわけではない。感覚として、知っている ―かつての面影を。今の穢れたる姿を。
「あの中にッ!」
咄嗟に体が動く。そうしてしまうと何故だか、少年期を思い出す。
純粋で邪悪だった年端もいかない少年期、その夏の思い出を。涼しかった、いや、暑かった。確定はさせられない、確実な記憶ではない。もう感覚もない、風化して中心の視界の部分が残った朧げなる記憶。そこでは湖の近くを歩いていた。アイスクリームを食べたかったのか、スワンボートに乗りたかったのか、それとも兄弟ばかりが構われていたからか? 思い出せない。経緯のない蔑ろにされた悔しさだけのある、いじけた人間の光景。どこか俯瞰していて、だがありありと気持ちは伝わる気持ちの悪い映像。解るのはその登場人物が自分という事だけ。その他は判らない、映画でもオペラでも付属のパンフレットを見ても、浅い内容しか書かれていないようにその記憶以外の何を探しても似たような感覚はない。独立して共通点のない特異な…いや、孤立した寂しげな記憶。
―そんなのと何が似ている?
―判らない。
判らないんだ、どう考えても。ただその記憶を観た時の感想はいつも同じだと思う。「あぁ、無茶してるな。馬鹿だな」っていう、自分と判ってるからこその容赦のない蔑みの産物。
今動いた俺はその記憶のように俺自身を俯瞰している。無茶だなと、馬鹿だなと思っている。
だから確信めいたものがあった。俺はあの時湖のほとりをほっつき歩いた事を蔑み、そこから踏み出し、水面のガチョウを捕まえようとした事を馬鹿だと思う。だが、その行動は馬鹿にしても、その行動原理は馬鹿にしていない。
―確かあのガチョウは、ビニール袋を飲み込んだ筈だ。吐き出させようとしたのは覚えてる。
今もそうだけど、方法も知らないまま、"そう思ったから"飛び込んだ。
「待てッ!」
意図せずに、直感だけが困惑した理性を押し退けて俺の体を突き動かす。幸いフルトーさんにより腕を掴まれ、引き留められた。今度は、助かった。
もし留められなかったら、どうしていたんだろう? 言葉を語らない身体感覚に伺うが、勿論言葉は返ってこない。そりゃそうだろう、もう手放したものを問うているようなものだ。
そんな直感はもう既に感覚から俺の理性に届いている。身体感覚は語らない、だから俺が語るんだ。
― 体は止められても、心はより激しく動こうと荒ぶっている。
「剣が見えたんです! 黒くもないし、呪われてるって風でもない、けどちゃんと騎士の ―プラガハの剣だったんです!」
「…つまり」
検討は考えてくれている、なら、もっと押さなきゃ!
「プラガハは目の前の敵の中にいるッ! 出さなきゃ…報われなきゃ、葬らなきゃッ…!」
「…物は試しだ。やってはみよう ―働けよ?」
「はい!」
彼の目が見えたわけじゃない。もし見えたとしても、それでも心の奥底まで見透かせるわけじゃない。なのに彼の言葉に大きな信頼を感じるのは、きっと、ずっと恩人だからだ。助けてください、俺、無茶したいんです。
変容は続く、より異質な存在へと、その変質が終了するまで。まだだまだだと、巣食った宿主を破壊し続ける。ひびが入ったガラスのコップを捨てるように、一度の傷をきっかけにその器を面影をなくす勢いで崩壊させる。今までを見限って…
内臓が曝け出される。生きた痕跡が消える。肉体の隙間という隙間から黒い煙か靄が湧き出る。その幻影はよく見ればそれが痩せ細った人面だと気付く。そしてそれが僅かな風に流されて頬に触れる時、煙でも靄でもなく、質量を持った冷たく、だが仄かに暖かい異様の別世界から漏れ出た瘴気の類であると。
目の前の敵は、魔獣ではない。獣などではない、その皮を被った ―今や化けの皮が剝がれた魔物だ!
「…」
威嚇をしない、なのに攻撃はする。鳴きもしない、なのに意思はある。眠りもしないのに、繫殖もしないのに、食べはする、生物。捕食する、魔物。
斬り落とされた頭のあった部分には隠す事なく玉虫色の肉塊が触手状になって伸びている。触手は素早く伸び縮みして鞭のように動き、だがそれは無秩序に生えているわけではなく、球体のような中心の縁とでも言ったらいいのだろうか、花の花弁のように生えている。
花、か…いい例えかもしれない。頭部のあたりの中心が球体になっているとは描写したが、それは別に何の特徴もない球体というわけではない。描写したくなかったが、そこには目を模したような円が集合体恐怖症真っ青な程びっしりと…流石に自分でもこの情報を引き続き持ちながらでは心が疲弊するので、この頭部 ―ひいてはこの変質した魔物を『陽探向の華』とでも呼ぼう。読みづらいというのならムーンビーストとでも呼ぶといい。俺は嫌だ。
姿形は変わらないところもある、だがそれも無意味だろう。攻撃の頻度も手段も大きく増している。呪面の瘴気が追尾し、それを避けようと不用意に動けば触手の範囲内となりぶん殴られる。後方に位置取ろうとすると、急に後退して潰しにくるし、なんなら突き刺さっている武器が盛り出て落ちてくる。
「前後隙なしね…」二分ほど戦ってみて、嘆くように呟いた。
「好きな死に方選び放題だぞ?」
「なにも嬉しくないです!」
フルトーさんは虎視眈々と機会を狙っているからか言葉遊びで返してくれる程度には案外余裕そうだったが、それは彼が戦争で前線で戦っても生き残れている猛者だからであって、俺は正直余裕がない。
儀剣があるから、タイミングさえ合えば生溶肉は倒せる。だが、元の巨大鼠の部分を使った攻撃はどうしようもない。対処しようもない超質量によるその重みを活かしたシンプルに『素早く重い』動きはそれだけで脅威で、小細工のしようもない俺では有効な手札はない。
…そもそも生溶肉でさえ"タイミングが合えば"の話、見切れる訳なんてないのでほとんど偶然でしか斬れない。触っているだけで水になっていくので、精々横向きに持つくらいしか取れる対策がないのが辛い。
第一形態…と便宜上呼ばせてほしい巨大鼠時から難易度は上がっているものの、生き残れてはいる。距離を置いても触手の攻撃は受けるが、儀剣があるので途中でダメージを減らせている。ただそれも防御というよりはパリィに感覚としては近いもので、集中を切らしたら多分一瞬でやられる。
回避を念頭に置いていると、呪面の瘴気にムカつく。高火力で隙の多い巨大鼠のフィジカルと、威力はないが鞭のように鋭く早い生溶肉の触手(と偶に溶解液)を以てこの狭い仲介水槽を自由に暴れている時でも、瘴気は三次元的に動き、なによりも他の攻撃より遅い。実際に浮かんでいるのが煙であるかのように明確な攻撃としての側面がないのではないかと思うほどにその速度は遅い。多分本当に漏れているところから見るに攻撃というよりは"自然とそうなっている"ってだけなんだろうな…却ってやりづらいじゃねぇかよ、狙いのない ―意図されていない攻撃なんてマジで邪魔なだけの焦らしだろ!
攻撃は続く。明確に体力や疲労があるとは思えないので、その猛攻から健在なのか、追い詰められているのかすら判別できない。伸るか反るか以前に、勝率とか叩き出す前に、賭けになるのかすら判らないから現状打開の大胆な行動すら機会がない。フルトーさんが積極的に攻められないのも多分それが原因だ…
「…ぁふっ」
次第に触手の攻撃速度に慣れ、多少見切れるようになっていく。有効打を叩き込める勝算が生まれる。…多少でも、無茶をしよう。確実なんて言えなくても消極的な意思から無駄な自信が湧いてくる。
…末期だ。抑える為にも一回痛い目みて、教訓にしてやるッ!
「…今っ」風に吹かれた藁のように体は押し進められた。
身体に力は入らない、入れる必要がない。相手は生溶肉、こちらには儀剣 ―今俺の持つ手札の中で唯一無策で出しても問題のない、あの玉虫色の肉塊に対してはまさに天敵のような切り札。俺はそれを支えて、振ればいい。力を入れなくても斬れる、無力化できる。だから俺がするべきなのは確実に足を進めて、一歩分でも近づいて、持つ腕が吹き飛ばされる事無く、ちゃんと斬る。
一歩進む、水が冠状に逃げる。
また一歩進む、水がまた逃げる。上から触手が攻撃するが斬り上げると隙を突かれて腕を撥ね飛ばされるかもしれないので可能な限り腕を身に密着させ、勘で左側に避ける。
次はないか、流し目で元居た場所を確認する ―よかった、まだ一歩踏む出せる。
そうして水切りの跳ねる石のように、強く踏み込む事なく、軽く、軽く動く。
そうしていて ―紙一重で躱し続けていて怖くないのかって?
…怖いよ、そりゃ。当たり前じゃん、死ぬの怖いし、この行動の先でなにかが成し遂げられる保証もない。誰も成功の約束の存在なんて言ってくれていない…多分無いんだろう。結末なんて、解らない上に理解不可能なものでも予定されていない。
ただ、予測は出来る。歪まない予想はある。
既視感というのか、デジャヴュというのか、以前にもこの感覚を体験した気がする。なにをしているかは大切じゃない、それは大切な要素じゃない、それが繋がる因果じゃない。
大切なのは感覚だ。靴がびちゃびちゃに濡れて、晒されている足首が冷える。変に寒くて、蒸しっぽい。そして心はこう呟く。まるで赤の他人のようにオペラや映画のような見せ物の前で言うように冷淡な調子で、あぁ、無茶してるな。馬鹿だな」っていう、自分と判ってるからこその容赦のない蔑みを向けられる。
さっきもあっただろ、真正の士、プラガハを撒く為に使った高出力の《不尽世炎》。その炎の余韻は一度、この仲介水槽の床を浸していた水のほとんどを蒸発させた。隕石が落下した時のような轟音を周囲に響かせ、世界を黙殺させるような強い殺意は既に薄れたようだった。次第に再び仲介水槽は水に浸される。気付かぬうちに、動けばそれを覚られてしまうようになる。鈍重な獣相手には過ぎた警戒だが、今では不足しているとも言える。いわば第二形態だ、切り替えていこう。
フルトーさんと俺の二連撃で巨大鼠の頭と、その中の生溶肉を斬る事は出来た。刃を通した瞬間、中の異物は暴れる間もなく、まるで最初からそうであったかのようにさらさらとした水のようになった。振り下ろしきるまでに最後の、意地の猛攻と言わんばかりに濁流のように突撃してきた流れもあったようだが、それも儀剣に触れた途端、清浄な異常さへと姿を移す。そうして頭部を破壊された目の前の敵は今までの単純な動きからは想像もできないほど素早く、巨大鼠の姿を騙る必要もなくなったそれは触手のように変容し、鞭のように風を切る。
―巨大鼠の姿が変容していく。
口を失い無制限となった奔流に乗せられ、喰われた人形が吐き出される。金属の鎧、上品な絹衣。罪なき少女達、罪深き老人達。容赦せず、差別せず、一つの肉塊となり、流動するピンク色の肉液として吐き出される。貴賤問わず、平等に無惨にぶちまけられる。
天井に、床に、柱に、壁に、誰もいないどこかに、飛び散る。
なんで生きたかなんて関係なく、どう生きたかなんて考慮せず、水っぽい肉の認識できない《なにか》として溶け合い、憎しみや無愛を殺されて閉じ込められる。
吐き出し終えると、その反動の名残を残しながら次に身体は震える。バグの起きたコンピュータのようにどこか無機質な異常が有機的な肉体を動かす。震え、肉が解けるなか、ふと突き刺さった武器が表層化する。過去の宿痾を無理矢理追放するように、病に蝕まれて ―今まで致命傷にすらならなかった奴の身体に突き刺さっていた勇者達の武器が押し出される。押し出され、ぶちまけられた肉塊に紛れ、沈む。
その中にふと、覚えのある剣を見つけた。
憶えがあるわけではない。感覚として、知っている ―かつての面影を。今の穢れたる姿を。
「あの中にッ!」
咄嗟に体が動く。そうしてしまうと何故だか、少年期を思い出す。
純粋で邪悪だった年端もいかない少年期、その夏の思い出を。涼しかった、いや、暑かった。確定はさせられない、確実な記憶ではない。もう感覚もない、風化して中心の視界の部分が残った朧げなる記憶。そこでは湖の近くを歩いていた。アイスクリームを食べたかったのか、スワンボートに乗りたかったのか、それとも兄弟ばかりが構われていたからか? 思い出せない。経緯のない蔑ろにされた悔しさだけのある、いじけた人間の光景。どこか俯瞰していて、だがありありと気持ちは伝わる気持ちの悪い映像。解るのはその登場人物が自分という事だけ。その他は判らない、映画でもオペラでも付属のパンフレットを見ても、浅い内容しか書かれていないようにその記憶以外の何を探しても似たような感覚はない。独立して共通点のない特異な…いや、孤立した寂しげな記憶。
―そんなのと何が似ている?
―判らない。
判らないんだ、どう考えても。ただその記憶を観た時の感想はいつも同じだと思う。「あぁ、無茶してるな。馬鹿だな」っていう、自分と判ってるからこその容赦のない蔑みの産物。
今動いた俺はその記憶のように俺自身を俯瞰している。無茶だなと、馬鹿だなと思っている。
だから確信めいたものがあった。俺はあの時湖のほとりをほっつき歩いた事を蔑み、そこから踏み出し、水面のガチョウを捕まえようとした事を馬鹿だと思う。だが、その行動は馬鹿にしても、その行動原理は馬鹿にしていない。
―確かあのガチョウは、ビニール袋を飲み込んだ筈だ。吐き出させようとしたのは覚えてる。
今もそうだけど、方法も知らないまま、"そう思ったから"飛び込んだ。
「待てッ!」
意図せずに、直感だけが困惑した理性を押し退けて俺の体を突き動かす。幸いフルトーさんにより腕を掴まれ、引き留められた。今度は、助かった。
もし留められなかったら、どうしていたんだろう? 言葉を語らない身体感覚に伺うが、勿論言葉は返ってこない。そりゃそうだろう、もう手放したものを問うているようなものだ。
そんな直感はもう既に感覚から俺の理性に届いている。身体感覚は語らない、だから俺が語るんだ。
― 体は止められても、心はより激しく動こうと荒ぶっている。
「剣が見えたんです! 黒くもないし、呪われてるって風でもない、けどちゃんと騎士の ―プラガハの剣だったんです!」
「…つまり」
検討は考えてくれている、なら、もっと押さなきゃ!
「プラガハは目の前の敵の中にいるッ! 出さなきゃ…報われなきゃ、葬らなきゃッ…!」
「…物は試しだ。やってはみよう ―働けよ?」
「はい!」
彼の目が見えたわけじゃない。もし見えたとしても、それでも心の奥底まで見透かせるわけじゃない。なのに彼の言葉に大きな信頼を感じるのは、きっと、ずっと恩人だからだ。助けてください、俺、無茶したいんです。
変容は続く、より異質な存在へと、その変質が終了するまで。まだだまだだと、巣食った宿主を破壊し続ける。ひびが入ったガラスのコップを捨てるように、一度の傷をきっかけにその器を面影をなくす勢いで崩壊させる。今までを見限って…
内臓が曝け出される。生きた痕跡が消える。肉体の隙間という隙間から黒い煙か靄が湧き出る。その幻影はよく見ればそれが痩せ細った人面だと気付く。そしてそれが僅かな風に流されて頬に触れる時、煙でも靄でもなく、質量を持った冷たく、だが仄かに暖かい異様の別世界から漏れ出た瘴気の類であると。
目の前の敵は、魔獣ではない。獣などではない、その皮を被った ―今や化けの皮が剝がれた魔物だ!
「…」
威嚇をしない、なのに攻撃はする。鳴きもしない、なのに意思はある。眠りもしないのに、繫殖もしないのに、食べはする、生物。捕食する、魔物。
斬り落とされた頭のあった部分には隠す事なく玉虫色の肉塊が触手状になって伸びている。触手は素早く伸び縮みして鞭のように動き、だがそれは無秩序に生えているわけではなく、球体のような中心の縁とでも言ったらいいのだろうか、花の花弁のように生えている。
花、か…いい例えかもしれない。頭部のあたりの中心が球体になっているとは描写したが、それは別に何の特徴もない球体というわけではない。描写したくなかったが、そこには目を模したような円が集合体恐怖症真っ青な程びっしりと…流石に自分でもこの情報を引き続き持ちながらでは心が疲弊するので、この頭部 ―ひいてはこの変質した魔物を『陽探向の華』とでも呼ぼう。読みづらいというのならムーンビーストとでも呼ぶといい。俺は嫌だ。
姿形は変わらないところもある、だがそれも無意味だろう。攻撃の頻度も手段も大きく増している。呪面の瘴気が追尾し、それを避けようと不用意に動けば触手の範囲内となりぶん殴られる。後方に位置取ろうとすると、急に後退して潰しにくるし、なんなら突き刺さっている武器が盛り出て落ちてくる。
「前後隙なしね…」二分ほど戦ってみて、嘆くように呟いた。
「好きな死に方選び放題だぞ?」
「なにも嬉しくないです!」
フルトーさんは虎視眈々と機会を狙っているからか言葉遊びで返してくれる程度には案外余裕そうだったが、それは彼が戦争で前線で戦っても生き残れている猛者だからであって、俺は正直余裕がない。
儀剣があるから、タイミングさえ合えば生溶肉は倒せる。だが、元の巨大鼠の部分を使った攻撃はどうしようもない。対処しようもない超質量によるその重みを活かしたシンプルに『素早く重い』動きはそれだけで脅威で、小細工のしようもない俺では有効な手札はない。
…そもそも生溶肉でさえ"タイミングが合えば"の話、見切れる訳なんてないのでほとんど偶然でしか斬れない。触っているだけで水になっていくので、精々横向きに持つくらいしか取れる対策がないのが辛い。
第一形態…と便宜上呼ばせてほしい巨大鼠時から難易度は上がっているものの、生き残れてはいる。距離を置いても触手の攻撃は受けるが、儀剣があるので途中でダメージを減らせている。ただそれも防御というよりはパリィに感覚としては近いもので、集中を切らしたら多分一瞬でやられる。
回避を念頭に置いていると、呪面の瘴気にムカつく。高火力で隙の多い巨大鼠のフィジカルと、威力はないが鞭のように鋭く早い生溶肉の触手(と偶に溶解液)を以てこの狭い仲介水槽を自由に暴れている時でも、瘴気は三次元的に動き、なによりも他の攻撃より遅い。実際に浮かんでいるのが煙であるかのように明確な攻撃としての側面がないのではないかと思うほどにその速度は遅い。多分本当に漏れているところから見るに攻撃というよりは"自然とそうなっている"ってだけなんだろうな…却ってやりづらいじゃねぇかよ、狙いのない ―意図されていない攻撃なんてマジで邪魔なだけの焦らしだろ!
攻撃は続く。明確に体力や疲労があるとは思えないので、その猛攻から健在なのか、追い詰められているのかすら判別できない。伸るか反るか以前に、勝率とか叩き出す前に、賭けになるのかすら判らないから現状打開の大胆な行動すら機会がない。フルトーさんが積極的に攻められないのも多分それが原因だ…
「…ぁふっ」
次第に触手の攻撃速度に慣れ、多少見切れるようになっていく。有効打を叩き込める勝算が生まれる。…多少でも、無茶をしよう。確実なんて言えなくても消極的な意思から無駄な自信が湧いてくる。
…末期だ。抑える為にも一回痛い目みて、教訓にしてやるッ!
「…今っ」風に吹かれた藁のように体は押し進められた。
身体に力は入らない、入れる必要がない。相手は生溶肉、こちらには儀剣 ―今俺の持つ手札の中で唯一無策で出しても問題のない、あの玉虫色の肉塊に対してはまさに天敵のような切り札。俺はそれを支えて、振ればいい。力を入れなくても斬れる、無力化できる。だから俺がするべきなのは確実に足を進めて、一歩分でも近づいて、持つ腕が吹き飛ばされる事無く、ちゃんと斬る。
一歩進む、水が冠状に逃げる。
また一歩進む、水がまた逃げる。上から触手が攻撃するが斬り上げると隙を突かれて腕を撥ね飛ばされるかもしれないので可能な限り腕を身に密着させ、勘で左側に避ける。
次はないか、流し目で元居た場所を確認する ―よかった、まだ一歩踏む出せる。
そうして水切りの跳ねる石のように、強く踏み込む事なく、軽く、軽く動く。
そうしていて ―紙一重で躱し続けていて怖くないのかって?
…怖いよ、そりゃ。当たり前じゃん、死ぬの怖いし、この行動の先でなにかが成し遂げられる保証もない。誰も成功の約束の存在なんて言ってくれていない…多分無いんだろう。結末なんて、解らない上に理解不可能なものでも予定されていない。
ただ、予測は出来る。歪まない予想はある。
既視感というのか、デジャヴュというのか、以前にもこの感覚を体験した気がする。なにをしているかは大切じゃない、それは大切な要素じゃない、それが繋がる因果じゃない。
大切なのは感覚だ。靴がびちゃびちゃに濡れて、晒されている足首が冷える。変に寒くて、蒸しっぽい。そして心はこう呟く。まるで赤の他人のようにオペラや映画のような見せ物の前で言うように冷淡な調子で、あぁ、無茶してるな。馬鹿だな」っていう、自分と判ってるからこその容赦のない蔑みを向けられる。
―さっきもあっただろ、真の馬鹿なんじゃないのか?真性の阿呆なのか?
―うん、確かに。前もあった。うん、言う通りだ、俺は馬鹿で阿呆なんだろう。否定のしようもない。
―じゃあ、なんでやってんだよ? 結末分かってんだろ?
―分かってても、やりたい事ってあるじゃん。わかんない?
―わかんない。わかりたくもない。まさか快感の為か?
― ………
―図星かよ、呆れた。もういい、無謀な快楽主義にやる言葉なんてないからな!
―勘違いしてるぜ、お前。
―なにが?
―無謀だから、楽しんだぜ?
無貌の計画だから盛り上がれんだぜ? 快楽物質が脳味噌に漬けられて味わい深いんだぜ? そういう珍味の為に、刺激の為に生きんのが最高なんだろ?
だから俺はこの為に生き残ろうとしていた。
この予定調和の、無意味な自己犠牲の為の終わり方を待っていた。待ちわびていた。
ありがとう、陽探向の華、お前の咲く方はあったかいよ。
気持ちいいな、絶体絶命。
【あとがき♠】
デジャヴュで思い出しましたけど、みんな3より前のペルソナシリーズを無き者にしてません?
5面白いのは分かるし、かすみに好感あるけどさ…
静止画madの『Precious butterfly』見てみ? 俺あれで好きになったんや。
至らぬ点ありましたら、どうぞご意見お願いします。
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