9. クレムスの街
この息苦しさで目を覚ますのは何度目だろう。そう思いながらまぶたを開くと白み始めた空に一羽の鳥が飛んでいた。今日も背中だけは暖かく、首を回すとステファンの寝顔がすぐそばに鎮座している。息苦しさの正体は腹部に絡みつく両腕だった。出発時刻から逆算して起きるにはまだ早いが、居心地が悪い。ステファンを起こさないように腕をほどくと、芋虫のように寝袋から這い出た。
ここ数日は同じような朝を迎えている。これまで隣り合って寝ることがなかったため知らなかったが、どうやらステファンには睡眠中の抱き癖があるらしかった。私が抜けたことでステファンは体を寒そうにもぞもぞと動かす。そして数分しないうちに目を覚ました。
「おはよう。もう起きてたんだ」
「ええ」
ステファンの寝起きは私より良い。起き上がると手際よく寝袋を畳んでサラの背中に積み込む。それからは何事もなかったように朝食の準備が始まった。私はサラに体を寄せてその作業をじっと見つめる。
初めての時は夜中に飛び起きてしまった。旅の仲間としてステファンを信頼するつもりでいたが、人に触れられることには抵抗がある。寒かったのかとも考えたが、様子を見ている限りどうやらそうではない。私が悶々としていてもそれに気付きもしない。
「どうしたの?そんなにお腹空いた?」
「別に」
「もうちょっとだから」
ステファンは小さな焚火で器用に調理する。毎回火を起こすのは私のためだ。魔法の行使に支障が出ないよう体力の管理を徹底してくれている。ただし、献立はいつも一緒だった。
「昨日は曇ってたおかげであまり寒くなかった。はい。スープ」
木製のカップを受け取った私は焚火のそばに座る。ステファンに気まずさは見当たらない。寝袋を共有している以上、仕方がない面はある。下心がなければ暖かいだけであり、受け入れてしまえば悩まずに済む。
「見て、あれがウルサ山脈だ」
物思いに耽りながら固いパンと格闘していたところ、ステファンに声を掛けられて顔を上げる。今日は一段と空気が澄んでいて、遠くの景色までくっきりと見える。ステファンが指差す先にはクレムス山脈とほぼ垂直に交わる別の山脈があった。
「あの先がアタカマだ。でも僕が道を知ってるのはウルス山脈の手前まで」
「一週間かからず見えるなんて順調ね」
「本当にそう思ってる?」
ステファンは笑いながら焚火に雪をかけて消火する。今日までの旅路は距離を稼ぐことだけを考えていた。食事と睡眠以外は一日中歩き詰めで、サラの背中にも何度となく世話になった。今も体の節々が痛みを訴えていて、歩くことを嫌がっている。正直なところ、ほんのわずか見えているウルス山脈を越えるなど想像できない。
「きっと同じ調子で歩けば二週間でアタカマに着くと思う。だけどここにきて問題が出てきた」
「なに?」
「食料が足りない。もともとラッサを飛び出してきたから持ち合わせが少なかった。それでも道中、動物を狩って足しにすればいいと思ってたんだけど、予想より雪が深くてそれもできなかった」
「サラは?」
それだったらと私は背後で木の皮を齧っている肉付きの良い馬を見る。それを聞いた瞬間、ステファンは凍り付いてしまった。こちらが首を傾げると苦笑いを浮かべる。
「まあ、最後の手段としてはあるのかな。でもサラには荷物を持ってもらわないと。エレナさんだって道のりの半分は運んでもらったでしょ」
「そうね」
「それにサラとは仔馬の頃からの付き合いだ。家族同然で食べられないよ」
「空腹が酷くなれば愛情も食欲に変わる。本当よ」
軍では生き残るための術が第一に教えられる。ステファンもそれを学んだはずだったが、返ってきたのは引きつった表情だけだった。どうやらステファンの解決策は違うらしい。ではどうするのかと再度首を傾げる。
「実は少し進んだ先にクレムスという麓街がある。危険だとは思うけど、ここに下りて食料を調達しようと思ってる」
「軍が待ち構えてる可能性は?」
「ある。街道を使えばラッサから馬で二日の距離。もし鉢合わせたらエレナさんを頼るしかない。だから同意が得られなければ別の案を考えるんだけど」
「構わない。いつかは戦う相手。早いうちに排除しておくのは良い考え」
「あまり好戦的にならないで。当面の目標はヘントに辿り着くことなんだから」
ステファンは魔法師の戦闘について何も知らない。出会っても逃げればいいという考えは危険だった。それでも、この場では分かったと納得しておく。仮にクラウスやカタリナが姿を見せた場合、その場で決定権を持つのはステファンではない。後から言うことを聞かせればいいだけの話だった。
朝食を終えると全ての片付けを済ませて出発する。山を下る道を選んでいき、早ければ夕方には到着できると聞かされる。そんなステファンの言葉通り、昼過ぎには目視できるようになり、ラッサと比べ物にならないほど大きな街だということが分かった。
サラは途中で置いていく。そのために荷物の整理をしていると、ステファンから身なりを整えるように指示された。山から来たことに気付かれないためだというが、服は汚れていて臭いもそれなりにしているに違いない。結局、髪を整えたほかは大きなコートを羽織って隠すことにした。
「もしもの時のために追手の特徴を聞いておきたいんだけど」
「知る必要ない。戦うのは私」
「でも見たときにすぐ気付けないと」
「襟元に何かバッジがあれば国の魔法師。腰にシンタマニを下げてることが多い」
私はコートを広げて自分のシンタマニを見せる。シンタマニとは魔法師とルサルカの結びつきを強めるための道具である。原理上、これがなくとも魔法を行使できるが、精度や速度が飛躍的に向上するためほぼ全ての魔法師が携行している。
「エレナさんに呪いをかけたのは?」
「グスタフ・ケルゲス。ヴィルゴ家で一番の魔法師」
「あの日、ラッサにも来てた?」
「いいえ」
もし来ていれば私たちは死んでいただろう。この身体ではグスタフに勝てない。ステファンを守りながら戦うなど不可能だった。
「あの場にいたのはクラウス・ハインとカタリナ・ミネッティ」
「強い?」
「一人ずつなら勝てる。けれど二人は師弟。息の合った攻撃をする」
カタリナの魔法は以前と比べて威力が増していた。直接的な脅威になるのはまだ先だが、思い通りに魔法を使えない私との差は縮まっていくばかりである。それを怖く感じるのは今日までの生き様が否定されかねないからだった。
「エレナさんは指折りの魔法師でライバルなんていないものだと思ってた。次期皇帝を守ってたくらいだし」
「そうよ」
「でもその二人を警戒してる」
「クラウスとは同郷で師匠も同じ。魔法の型は違えどお互いに詳しい」
「幼馴染みたいなやつか」
「違う」
私は即座に否定する。ステファンの悠長さにはつくづく驚かされてしまう。殺し合う相手にそんな表現は適さない。魔法師にとって真の味方は自分だけで、いつか敵対したときのために誰とも深い関係を結んではいけないのだ。
「そもそも魔法ってどういうもの?師匠がいるんだね。てっきり選ばれた人だけが使える能力なんだと思ってた」
「ステファン、街はもう近いの?」
「この川沿いに進んであと一時間くらい」
「だったら体力を温存したい」
「ごめん、そうだね」
魔法を嫌うステファンでさえ興味はあるらしい。しかし、私が話題を変えるとそれ以上何も聞いてこなくなった。謝るべきは私の方である。体力は単なる言い訳で、本当は魔法のことを話したくないだけだったのだ。
私たちの価値観は大きく違いすぎている。ステファンは誰とも仲良くすべきだと思っている。経験がないくせに人を殺す時には行儀があると考えていて、魔法を天からの授かりものだと勘違いしている。全て私が捨ててきた考え方で、話を続ければ新しい溝が見つかってしまうかもしれない。それが嫌だった。
雪を踏みしめる音だけが響き、私はステファンの背中を追いながら自分の態度が正しかったのか考える。物別れを恐れて話さなかったにもかからわず、その背中は遠い。心にも妙な違和感が残って仕方がない。何度か躊躇った後、私は口を開いた。
「今度、話す」
「え?」
「魔法のこと」
「うん、わかった。ありがとう」
その一言で随分と足取りは軽くなった。価値観に違いがあるなど当然である。生まれも育ちも全く違っていて、むしろ共通点を見つけ出す方が難しい。同郷のクラウスとさえ心を通わせたことなどないのだ。だからこそ、そんな当たり前のことでステファンと不和を引き起こしたくなかった。